梅の香りになぁと鳴く
縁側の、開け放たれた窓の先から柔らかな、春の光が落ちてくる。私は先生がその縁側に座しているのを、部屋の中に寝転びながらぼんやりと眺める。あそこは先生の特等席で、先生はいつもあそこに座っている。一度悪戯心で、先生が来るよりも先にあそこに陣取ったこともあるけれど、その時はすごい勢いで怒鳴られて、幼心ながらもう二度とこんな悪戯をしないと誓ったもので、それ以来私は、先生との距離を少し置くようになった。けれど、それ以外の時の先生はいつも穏やかで、私は畏れてはいるけれど、恐れてはいない。いつだったかの冬の日に、同じように外を向いて座っている先生に、私は敬語で話しかけた。
「いつも何を見ていらっしゃるのですか?」
「ここから見えるものは多くない」
「毎日同じで、飽きてきませんか?」
「春には緑の、夏には青の、秋には赤の、冬には白の、ここから見える世界はその折々に違う色をしている。とても美しく、飽きるようなものではない」
「ですが今は冬枯れの、昨日とさして変わりません」
「さして、変わるものだよ。冬枯れの中に、春がある。昨日と同じに見えるのは、今日の姿を見ておらんからだ。昨日の景色を見ておるに過ぎぬ。よう見てみよ。冬枯れの、あの足跡はいつからある? あの芽はいつ吹く? ここから見える世界はひどく限られておるが、それだけでも何と多くのものが変わりゆくものか。私にはこれだけの世界で十分に満足だ」
「私には、分かりません」
「まだ若いからな。私もお前の頃には、そうであったと思うよ。この世界は広いのだから、こんなところにいてはいけない、自分はもっと大きいと。それは間違っていないし、否定することではない。私も、そういう見識があったからこそ、今がある」
「私にも先生の境地に辿りつけるでしょうか」
「そんなものではない。ここはお前と同じ地点だ。お前が外に行かず、ただ私と同じ空気を味わおうとしているのと変わりない」
「私は、先生のことを好いていますから」
ああ、確か、あの時は笑ってごまかされてしまったかしら。それでもこうして、私が傍にあるのを邪険になさらないのは、先生も私のことを悪く思っていないからだろうと、そう思いたいけれど。
私はさかさまに、縁側から見える景色を見る。
小さな庭にあるのは、まだ咲いていない桜の木と、水無月には蛙が支配するほどの小さな池と、他にはただ大きな石と。この家の主かあるいは、その前の主かが、その価値観でこしらえただけの、日本庭園を模した世界。南に差し掛かるまだ低い日の光が、先生の顔を照らしている。私はまだ景色よりも、先生の姿なら毎日でもそのわずかな変わり様も分かるというのに。その先生がふと左を向き、柔らかな毛が風に揺れる。
「東からの風か」
動いた口さえ見れば、何と言ったのか分かる。きっと声には出していないだろう。
「東風吹かば にほひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春を忘るな」
「どういう歌ですか?」
私は先生特有の、もっと幼かった頃に受けたことのある授業を思い出しながら、声に出した。
「知らんのか? 拾遺和歌集に収められている菅原道真の有名な句だぞ」
「不勉強ながら」
「紐解けば、意味くらい分かるだろう。それ以上の歌ではない」
「東風が吹いたのだから、主がいないからといって、春が来たのを忘れて、咲くのを忘れてくれるな」
「そう、見事に香っておる」
「私には、分かりません」
「そんなところに寝ておるからであろう。もっとこちらに寄ればよいのに」
私の跳ねた胸など気にする様子もなく、先生は私を手招きする。どうしたものかと寝返りを一度打ち、私はそのままの姿勢で、縁側の、先生の隣まで移った。板張りの床がひんやりとお腹に当たる。先生が、あのときのように笑う。
「あ、ほんとだ」
私は鼻を上げ、梅の匂いに気がつく。少し動いただけだというのに、こんなにも違うものだろうか。それとも、この梅の匂いは、もしかしたら先生から香っているのではないだろうか。
私は、先生が乗っている座布団に目をやる。もし、私が半分寄こせと言ったら、先生は怒鳴るだろうか。それともあの時はただ機嫌が悪かっただけなのだろうか。などと考えていると、私の視線に気がついたのか、先生はゆっくりと体を持ち上げると、半分移動させてまたゆっくりとその上に座った。私は嬉しくて、少し強張りながら、座布団の上に座る。先生のぬくもりがまだ残っていて、梅の香りもあって、私の体は天にでも上ってしまいそうだ。
「先生は、私のことを何と思っているのでしょう?」
私は半ば夢見心地のまま、つい口に出していた。
「かわいいやつと、思っているよ。あの頃は、ダメな生徒だと思っていたがね。それも考えてみれば、私が悪かったのだから、お前が気にすることじゃぁない。今では、何の気紛れか、こうしていつも私の傍にあるのだから」
「私は……先生のことを敬愛しております。人の言葉で言う、好きという気持ちなのだと、思っています」
「人の言葉は、短く千切られておって、その身をはらんでおらんことがよくあるが、その間は美しいものだ。歌に込められた思いをこうして何千年と語り継ぐことができるのだからな」
「あの、私はっ」
はっと我に返る。断られることを恐れているのではない。私は何を言っているのだろう。先生と恋仲になることを望んでいるのでもない。ただ、この時が続けばよいと、思っているだけなのに。それが終わってしまうかもしれないではないか。
「あら、今日は珍しいわね、二人揃って日向ぼっこですか?」
まるでこの瞬間を待っていたかのように、この家の主の家内だったか、娘だったかが、板張りの廊下を駆けてくる。手には盆を持ち、その上には私の苦手な飲み物が揺れている。私は今の状況を見られた気恥ずかしさと、けれども誇らしげな気持ちで、彼女を見上げる。
「はいはい、いいですよぅ、ゆっくりしてください。私はこれから忙しいんですから。どうぞお二人はそのままに、そのままに。ああ、そうそう。おやつ、持って来忘れちゃったわ。欲しかったら、ゆっくんに言ってね」
「まったく、忙しないな」
「そうですね」
パタパタと彼女は通り過ぎる。けれど、助かったと思い、私は先生の、柔らかな体毛に持たれかかる。
「なんだ、眠たいのか?」
「はい、少し」
「梅の香りに誘われながら、うとうととするのも、悪くないな」
私よりも先に、先生の口が大きく開く。私も、それにつられうように、あくびをした。それと同時に、なぁ、と声が漏れた。