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ブレーゼ伯爵家の悲劇  作者: 両道 渡


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第7話「犠牲者」

 あの騒動から数ヶ月の時が経っていた。

 噂はすぐに巷に流れた。

 いわく、ブレーゼ伯爵家の妻は化け物だ。伯爵は豚のような女が好みらしい。雌豚でも送ってやれば喜ぶんじゃないか。


 どれもこれもが聞くに堪えないものだった。

 レイナルドや古参の使用人たちは何事もないように装っていたが、醜聞を気にしたのか屋敷に務めて日の浅い者や高貴な出自の者などは屋敷から去っていった。

 今や残っているのは親の代から務めている者や、給金を上げて何とか屋敷に留まらせている者がほとんどだ。


 高額な給金で使用人や料理人を募集しているため、応募してくる者の数は多い。

 だが、あまりにも程度の低い人物を雇えば今いる使用人たちに影響が出ないとも限らない。

 このままでは大きな屋敷を維持するどころか、彼女の食事を用意をする人手すら足りないままだ。


 コーデリアの姿は更に常識外れのものになってしまった。

 もはや特注とは名ばかりの布切れを纏うその姿はぶくぶくと膨れ上がり、ベッドの上から降りることすらままならない。

 彼女が歩く時には常に誰かしらの介助が必要不可欠だった。


 食事は寝室で摂らせている。食堂にはもはや彼女の巨大な体躯に耐えうるほどの椅子がないからだ。

 食欲は更に増し、起きている間は何かをずっと貪っている。

 そんな時はレイナルドが何かを語りかけても、彼女は何も答えずにただ食べ続ける。レイナルドはそれが悲しかった――。




 ある日、1人のメイドがコーデリアの自室へと料理の皿を持っていった。

 これで一体何往復目だろうか。メイドは度重なるコーデリアの食事の催促にうんざりしていた。

 だが、いつも通りなら後もう少しでコーデリアの気が晴れるはずだ。満腹になった彼女はその後すぐに眠ってしまうから、その後だけが唯一の心が安らぐ時間だった。


 この日、レイナルドは外出していた。

 最近はコーデリアにずっとかかりきりだった彼だが、どうしても外せない用事があるとのことでやむを得ず家を開けたらしい。

 寝室には悪臭が立ち込めていた。


 コーデリアが乱雑に食い荒らした食材が飛び散っただけならまだいい。問題は彼女の体液や排泄物だった。

 彼女は食事をしながら、排泄をすることが多くなった。この後処理が使用人たちの間で何物にも代えられぬほど堪らない苦痛な作業だった。

 食事の世話だけでも大変だと言うのに、彼女の抱える問題は日に日に多くなっている。これに嫌気が差してすぐにやめていった使用人たちはもう両手の指で数え切れないほどになっていった。


 メイドはつい数ヶ月ほど前からこの屋敷に務めにきた。

 端的に言えば金が目当てだった。どうしても大金が必要だったのである。

 両親の抱えた借金や、家に残してきた小さな兄弟たちのため生活費などは高額そのもので普通の屋敷の給金では賄えない。


 だが、ブレーゼ伯爵家は他の屋敷では考えられないほどの給金を用意してくれた。

 そして働きに応じて、その給金は増えていった。両親の借金の返済の目途もやっとついてきたところだ。

 コーデリアの世話は吐き気を催すほどに苦痛だったが、すべては家族のため。


 メイドは料理の載った皿を寝室に運び込み、ベッドに座り込むモノを見た。

 もはや肉塊としか表現出来ないほどに膨れ上がった身体は見るだけで嫌悪感を覚えさせた。

 美しかったと言われている長い金髪はぼさぼさに乱れ、口からは大量の唾液を溢れさせている。


 何よりも異様なのはその大きさだった。コーデリアの体格は控えめに見積もっても、2メートル近くある。

 当然、彼女の座っているベッドは半壊も同然の有様となっている。いくら新調しても、この体格と一体何キロあるかすらわからないほどの体重を支えられるベッドなどありはしないだろう。

 信じられないことに、当主のレイナルドは屋敷にいる時はいつも彼女の傍に寄り添っている。

 ベッドで一緒に寝ることはもう無理になってしまったようだが、小さなソファがあつらえられていてそれを寝具の代わりに使っているようだ。


 メイドは込み上げてくる嘔吐感を何とか堪えながら、コーデリアに皿を手渡した。

 伯爵夫人はそれを無造作に掴むと、文字通り中身を飲み込んだ。その口は大皿をそのまま中に入れてしまえるほどに巨大なものになっている。

 口を閉じて咀嚼している姿が何かに似ていると思った。

 しばらく考えて、わかった。そうだ、蛙のようだと思った。虚ろでどこを見ているのかわからないような目と顔の周りに分厚く広がる顎の脂肪が、太った蛙のように見えるのだ。


 ――気持ち悪い。


 そうは思いつつも、メイドは引きつった笑みでコーデリアに問いかける。


「奥さま。そろそろご満足頂けましたか?」


 コーデリアが所在なげに持っている皿を受け取って、彼女の顔を見る。

 青くて美しい瞳――これだけは以前の噂通りに素晴らしい――がじっと自分のことを見つめていることに気が付いた。


「……奥さま? いかがなされました」


 訝しがって問いかけた瞬間、皿を持っていた手をコーデリアが物凄い力で引っ掴んできた。

 あっと思う間もなく、彼女の脂ぎった全身に抱きしめられる。

 ひっと悲鳴を上げて何事かと窺おうとしてコーデリアを見上げた時、その瞳に映ったのは真っ暗闇とその中で生き物か何かのように蠢く赤くて肥えた太い舌だった。




 

 レイナルドが屋敷に戻ってきたのは夜半過ぎだった。

 幾分疲れた顔をしていたレイナルドに、古参の執事のパトリックが耳打ちする。


「坊ちゃま。お疲れのところ恐縮でございますが、急を要することが」


 レイナルドは額を揉むようにして軽く息を吐いた後、パトリックに連れられて別室へと向かった。

 主人をもてなす準備など一切していないその場所に連れられてきた時点で嫌な考えばかりが募った。

 そしてレイナルドは手近にあった椅子に深々と座り込み、その場で自分が出かけている間に起きた事件のあらましを聞いた。


 コーデリアが、最近新しく雇ったメイドを喰い殺した。


 明らかに狼狽した様子を見せたレイナルドは何度も頭を振って、口を開いては噤む動作を繰り返した。

 まるで理解出来なかった。言葉の意味自体は理解出来る。だが、コーデリアがなんだって?


「パトリック。冗談なら冗談だと言ってくれないか。今なら、今なら今月の給金を少し減らす罰だけで」

「坊ちゃま。お気を確かに」


 この老執事がこのような冗談を言うわけがないことはわかっていた。

 それでも認めるわけにはいかなかったのだ。最愛の妻がそのような行動に走るなど一体誰が予想出来たと言えるだろうか。

 レイナルドは激しく動揺しながらもパトリックの説明を聞いていた。


 事件は昼間に起こったらしい。

 昼食の時間もとうに終え、そろそろコーデリアの食欲が落ち着くだろうと思った矢先の出来事だった。

 そんな折、2階――レイナルドとコーデリアの寝室から絹を裂くような悲鳴が聞こえてきたのだという。


 パトリックが嫌な予感を覚えて、この屋敷の事情に詳しくない者たちは退けて古参の使用人たちだけで2階へと向かったらしい。

 そして、それを見た。

 肥大化したコーデリアが、大きな口を開けてメイドを頭から貪り食らっていたという。


 誰もがその光景に驚愕し絶句する中、骨を砕いて中身を啜る音だけが響いた。

 やっとのことで我に返ったパトリックらは、その場にいた全員でコーデリアからメイドの死体を引き剥がそうとしたがびくともしなかったという。

 このままでは自分たちが取って食われてしまう。そう思った使用人たちはコーデリアが「食事」を終えるまでの間、ただ見つめていることしか出来なかった。


「なんと……なんという……ことだ……」

「坊ちゃま。畏れ多くも申し上げます。奥さまは……コーデリアさまはもはや人間では」

「黙れ!!」

「坊ちゃま……!」


 パトリックの言うことは正しい。

 彼の言うことを聞いてなおコーデリアを庇い立てする自分の方が狂っているのは百も承知だった。

 ウサギを喰い殺した時には既に予兆があったのかもしれない。家畜と人間を比べるのはおかしいかもしれないが、どちらも生きたままの状態で貪ったのだ。コーデリアにとっては既に区別すらつかないのかもしれない。


「パトリック、怒鳴ってすまない。だが、私は誓ったのだよ。コーデリアをずっと守り続けると」

「……はい」

「彼女がこうなってしまった理由はわからない。でも、食欲さえ満たせればそれでいいと考えていたんだ。私が浅はかだった。でも、じゃあどうしたら良かったんだい。ウサギの件の時にでも、コーデリアを見捨てれば良かったのか? それともコーデリアが異常な食欲を見せた時に見限れば良かった? そもそも彼女と結婚なんてしなければ良かったのか? それ以前に出会わなければ良かったのか……!!」

「おお……坊ちゃま」


 レイナルドは語るにつれて瞳から涙を流し、最後の方の言葉はひどく震えていた。

 ブレーゼ伯爵家の当主として、どこに出しても恥ずかしくない立派な人物。誰もがそう持て囃した男が途方に暮れて今にも泣き出しそうな表情を浮かべていた。


「私は幸せだった。コーデリアと出会い、コーデリアと交流を重ね、少しずつコーデリアとの距離が縮まってきたのを感じて……幸せだったんだ」

「わかっております。私めはよくわかっておりますとも」

「私は幸せったんだよ。でも、コーデリアは……どうだった、んだろう……なぁ……」


 パトリックがレイナルドの身体を抱きしめる。

 老け込んだな、とレイナルドはどこか上の空のまま思った。

 自分が幼かった頃にこうして抱きしめてもらった時は、とても大きくて包容力のあるように感じられた老執事の身体はとうに痩せ衰えていた。


 幼い自分の剣術の稽古に付き合ってくれた時の勇ましい姿。

 父が大事にしていたツボをうっかり落として割ってしまった時、泣きそうになっているレイナルドを庇ってツボを割ってしまったのは自分だと名乗り出てくれた時の温かさ。

 その父が流行り病で亡くなった時、既に母をも喪っていたレイナルドが泣き崩れそうになった時にずっと傍にいてくれた優しさ。

 平民の女性に恋をして結ばれることになった。そう宣言した時に、誰もが異論を唱える中、1人だけ心から祝福してくれたのもまた彼だった。


「パトリック。私を見限ったのなら、この屋敷を出てすぐにでも王都へ向かって陛下にすべて話してもらっても構わない」

「……」

「私はやはりコーデリアの傍を離れるわけにはいかない。彼女は私が守ってやらねば。私は誓ったのだ。神にではなく、コーデリア自身に。君を守ると。その約束だけは違えることは出来ない」

「坊ちゃまが奥さまをいかほどに愛しているかは存じておりますとも。立派になられましたな」

「この事態を治めるために王都の騎士団が派遣されることも有り得るだろう。お前には最後まで苦労をかけるが、どうか」

「それ以上、悲しいことは仰らないでください」


 老執事の意外な言葉にレイナルドは驚いた。


「坊ちゃま。私めはブレーゼ伯爵家の最古参の執事です。坊ちゃまのお父さまのみならず、お爺さまの代から仕えてまいりました。受けたご恩は数知れず。そのような私めがどうして坊ちゃまを裏切れると言うのですか」

「しかしそれでは、今後我が屋敷で起こったことの責を問われてもおかしくない。お前まで付き合う必要なんてないんだ」

「構いませんとも。老い先短いこの私めに心残りがあるとすれば、それは坊ちゃまと奥さまのことだけです。どうか私めにも最後までお付き合いさせて頂きたい」

「……お前は……本当に、昔から私の「爺や」そのものだな」

「ほっほ。そう呼ばれていた頃もありましたなぁ……」


 パトリックはふっと笑みを止めると、レイナルドを見つめた。


「メイドの死体は私を含めた古参の使用人たちですべて処理致しました」

「……他の者はなんと?」

「私と意見を共にしております。坊ちゃまは何もご心配なさらず」

「すまない……すま、ない」


 その謝罪は誰に向けてのものだったのか。

 喰い殺されてしまったメイドのためか。人食いをするまで為す術もなく見ておくことしか出来なかったコーデリアのためか。伯爵家を庇い、自分の人生を犠牲にするのも厭わない使用人たちへのためか。

 憔悴しきったレイナルドはその判別すら出来なかった。

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