第4話「在りし日の彼女」
ブレーゼ伯爵家の裏手には広大な森が広がっている。
レイナルドとコーデリアは2人でその森に入り、やがてお気に入りの場所へと辿り着いた。
森の中にぽっかりと開けたそこには、大きな湖があった。
水面の傍にある大岩に2人で腰かけて、穏やかな時間を過ごす。
晩餐の前には屋敷に帰らねばならないから、そう長い時間をかけられるものではなかった。
でも、2人はこうして一緒に座って湖を眺めるのが好きだった。他愛ない話をしながら、草木のさざめきを聞いて、たまに水面を跳ねる魚の姿を見るだけの静かな時間は何にも代えがたいものだった。
「コーデリア。明日で結婚式を挙げてから1年だ。時が過ぎるのは早いものだね」
「……ふふ」
「? どうしたんだい?」
「いえ、何でも。……くすくす」
忍び笑いをするコーデリアの様子を窺っていると、彼女は懐かしむかのように言った。
「あの盛大な結婚式から1年なのね。私には分不相応なほど豪華で煌びやかで……あの時の私は、自分は夢を見ているんじゃないかしらって何度も思ったものよ」
「君の美しさを称えるに相応しい式をと思ったからね。少しでも君の機嫌を損ねてしまったらどうしようかと、私はそればかり考えていた。なのに、当の君は堂々としていたね。あの時の君のウェディングドレス姿は伯爵夫人に収まるようなものじゃない。一国の姫君とすら言っても過言じゃなかったくらいだ」
「堂々としていただなんて言わないで。ただ単にあまりにも現実離れしていて、呆けていただけよ?」
「そうなのかい? 私はずっと緊張していたからね。君に相応しい男に見えるようにと必死だったよ」
大貴族が平民の出の女性に対しては決して言わないような言葉。
それを口にするレイナルドを見て、コーデリアは青い瞳を悪戯っぽく細めて言った。
「ねえ、覚えてる? あなたってば、私の手を取って指輪を嵌めようとしたら落っことしてしまって」
「ああ! それは言わないでくれ! いま思い出してもあの時の自分に鞭打ちたい気分に駆られてしまうんだよ!」
「しかも、拾い上げた後は指がぶるぶる震えていて、何故か小指に嵌めようとしてまた落としそうになって」
「そ、それはもう忘れてくれと言ったじゃないか。あの時は完全に気が動転していたんだ。おかげでいい笑い者になってしまったよ。君にも恥ずかしい思いをさせてしまった」
「あら、私は楽しかったのに。いつも完璧なあなたがあたふたとしてるところを見られて、とても面白かったのよ?」
「コーデリアぁ! 今日の君は意地悪だ!」
「ふふ、ごめんなさい! ふふふ」
結婚式での失態は伯爵家の当主として恥ずかしいことだったが、彼女は喜んでいるようだ。
当時の話になると、コーデリアはよくこの話題を振ってくる。彼女の笑顔が見られるのは喜ばしいことなのだが、聞いているだけで顔から火が出そうなほど恥ずかしい体験だった。
「あんなことをしてしまったせいで、みなから失笑を買ってしまったよ。私の人生の中でもアレほどの失態は初めての体験だったし、もう二度と経験したくない……」
「あなたは気にし過ぎよ。みんなは別にあなたを馬鹿にしていたわけじゃないと思うわ」
「たとえ、そうだとしても私はブレーゼ伯爵家の当主なんだ。常に気品に溢れていて堂々たる振る舞いをしなければならない。大貴族にとってはそれが当然なのだから」
「……そう、ね。あなたは貴族だものね。でも、あなたは大貴族としてとても大きな過ちを犯してしまったと思うわ」
「えっ!? なっ、そ、それは何かな?」
初めて言われた言葉にレイナルドは慌てふためいて愛妻の様子を窺う。
コーデリアは少しだけ気分の晴れないような顔で湖面を見つめながら続ける。
「私を娶ってしまったこと」
何を言われるかと思って心臓の鼓動が跳ね上がっていたレイナルドは、それを聞いてほっと息を吐いた。
「何を言うんだい。君は私が認めた女性だよ。それがどうして過ちだと言うんだい」
「ブレーゼ伯爵家のような出の者が、平民の女を正式に娶るだなんて聞いたことがないもの」
「確かに貴族の者は貴族同士で結ばれることが多い。でも、それはあくまで他の家の事情に過ぎないよ」
「披露宴の時、あなたが招いた方々とお話しをしている間、私は何度も聞いたわ。『どうして平民なんかを娶ったのかしら』って。『どうせすぐにでも飽きて家を追い出されるって』」
「そんなことはない!」
コーデリアが続ける言葉を遮って、レイナルドは言った。
「私も貴族だ。身分の差というものがわからないほど愚かではないつもりだ。でも、それが何だって言うんだい。人間の価値は生まれた家系で決まるんじゃない」
「あなたはそう思っても、他の人はそうは思わないのよ。そしてそれは私も同じ」
コーデリアが見つめてきた。彼女の透き通るような眼差しを、レイナルドは真摯に受け止める。
「どうして私を娶ったの?」
「最初は一目惚れだったことは否定しないよ。君は本当に見目麗しかったからね。話しかけたのも、君の美しさと可憐さに惹かれたからだ」
「それはもう聞いたわ。それから私があなたの地位や財産に興味を示さなかったことも、物珍しかったのでしょう。でもそれだけなら、遊んで捨ててしまえばいいじゃない。本命の女性は別にいて、その人との結婚が決まったら適当に捨ててしまえばいい。貴族の人なら多かれ少なかれやってることだし、それを咎める人も誰もいない」
堰を切ったように言うコーデリアの長い金髪を夕陽が明るく照らし出した。
その髪を優しく梳りながら、レイナルドは言い聞かせるように彼女の顔を覗き込んだ。
「コーデリア。そんなに卑屈にならないでおくれ。それとも、君は本当は私のことが嫌いかい?」
「そんなの……! 違うに決まってるじゃない! 最初はしつこくてちょっとはうんざりしたけど、何度も何度も私に話しかけてきて、私がどんなに素っ気なくしてもぐいぐい私に迫ってきて……気が付いたら、あなたのことばかり考えるようになっていて、それからは……その」
コーデリアは頬を赤くしながら言った。
「私の方から、あなたに話しかけてしまって……周りの目も気にしないで、あなたの迷惑も考えられなくなって、あなたのことしか見られなくなってしまった」
「うん、つまり?」
「す、好きよ。大好き。あ、愛してる」
「その気持ちは今も変わらないかい?」
「当たり前じゃない! こんな気持ち、簡単に変わるはずがないもの……!」
「恋焦がれてくれていたと思ってもいいのかな?」
「う、ぅ、そ、そうよ! あなたのことを考えるだけで胸が苦しくなって、せっかく仲良くなったあなたに嫌われたらどうしようって怖くなって」
「それは私も同じだよ。君は前にもそういう体験をしたことはあったのかい?」
「は、初めてよ。初恋! ……うぅ、ど、どうしてこんなことを言わせるの……」
恥ずかしいことを口走ったと思ったのか、コーデリアはぷるぷると震えて顔を真っ赤にしている。
いつもの彼女とは少しだけ雰囲気が違う。しかし、こういうところもまたコーデリアの魅力の1つだった。
「コーデリア。私はね、恋をしたかったんだよ」
「恋を?」
「ああ。私にとっても、君は初恋の相手だったのさ」
「女遊びばかりしてるって噂はどうだったのかしら」
ほんの少し唇を尖らせるコーデリアは、いたいけな少女のように思えてしまう。
「確かに遊んだよ。でも、遊びは遊びなんだ。どれだけの女性と接しても、私はその人に恋をするということがなかった。というよりも、恋という感覚がどんなものなのかさえ知らなかった。よく詩で詠われ、戯曲の題材として欠かせないその感情がどんなものなのかがわからなかった。でも、それを教えてくれたのが君なんだよ、コーデリア」
「どうして私なんかで?」
「『なんか』とは失礼だな。私が見初め、熱い恋心を抱いた女性に対して無礼極まる言葉だ。今すぐに撤回したまえ」
「なっ……」
絶句するコーデリアの肩に手を回して、そのまま優しく抱き寄せた。
ぴくりと身じろぎする彼女に語りかける。
「ほら、湖の向こうを見てごらん。夕陽が出ているよ」
「あ……ほ、本当。気が付かなかったわ」
「どうだい、見ていると気持ちが温かくならないかい? 他のものなど目に入らなくなってしまうだろう」
「ええ、そうね……」
「私にとっての君は、あの夕陽そのものだよ。そこにあるだけで温かで見惚れてしまい、山の稜線に消えると寂しくて堪らなくなってしまう。願わくは、ずっとその姿を自分の目に焼き付けておきたい。そんな存在なんだ。まさしく他のものなんて何も目に入らない唯一の存在さ」
「……ん? 待って。待って待って。ちょっと待って」
「どうしたんだい、コーデリア?」
それまでどこか潤んでいたコーデリアの瞳がじとっとした目付きになる。
「あなたはこの前の晩に、私を月に喩えたわ。君はあの月のように美しいって」
「そんなこともあったかな?」
「も、もう! そうやって雰囲気だけではぐらかそうたってそうはいかないんだから!」
ほんの少し前まで悲しげだった彼女は、今度は頬を膨らませてお怒りのようだった。
ころころと変わる表情はとても愛おしい。
「わかったよ。白状する。君の美しさや温かさ……それに優しさも。この世に存在するどんなものよりも尊い。喩えられるものなんてないほどにね」
「逃げたわね」
「違うんだよ、コーデリア。本当さ。無学で教養のない私には、こういったありふれた言葉しか出てこないんだ」
「そうやって他の女性も口説いたんでしょう?」
「そういうこともあったかもしれない。みんな、ときめいていたよ。心にもないことを言って冷え切っている私の内心とは裏腹にね」
肩を竦めてから、レイナルドはコーデリアに顔を近付けた。鼻先がくっつき合うほどの距離で自分の気持ちを伝えた。
「でも、私はこうして君と話しているだけで温かい気持ちになれる。そして君を見つめているだけで、胸の高鳴りも感じられる。結婚してから1年が経とうとしている今でもこの感情は変わらない。私は結婚した今もなお、君に恋焦がれているんだ」
「その恋心はいつまで続くの?」
「ずっとさ。君が生きている限り、私はずっと君の虜だよ」
「……あなたは美しいものが好きよね。だから、私のことをそうまでして称えてくれるのは嬉しいわ。でも、時間が経てば私はしわしわのおばあちゃんになってしまう。それでもまだ恋を続けられるのかしら」
「時に身を任せれば老いるのは誰だって同じだよ。若い姿のままではいられない。私も君もね。でも、私は君の外見だけに惚れたわけじゃない。君の最も美しいところは、その純粋な内面だと強く思っている。それは同時に私が君に釘付けにされてしまった部分でもある。だから、たとえ老人になったとしても、君は美しいままさ。……私が言いたいことは伝わったかな?」
「本当に? 私がおばあちゃんになっても見捨てないでくれる?」
「もちろんだよ。君がどんな姿になろうとも、私は決して君を見捨てたりなんかしないさ。だから、これ以上自分を卑下するのはやめるんだ。君は紛れもなく立派な伯爵夫人だよ、コーデリア」
レイナルドはコーデリアに深い口付けをする。
柔らかな感覚に心地良さを覚えていると、彼女がぎゅっと抱きしめてきた。
「……ずっと一緒にいてくれる?」
「もちろんだとも」
「『あなた』は私を捨てたりしない? 信じていい?」
「ああ。私は君にすべてを捧げよう。我が愛しのコーデリア」
「約束、だからね? 約束なんだから」
ますます抱きしめてくるコーデリアの身体が震えていた。
彼女の小さな嗚咽がやむまでの間、レイナルドはずっとその小さな身体を抱きしめ続けた。
夕陽がそんな2人を温かく照らし出していた。