水の戯れ
こっちの世界に来て良かったなあと思う瞬間の一つに、日中の暑さが割と大した事がないというものふがある。
日本の夏は蒸し暑いのだが、王都ポーラティスはその辺がとても快適だ。山の隙間から吹き抜ける涼風が肌に触れると、日陰にいるわけでもないのにすがすがしさを感じてしまう。焼きつくすような日差しも蝉の声もない。
まるでずっと避暑地にいるかのような、ってまあ避暑地とか言った事ないんだけど。軽井沢とか何か遊ぶものってあるんだろうか。いや、むしろ北海道とかでいいのか。夏の北海道ってきっと心地よいだろうな。まっすぐに続く一本道の左右には草原が広がっていて、そういう場所を免許なんてなくても関係ないとばかりに車で飛ばしたり。夢のままに終わった事だけどね。
だから授業も捗る。ああ暑い暑い、早く夏休みよ来いなどと願う必要もなくしっかり集中して学べる、動ける、そして歌える。
そんな授業を終えて明日の予定を先生が言った中に「水泳」という単語を認知した。へえ、そういうのもやるんだなと少しガッツがわいた。
元々泳ぐのは得意だった。でも皆クロールが上手くてそっちはあっという間に追いぬかれた。ただ平泳ぎに関してはずっとクラスでもトップクラスだったし、近隣の小学校と合同で開催されたレースでも一位になった。
クロールはみっともなくバタバタしてるだけだけど、平泳ぎだとちゃんと水を蹴る事が出来る。泳げるんだ。背泳ぎも数メートルならいけるけど、あれは難しいな。それとバタフライも、疲れる。
そんなわけで、水泳の授業どんと来いな俺だが、ここでふと疑問が浮かんだ。
「水着はどうするんだろう。持ってないよね」
放課後、そこをいつも通りニーナにたずねてみた。
「当然こっちの世界じゃそんなものはありませんよ」
「だよねえ。でもじゃあどうするんだ? ま、まさか全裸で!?」
不意に最悪の考えが頭をよぎったが、ニーナはこれを鼻で笑った後で「全裸だったらどうします?」などと聞いてきた。どうしますって言われても、正直困るとしか言えないのだが。
全体的に若い子が多いって、まるで自分がおっさんみたいだが実際に年齢で換算すると小学四年生とか五年生ぐらいの子が多い稲妻勇士において、俺の年齢はオーバーエイジ枠みたいな部分もある。だから他の奴らの裸体を見たところで何も思わないが自分のそれを見られるのは嫌だなあってのは正直なところだ。
しかも相手は子供ばかりだし、こんなしょうもない事を考えているのはこの空間において俺だけなんだろうなあとか思うと、あまりにもみっともなさすぎてそれだけで十分に恥ずかしいのだが。いや、年長のヘサッキとかはそういうのもあるかも。まああったとして相談出来るものじゃないんだけど。
ペレみたいに「医師に相談してください」とはいかないものだしね。だから俺にとっての「私ならそうします」という答えはこのニーナとかいう人間ではないものに相談する事なのだが、それはそれで参考にならないような気もしてきた。だってこいつ天使だし。
「そう言えばさ、変な事思いついたけど聞いていい?」
「変な事? とりあえずどうぞ」
「天使にもそういう羞恥心ってあるの?」
西洋の絵画なんかじゃ平気で裸体を晒しているイメージからそんなくだらない質問をぶつけたのだが、冷静に考えると絵画だと女も男も全裸余裕だから参考になるものでもなかったか。しかしニーナは天使なので俺のこういうしょうもない疑問にもきちんと答えてくれた。
「確かに人間の感じるような羞恥心とは違いますね。まあたかが裸ですよ。見せたところで何が起こると言うのです? 初さんだって本来は気にする事なんてないんです。むしろ見せつけようぜってニュアンスで生きたほうが心にとってもいいですし」
「そうやって生きられたらそりゃあ楽だろうけどねえ。人間そう開き直っては生きていけないものだから。でもまあ、どうしてもそれをせざるを得ないって事なら仕方ないからな。風呂なんかでも当然裸の付き合いになるし、それに男同士でビクビクするほうが間違っているんだ。うん、相談して良かったよ。悩みは晴れた」
確かにアレが小さいとかもそうだけど、一人でウジウジ悩んでも仕方のない事だ。どんなモノでも、何に包まれていても俺は俺だ。陽光と水に晒すのみだと気分は晴れ晴れとした。草彅剛もこういう気分だったんだろうな。
ただそんな感動も次の「そうですか。良かったですね。まあ稲妻勇士の水泳は基本着衣水泳なので裸を見せる必要はないんですけどね」などというそっけない言葉によってあっさり崩されたのだが。
「当たり前でしょう。勇者学校の授業は実用性重視ですから。例えば実際泳いで目的の場所へと潜入しようとなった時、いちいち服を脱いでいられますか? 目的地に到着したらのんびりと服を着る余裕なんてありますか?」
「むう、それはまあ、その通りだな」
「だからこそ着衣水泳ですよ。やった事あります?」
「まあ一応はね」
また取り越し苦労か。まあ本当に苦労するより杞憂に終わったほうがいいし、今回も情けないものを晒す必要がなくなっただけ良かったと思うべきなのかも知れないが。
そして当日、運河の濠に全員が集合した。それと先生も。真っ黒に日焼けしたたくましい筋肉がいかにも我は海の子ってオーラだ。日本なら体育教師にいそうなタイプかな。
「よう集まったのうガキども! 初めての奴もおるし改めて自己紹介しておくが、ワシが水泳講師のヴァデル・ラフマンじゃ! これを言うのも毎年の事じゃがのお、最近のガキどもはろくに泳ぎも出来ん軟弱者ばかりが増えとる。惰弱の一言じゃ。ワシが稲妻勇士の頃はのお、各々が工夫をして泳ぎ方を学んどった。結局教えられるよりそうやって創意工夫を重ねた上で覚えたものこそが本物じゃ。じゃけえ、ワシもこうやって泳げとは言わん。大事なのは形じゃのうて実績じゃ」
やたらとでかい声で叱りつけるような説教をいきなりかまされてげんなりだが、このラフマン先生はこれでも稲妻勇士のOBで、俺達の先輩にあたる存在なので適当に聞き流せはしない。しかしまあ、見事に体育会系だな。
それでラフマン先生の本職はフェリス同盟の南にある大国パダルカの海に面した南部を本拠地としている勇者で、泳ぎに関しては勇者界においても第一人者と呼べる存在らしい。ニーナが言うにはオリンピックのメダリストぐらいのもんだとか。
そもそもフェリス同盟は内陸国なので当然海とは面しておらず、あるのは川か湖かってところなので泳ぎに関しては確かにあんまり良い環境とは言えない部分もあるのだろう。無論、プールなんてあろうはずもない。
そういう世界において海沿いの出身ってのはそれだけで別の生き物、とまでは言わないが全然違う存在に見えるらしい。だからこいつらは俺が感じている以上に畏敬の感が強いんだろうな。皆目を輝かせて、楽しそうだ。
「まずは見本じゃ。よう見とけよ!」
そう言うとラフマン先生は準備運動もしないまま運河に飛び込み、そのまま向こうまで泳いでみせた。心臓大丈夫なのかという俺の心配をよそに、黒い筋肉の塊はバタフライに似た豪快なフォームから猛烈な勢いで向こう岸まで泳ぎ切った。
「おお……」
「さすがはラフマン先生。素晴らしいまでに力強い」
ため息を漏らす仲間もいたが、確かに勇者界における泳ぎの第一人者だけあって見事なものだった。船外機でも付いているのかというパワフルさで、腕で水を砕くように驀進する姿は男を感じさせた。無骨も極めると美に通じるものがあるというのか。
「さあ、こっちまで泳いで来い! 誰からでもええぞ!」
向こう岸まで五十メートル以上はあるだろうが、先生の声はそんな距離をものともせずはっきりと聞こえてきた。ビリビリと震える空気まで見えてきそうな大声だ。まず手を上げたのはベージャだった。
「では私から参ります」
「こらぁ! 聞こえんぞ! もっとしゃっきと言わんかあ!!」
「わ! た! し! か! ら! ま! い! り! ま! す!」
「おう、来いや!」
ベージャがこんな大声出すのは初めて聞いた。ほとんど逆ギレのような絶叫だった。
そしていざ泳ぎ始めたベージャだが、その泳ぎ方は俺の目から見ると明らかに妙だった。ベージャはまず静かに水に浸かると、全身を脱力させてぷかりと水に浮かぶような体勢になった。水の波紋が完全になくなると、肉体は音を立てずに進んでいった。
「何だこれ。どうなってんの?」
思わず言葉を出してしまったが、すかさずアレサンドロが「あれこそがガジェの古式泳法だ」などとフォローしてくれた。
「水の流れに逆らわず、むしろ同一化する事によってより多くの精霊と友達になる。ラフマン先生の泳法が水を裂くとすれば、ベージャの泳法は水に溶けると言い換える事も出来るだろう」
「へ、へえ……」
「まさしく悠久の歴史と伝統を感じさせる、美しいまでに見事な姿だな。人間かくありたいものだ」
アレサンドロのありがたい解説も、正直意味不明だった。水の上をゆっくりとたゆたいながら音も立てずに忍び寄る姿は申し訳ないが、本当に申し訳ないのだが波間に浮かぶ土左衛門のようだった。これのどのあたりが歴史と伝統なのか。
ただ筋力を使わずに進めるのは楽でいいなとも感じた。自分の力を使わずにいくらでも進めるのは確かに美しいかも知れない。ただ、無茶苦茶遅いぞ。
三分ぐらいかかって、ベージャはようやく対岸まで辿り着いた。こちらからは「見事だったぞ!」「さすがはベージャ! 見事な泳ぎだった!」などというエールが沸き上がっている。それに応えて、ベージャは向こう岸で手を振っている。
「さあ、みんなもこっちに来ようよ」
そう告げているようだった。ならばとばかりに、次は俺が泳ぐ事にした。本物の泳ぎを見せつけるために……!




