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目覚まし時計もお母さんの声もない朝はいつ以来だろうか。でもこれからはそんな日が続くだろうし早急に慣れないといけないな。ゴワゴワしたベッドに包まれながら、俺の意識は覚醒の時を迎えた。
そう言えばこのやや硬質なベッドの中身は何が入っているのだろうか。羽毛とかじゃないよなあ、多分。まあ気持ちよく眠らせていただいたから別にいいけど。
木で出来た雨戸の真ん中を軽く押すと、雨戸は道の方へと吹っ飛んでいき爽やかな朝の風が部屋の空気を軽やかにかき回した。ああそうか、今の俺はパワーがあるんだな。今度からは気をつけよう。
太陽は斜め二十度から柔らかな陽光を街にもたらしている。異世界でも朝は朝だ。
「おはようございます初さん」
「ああ、おはようニーナ」
俺の目覚めを待ち構えていたかのように満面の笑みを浮かべて挨拶をしてくれる俺の天使。その朗らかさに寝ぼけた俺の心もすっかり解きほぐされて柔らかい微笑みを浮かべられた。HEART TO HEART。心のつながりっていいもんだよな。
「すぐに出かけるようなので準備してくださいね」
「分かった。とは言っても、いつもみたいに教科書ノートの入れ替えもいらんし楽なもんだよな」
気付いた時には眠っていたので今になって改めて状況を判断したが、いつの間にか制服は脱いでいて、校則で指定されている下着だけの姿になっていた。
そんな記憶はないが眠る前、無意識のうちに脱いだのだろうか。まさか他のやつ、例えばニーナとかが気を使って脱がせたとかじゃないよな。それは嫌だな、子供じゃないんだから。自分の尊厳という問題からしても前者だと思いたい。薄い胸に吹き抜ける春風が少し冷たく感じられる。
まあ出しようのない答えを探すよりも今は生きることに専念しよう。眠気でまぶたが重い中でも目を閉じてワイシャツのボタンをするすると掛けていく。後は顔を洗いたいのだがどこだろうかと見回したが「外に井戸がありますよ」とニーナが答えたのでそこに向かったところアーベンさんとすれ違った。
「おはようございますアーベンさん」
「ようやく起きたようじゃな。朝食を食べ次第マーブルクへ向かう」
「分かりました」
どうやら一番起きるのが遅かったのは俺だったらしい。多分麦とかだと思われる穀物をどろどろに煮込んだ茶色いおかゆをかっこむと早速馬車へ。明らかに豪華になっている馬車は人間五人が悠々入る事が出来るほどであった。
「さあ、出発じゃ」
アーベンさんが御者をして、俺とニーナはルサカとその父を見張る役を仰せつかった。とは言ってもこいつらに脱出の意思はまったくなさそうで、借りてきた猫のようだったから怖い事は何もなかった。ただルサカから俺の身の上について色々質問を浴びたので、どう答えようかと色々頭を悩ませた。
「実は俺は一度死んで別の世界からここに来たんだ」
仮に正直に告白したところで誰が信じるものか、こんな与太話。信じ難い真実よりそれっぽい嘘のほうがうまく世界が回る事もあるわけで、これに関しては俺は嘘つきとして生きていこうとはっきりと決心した。馬車の中ではおおよそ以下のような会話が繰り広げられた。
「ハッセはいつどこで生まれたんだ?」
「えっと、もう何年前になるかな。とりあえず今は十三歳だから……」
「共通暦一二四四年の事ですね」
「ああ、そうだったそうだった。その年の生まれだ」
すかさずニーナがフォローしてくれるのでありがたい。俺はこっちの世界の常識を知らないがニーナは知っている。「この世界におけるナビゲーター」と言っただけの事はあるな。
共通暦ってのはこの大陸全土で使われる共通した暦らしい。昔栄えていた何とかって帝国が滅びた年が元年になっているとの事だ。
「そう言えばさ、ルサカはどうなんだ? 自分の年齢とか分かる?」
「大体九歳ぐらいだと思う」
随分アバウトな答えが返ってきた。でも生まれてずっと山賊やってたんだとしたら正確な年齢とか覚えてなくても仕方ないか。どうリアクションしていいか悩んでいるとルサカはこう続けた。
「でも誕生日は分かってる。十六月ニ日だ。ハッセは?」
「じゅ、十六月、かあ……」
「そう言えば僕も初さんの誕生日聞いてませんでしたね。一月から二十月まで各二十日ありますが、いつでしょう? ちなみに僕は五月七日ですが」
ちなみに俺の誕生日は十二月三十日なんだが、二十日までしかないって事だからこっちの世界でその日付は理論上存在しないって事になる。どうしよう? 色々考えたが結局こっちの世界における十二月三十日に当たる日が一番いいだろうと結論づけた。
「二十月十九日だよ」
「ふうん、年の変わり目なんだな」
「そうそう。自分が生まれた頃だからってだけじゃなくて、歳末の空気って俺は好きだな。何となくわくわくするから」
でもこっちの世界にはクリスマスとかないんだよな、多分。そう言えばクリスマスと誕生日と正月のお祝いを一括で払われるのはこの誕生日でまずかったことの一つかも知れないが、まあもう昔の話だ。
疑問質問はなおも続く。しかし今後同じような質問をいつ誰から聞かれるか分からないからその予行演習と考えると悪い事じゃなかった。それにルサカと話せるのも楽しいし。
心の柔らかさを取り戻したルサカは瞳に浮かぶオレンジ色輝きも戻って、好奇心旺盛な本来の性格が表に出ていた。それは俺にとっても嬉しかった。少年、素直が一番だから。俺が言えた事じゃないけど。
「この大陸の東の果てにね、俺は住んでたんだ」
「東の果て? ティアム帝国か?」
「いえいえ、ティアム帝国の更に東にある島ですよ。マツドって名前の」
おいおいちょっと待てニーナよ、何でここでそういう突っ込みどころを割り込ませて来るかなと頭を軽くはたきたくなる気分だった。まあ確かに俺の家の住所は千葉県松戸市にあるんだが、そこはちゃんと日本って答えてほしかったぞ。
「マツドか。それってどんなところだったんだ?」
「どんなって、ねえ。まあ田舎ではないな、とりあえず。人はそれなりにいたさ」
「都会なのか? マーブルクとどっちが大きい?」
「さあ。俺だってそこを訪れるのは生まれて初めてなんだから。ただ松戸ってどうも最近評判悪くてね。だからって嫌いになれるものでもないんだけど。いい街だったよ。今じゃ思い出の彼方だけど」
特に去年は酷かった。松戸市出身で世紀の発見をした女性科学者が出たと思ったら実は世紀の詐欺師だったと発覚する非常に残念な事件が起こったのは記憶に新しい。あんなんだからマッドシティとか言われちゃうんだよなあ。
この風評被害を覆すのは俺だ、とか思った事もあったけどもうその世界から遠ざかってしまったから名誉回復は他の誰かに任せるしかない。大丈夫だろうか松戸。
「そのマツドから、どうやってここまで来たんだ?」
「ああ、それは僕がお話しますよ。単純に言うとね、船で来たんです。大陸をぐるっと回るようにしてね」
へえ、そうだったんだ。俺ってここまで船で来たんだ。でもまあそういうシナリオって事だから、俺は無言でうなずく仕草を見せた。
「それで僕と初さんが出会ったのはバージェなんですよ」
「バージェか! 遠い国だな! 砂漠にあるんだろ? 女が偉いんだろ?」
「よく知ってますね」
「地理はよく父ちゃんに教えてもらった。父ちゃんが言うには俺はウィスで生まれたらしいけど覚えてない。だから俺の故郷は森だと思ってる。でもウィスにも一度は行ってみたい」
「ウィスって事はゴルトラントですか。なるほど確かに北部訛りがあったのでアイゼルモッケンかゴルトラントかとは推察していましたが。ウィスには中世の建物が今でも多く残ってると聞きます」
「父ちゃんもそう言ってた。俺は知らない。生まれてから今までどこかに住み着くって事はなかったから」
この世界の地理感覚を未だに掴んでいない俺からすると意味不明な会話の応酬だがルサカは今までにない勢いで食いついてきた。やっぱり小説より事実のほうが強いものか。
しばらくはこの手の固有名詞を連発の会話が続いたので部外者にとってはきつかったが、それでも聞いてみるとおおよそ次のような事実がおぼろげながらも判明した。
まずマーブルクはドラガニア王国という国に所属する都市だという事。そしてドラガニア王国はフェリス同盟なるものに加盟しているという事だ。
フェリス同盟とは俺達が降り立った森と西の方に広がっているらしいスバラルト山脈、それと南部にある横に細長いダネット湖に囲まれたフェリス盆地の周辺にある四つの小さな王国が周囲の大国や北方の好戦的民族による侵略を防ぐために組んだ同盟で、ドラガニア王国は四つの王国のうち東部に位置するらしい。
フェリス同盟に加盟する四つの王国は共通した一人の王様を象徴として戴く。ただ各王国には王様の統治を補佐するという名目で領主がいて、この領主が各地における王様のような役割を果たしているようだ。
そしてマーブルクはドラガニア最大の都市で、ドラガニアはフェリス同盟で一番大きな王国なので、国一番の大都市と考えて差し支えないだろう。そんな大都会へと俺達の馬車は向かおうとしている。
今回アーベンさんが呼ばれたのはそのマーブルク領主に鎧を献上するため。一番大きい都市の領主だから、イメージで言うと都知事ぐらいの偉さかな。そう考えるとかなり偉いな。大仕事じゃないか。そう考えるとアーベンさんもかなりの大物だし。つくづく縁だよなあと、俺は感慨深くため息を付いた。
そうこうしているうちに馬車は静止した。