学園長室1
山田礼子は
エレベーターで最上階にあがると、インターホンを押した。
「タカシ様のお食事を持って参りました」
しばらくしてドアが開き、
車椅子を自力で操り、学園長リカルド・カストロが姿を現した。
「アリガトウ。あとは私がやるから、君たちは教室に戻りなさい」
カストロはステンレス製の鍋が載ったキャスターに手を掛けた。
「今日は、午後は授業が無いので、お手伝いしたいんですが……」
礼子は願いを乞うように頭を下げた。
「オレもタカシに会いたい。授業サボったっていいじゃんか。今更、授業とか言うなよ」
香川幸は学園長に乱暴な言葉を投げつける。
だがその目は、今にも涙が溢れそうに潤んでいる。
「……ソウカ。ただ覚悟して欲しい。息子は、彼自身が予想していたより、ずっと変化が早いのだ」
ドアの奥はプライベートルームだった。
この部屋は天井が高い。
窓も大きい。
神戸の街が一望できる。
だが、きっちりと、ブラインドが下ろされている。
明るい照明の下で黒い影が動く。
室内の空気も大きく動く。
「うわ、いきなり入って来んなよ、オレ、パンツ履いてないんだぞ」
鷹志は、礼子と幸の姿を見るなり、大きな羽根を広げ、素早く動き……背中を見せる位置に静止した。
「お前、すっぽんぽんか。見せろよ、身体がそんなに大きくなってるんなら、<男の子の大切なトコロ>もメッチャ、デカいんだろ」
幸は、
三メートルを超える身長になっている鷹志を、正面から見ようとする。
「この馬鹿、お前、一応女だろ。リナの方がよっぽど女らしいや」
鷹志は笑っている。
カストロの目尻も下がる。
「リナもな、お前がライン読まないから心配してるんだよ」
幸は膝を抱えて、股間を隠して座る鷹志の翼に指先だけ触れて、
静かな、涙混じりの声で言った。
「あのさ、こんな太い指じゃ、スマホの操作、無理なんだって」
右の翼の間から,鷹志は自分の手を見せる。
ヒトの二倍の大きさの手を……。
「タカシはもう、ピアノは弾けないんだ」
父は哀れみを抑えて、何でも無い風に言う。
「学園長、では、夏期休暇の前に、この部屋では窮屈になるのでしょうか?」
山田礼子の質問に、カストロは即答できない。
父にかわり鷹志が、
「そういうこと。デカくなりすぎて、此処から出られなかったら最悪。今の倍になれば、窓から出られない」
「礼子君、不測の事態だが、タカシが此処から長野の<巣>に飛び立つ日は近いね」
「では、その前に鷹志様の存在を説明する資料が……新たな、青い翼のミュータントのサンプルが必要なんですね」
「前のサンプルの両親がテレビに出てたね。……明日からマスコミが詰めかける。想定していたより、全てが前倒しの日程になりそうだ」
「それは、鷹志様の変化が、大きな地殻変動の前触れという仮定も含めてですか?」
鷹志カストロは
青い翼のミュータントの胎児が確認される前に、この世に生まれ出た。
最悪の自然災害の、被害の全貌さえ、まだわかってはいなかった。
リカルド・カスロトは津波で二人の子と下半身の機能を失った。
悲劇の中、狂わず生きれたのは、身重だった妻の存在があったからだ。
妻と生まれてくる赤ん坊が
地獄に灯る唯一の希望だった。
しかし妻は、子供二人亡くしたショックで、
何も口にせず衰弱していた。
副作用のある薬を、胎児より母体を守るために、やむを得ず使った。
高齢出産でもあったので、
流産の危機、妊娠中毒症、高血圧、とリスクは複数あった。
(健常でないかもしれません。正常だった胎児のカタチが変形してきてるんです。今の段階では、ごらんにならない方がいいと思います)
胎児の映像は、ドクターの判断で両親には隠された。
(重度の奇形です。それに、大きすぎます。これ異常を育つと母体が危険です。中絶を決断されるなら時間の猶予はあまりありません)
やがて、深刻な事実を告知された。
しかし、廃人のように惚けてみえる妻は、絶対に産まなければならないと、
その点だけは譲らなかった。
カストロも、どんな障害を抱えようが、どんな短い命であろうが、父としてこの手で抱きたいと願った。
赤ん坊は母体を壊すほど育つ前に産まれた。
早産だが充分育って。
医者は上半身の奇形と言った。
産まれてきた赤ん坊の姿は、
その言葉どおり、上半身に異物がくっついていた。
しかし美しかった。
いずれ均整の取れた身体になるであろう
長い手足と整った顔立ち。
そして漆黒の美しい翼。
出産に立ち会った医師と看護師は
しばらく震えて声も出なかった。
未だかつて、この世界で誰も見なかった赤ん坊を見たのだから。
……ただし、現実世界で未知というだけで
翼は黒いが、カタチは、絵画やバーチャルの世界では見慣れた、<キューピット>そのもの、だった。
翼のある子は、あまりに衝撃的で公表を避けられた。
が、世界中から医学者、生物学者がスポンサー付きで鷹志を見にやってきた。
国境を超えた<異形の新人類>を観察するチームが早々にできあがったのだ。
やがて、次々に青い翼のミュータントの胎児が確認されると、プロジェクトは拡大されていった。
その陰で、鷹志の母は出産時のショックで精神が崩壊してしまった。
カトリックだった母は、鷹志を、一目見て、
「おお、なんてこと、この子はまるで、デビルじゃないの」
叫んだきり、二度と口をきかなかった。
(廃人になり、それから入院生活を送っている)
父は息子の黒い翼から、悪魔を連想しなかった。
<鷲>の翼に見えた。
母国メキシコの……国旗に描かれた<アステカ伝説>の導き鳥に。
まだ小さい<鷲>だから、<鷹>と名付けられた。
カストロは、妻の姪にあたる山田礼子に母親替わりを頼んだ。
礼子は、当時、高校教師になって二年目だった。
震災で家族を亡くし、自身も片手と片足を損傷した。
鷹志に群がった、最先端の医療技術を持った若い医者達が、礼子の新しい金属の足と手を作ったのだ。
鷹志は発達が早く知能が高かった。
文字が一通り読めると、その知識欲は旺盛で、
とりわけ生物図鑑に興味を示した。
「ダーウィンは、間違ってるよ」
お気に入りの進化論の本を何度も読み、
きっぱり言ったのは八歳の時だ。
「全然、逆だよ。地球上の生物は単純な下等なモノから進化していったんじゃ無い。完璧な生物が解体して生み出したんだよ」
「どうして、そう思うの?」
礼子の問いに、鷹志はすぐには答えなかった。
正確に伝えるための<比喩>を探していたのだ。
「ボクは知ってるからだよ。蟻や蜘蛛の脳には、予め彼らの巣を造る設計図が組み込まれてる……それと同じように、ボクは知ってるんだ」




