第8話「揺らぎ」
レイナルドが寝室へと入り込んだ時、コーデリアは深い眠りに就いていた。有り得ないほど肥大した身体を丸めて、静かな寝息を立てている。
不思議なことに今晩は一切の食事をしていないようだった。
それは果たして初めて食したものの味に深い満足感を得たからなのか、はたまたただの気まぐれなのか。もはや判断しようもない。
最近のコーデリアとはほとんど意思疎通が出来なかった。
何を言っても反応すらせず、ただ食欲を満たすことだけを考えているようだった。
昔の彼女の優しい微笑みが脳裏を過ぎる。在りし日の彼女の天使のように愛らしい姿はもはやどこにもない。
レイナルドが求めてやまなかった、コーデリアの美しき心も今となってはもう。
だが、彼女を見捨てるという選択だけは考えられなかった。どうにかして彼女を支えたい。心底からそう思っている。
過ちという言葉では片づけられない禁忌を犯してしまった妻の変わり果てた姿を見ても、その気持ちは変わらなかった。
すぐ後ろではパトリックが警戒した様子でこちらを見つめている。本性を喪ったコーデリアが万が一にもレイナルドを襲わないかどうかを心配しているようだった。
この夫婦の寝室でメイドが喰い殺された痕跡はもう残ってはいない。
片づけられた室内は綺麗で、コーデリアが眠るベッドだけがその重さに耐えきれずに潰れてしまっていた。
しばらくコーデリアの姿を見つめていたレイナルドは踵を返して、パトリックへと言った。
「コーデリアをこれ以上この部屋にいさせることは厳しいな」
「はい。しかし残されていて使える部屋と言えば……」
「あそこしかない、かもしれん。コーデリアにはとても惨い仕打ちとなるが、致し方あるまい。早速ですまないが、準備を頼めるか?」
「もちろんですとも。しかし、坊ちゃま。今晩は他の部屋でおやすみくださいませ」
「私は大丈夫だよ。今日はずっと起きているつもりだからね」
「左様でございますか。では、くれぐれもご無理はなさらず。もしも何かありましたらすぐにでもお呼びください」
パトリックがその場を後にしてから、レイナルドは寝室の椅子に腰かけてコーデリアを見つめた。
楽しかった日々を懐かしみながら、寝入る彼女の姿を見つめ続けた。
自分のまなじりから一筋の雫が流れ落ちることにも気付かないまま。
翌日の早朝、レイナルドは地下から階上にいるコーデリアへと声を上げた。
「こっちへおいで。コーデリア」
目を覚ました彼女は最初はやはりレイナルドの言葉を聞いてはくれなかった。
しかし、レイナルドが調理前の生肉を手に声をかけると機敏な反応を見せた。
その肉を持って声をかけると、コーデリアはベッドから立ち上がろうとして失敗する。既に自力で立てる様子もない。
だが、コーデリアはのそりと態勢を変えると、まるで這い這いを覚えた赤ん坊のようにして這いずってきた。
彼女を誘導して、何とか2階から1階へと移動させた。何度か彼女が態勢を崩す様を見るのは心苦しかったが、もはやこうすることでしか彼女を移動させることは叶わなかった。
そして地下へと繋がる階段へと呼び寄せる。彼女はゆっくりと這ってきて、遂に階段の手前までやってきた。
レイナルドがもう一度声をかけると、コーデリアは窮屈そうにしながらもよちよちと階段を降り始める。
彼女の巨体は本当に階段をぎりぎり降りられるかどうかというところまで肥大化している。
――もしかしたら、もうこのまま一生日の光を浴びせられなくなるのではないか。そう思ったが、彼女を守るためには致し方ないことだった。
やがて誘導通りにやってきたコーデリアは、一番奥にある大きな牢屋へと移動させられた。
固い石畳の上に柔らかな敷布を敷き詰めたそこに座らせると、レイナルドはコーデリアに生肉を差し出した。
彼女は何の躊躇いもなくそれを受け取り、あっという間に口の中に放り込んでしまう。
そして、古参の使用人たちがコーデリアに食事を運んできた。
それをあっと言う間に平らげ続けるコーデリア。
レイナルドは牢屋の前に立ち、彼女が食事を終える瞬間をずっと待っていた。
しかし彼女の食欲は収まるところを知らず、どれだけ食べても満足してはくれなかった。
彼女の顔はおろか、全身が料理の汁に塗れる。だが、コーデリアはそんなことは気にした風もなく食べ続けた。
今日の彼女は明らかに異常だった。既に昼を過ぎてもなお、食事を続けているのだ。
「旦那さま。このままでは備蓄していた食糧がなくなってしまいます」
「……もう少しで新しい取引先から食糧が届けられる。すまないが、作り続けてやってくれ」
「か、かしこまりました」
使用人が去っていくのを見届けてから、レイナルドは自身が食事を摂ることもやめてコーデリアを見守り続けた。
彼女はどれだけ食べても不満そうに喉を鳴らし、苛立ったように床をどんどんと叩きつけた。
歯を食いしばり、口端から涎を垂れ流しながら唸り声を上げ続けている。
「コーデリア、まだお腹が空いているのかい? 大丈夫だよ、すぐに次の料理が運ばれてくるからね」
まるで飢えた獣のような唸り声を上げて地団太を踏む姿からは、もはやコーデリアの面影は感じられない。
それでも、とレイナルドは思う。
どこまで変わってしまっても、コーデリアはコーデリアだと。自分が愛し、守らねばならない存在だと言い聞かせた。
たとえ、忌まわしい食人行為を行なってしまっていたとしても……。
夜になってもコーデリアは満足しなかった。
運ばれてくる料理はもはや貴族家の料理などとはとても言えない、動物の餌か何かのようなものばかりになってしまった。
それを躊躇うことなく食べ、啜るコーデリアは一体いつになったら満足してくれるのか。
流石に自分の疲労も限界が近い。
レイナルドは壁によりかかりながら、最愛の妻を眺めていた。
そして、その時不意にそれは起こった。
コーデリアの巨躯がぶるりと震えたかと思うと、まるでえずくような音を立て始めたのだ。
ぼんやりとしていたレイナルドは一気に緊張感を取り戻し、コーデリアへと声をかけようとする。
その瞬間。
コーデリアは大きな口を開けて、大量の吐瀉物を撒き散らした。
まるで彼女がそれまでに食べていた食事がすべて吐き出されたかのような勢いで嘔吐し続ける。
レイナルドは驚愕に目を見開いたまま何も言えずにその場で固まり続けていた。
凄まじい悪臭が充満する中、コーデリアは遂に胃液だけになっても吐き続けた。
長らく続いた嘔吐がやっと収まった時、コーデリアは何度も何度もえずくような音を出し続け、最後には大きなゲップをした。
やっと終わったか。レイナルドは自然と口許を抑えていた。少しでも気分を緩めたらこちらが駄目になってしまう。
レイナルドは込み上げてくるものを必死に押し留めながら言った。
「だ、大丈夫かい、コーデリ」
コーデリアは今まで自分が吐き出した大量の吐瀉物に顔を突っ込んだ。
そして悪臭を放ち、消化し切れていなかったそれらをずるずると啜り込む。
レイナルドは声を出す間もなく、踵を返して地下室から1階へと上がった。
そのまま使用人たちが目を丸くして声をかけてくるのも気にせず、屋敷の玄関から外へ出た。
それまで溜めに溜め込んでいたものが、とうとう堰を切ってしまった。
「うぐえぇっ……!!」
レイナルドは嘔吐した。
彼の急変にその場にいた誰もが驚いて近寄ってくるが、そんなことを考える余裕すらなく彼は吐き続ける。
――何だ、あれは。
――何だ、あの醜い化け物は。
――何だ、あの底知れぬ食欲は。
あんなものはコーデリアでも何でもない! ただの人喰いの化け物だ!! 悪魔だ!!
すぐにでも始末してしまえ! どうせ彼女が死んだところで文句を言う人間などこの世にいはしないのだから!
そうだ。彼女が眠りに就いたら、その時にでも息の根を止めてしまえばいいではないか。そうだ、そうしよう、それですべて解決だ!!
私のコーデリアは死んだ。死んでしまった。あれはただの化け物だ! 醜く肥えて人を喰らう悪しき存在だ!
コーデリアを返せ。私のコーデリアを返してくれ! あの愛らしくて無垢で優しかった彼女を返してくれ! 金ならいくらでも払う。だから、だから――
これが夢なら、覚めてくれ――。
レイナルドはほとんど食事を摂っていなかったため、既に胃の中は空で胃液だけしか吐いていない。
それでも彼の嘔吐はしばらく続いた。涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにしながら、吐き続けた。
彼が落ち着くまでの間、使用人たちはその光景をただ黙って見ていることしか出来なかった。