真心
授業が全部終わったところで校長のオダヴィス・グリーディさんが教室にやって来た。突然だったので心臓に悪かった。
オダヴィスさんは普段校長室にこもって色々な仕事をしているのであんまり顔を合わせる事がないのだが、その代わりと言っていいのか分からないが一目見ただけで忘れられないインパクトのあるルックスをしている。
最大の特徴は長く伸びた白いヒゲだ。肩にかかるまで伸び放題で首は完全に隠れている。尊師とか言っちゃ駄目だけど、その手の宗教指導者的な雰囲気を醸し出しているのは間違いない。浮世離れしていると言うのかな。
でも当人は至って真面目なお方です。宗教もこっちではあまねく広まっている、アレサンドロなんかもナチュラルに信仰している宗教を信じているみたいだし。そう考えるとむしろ異端は俺とかニーナの方だな。マロールも違うな。ルサカとかどうなんだろう。
とにかく、いきなり教室に入ってきた校長先生に動じなかったのはリーダーのヘサッキぐらいのもので、神妙な空気の中で彼だけが口を開いた。
「オダヴィス校長がわざわざ来られるという事は、任務ですか?」
「うむ、そうじゃ。次に名前を呼ぶ者は返事をするように。まずはアレサンドロ・マイル」
「はい!」
「ゴルディ・バーロン」
「はっ!」
「ユーレン・ウルバニョフ」
刺せばパシッと弾けるようなアレサンドロとゴルディの声が響く。しかしここでキャッチボールは一度途絶えた。ユーレンの視線は机の上に置かれた黒板を突き刺していた。
「ユーレン・ウルバニョフ! おるのかおらんのか!」
「は、はいっ! ユーレンここにおります!」
横にいたザペラが肩を叩いてくれたお陰で怒りのこもった叫びにようやく気付いたユーレンが慌てながら返事をする。相変わらずマイペースな男だ。校長先生は「なら良い」と咳払いすると、コールを再開した。
「次、ニーナ」
「はい」
「ラメニルス・ブルミングバーグ」
「はーい」
「よし、全員おるようじゃの。諸君らには明日からディラの街へ行ってもらう」
「ディラと言えばアイゼルモッケン東部のディラですか?」
「察しが良いな。その通りじゃ」
ディラとは森を切り開いて新たに開拓された土地を意味する地名で、同じ名前の場所は結構多いらしい。だからアレサンドロはまずどのディラかを確認したのだ。
そして任務の内容は以下の通りであった。つまり、魔窟の森に近接するディラという街に近頃人喰い熊が出没しているので、こいつらを倒して平和を取り戻して来いというものだ。
「それで具体的な被害はどれほどのものなのですか?」
「事の起こりは二ヶ月ほど前じゃ。定期的な警備のため森へと向かった警備兵の一人が時間になっても帰ってこなかった。不審に思って捜索に向かった仲間もた同じじゃった。そして翌日、血の色に染まった彼らの衣服の切れ端が見つかったのじゃ」
想像するだけでもおぞましい惨状に俺は言葉を失った。この世界においては人間と野生のバランスが俺がもともと生きていた二十一世紀の地球と比べても拮抗しているのだろう。だから人間が野生の住人にちょくちょく負けたりすると。身が震える。
「犠牲者はそれ以降も増えてすでに二十人を超えておる。しかも奴らは人肉の味を覚えおった。森の中から麓にまで降りてきて、ちょうどその時ヒツジの世話をしていた牧童二人も犠牲になったという」
「おお、何と痛ましい……」
「確かにそれは捨て置けませんね。今すぐ向かわねば」
「そうですね。平和を脅かす相手ですから早く対処しないと」
「いいや、ちょっと待てい!」
アレサンドロはもちろんの事、ゴルディとユーレン、それにニーナもやる気満々と言わんばかりに立ち上がった時、いきなり待ったをかけたのは今回の任務に呼ばれていないはずの男であった。
「何じゃイルラスよ。お主は今回の任務に加わっておらぬはずじゃが?」
「ラネの事よ! わしのラネをいきなりそんな危ない任務任せて! しかもわしもおらんのに」
「お兄ちゃん、ぼくの事なら心配せんでもええんよ。いつかは任務を経験するもんなんじゃけえ。そりゃあお兄ちゃんがおらんのはちょっと怖いけどアレスもゴルディもおるんよ? 大丈夫よ、きっと」
「じゃ、じゃけどのお……」
実の弟同然にかわいがってきたラメニルスを心配するあまり過保護な親みたいになっているイルラスだが、肝心のラメニルスがしっかりしているので少し滑稽に見えた。
ラメニルスは笑顔だったが内心では呆れていてもおかしくない、と思うのは俺の心が汚れすぎているからなのだろうか。イルラスとしては本人の心がこうである以上これ以上の追求も出来ないし、「そうか分かった」と言うとくるりと体の向きを変えた。
「今回のリーダーはアレスじゃけえのお、任せるしかないのお。本当に、弟を頼む」
挙句の果てにはこんな事言いながら頭を下げる始末。さすがのアレサンドロも「ええ、任されました。とにかくラネ君だけは誰よりもしっかりと気にかけていきますから」と言いつついささか苦笑気味であった。
表現が過剰とは言っても、それだけ愛してあげる対象があるイルラスの姿を羨ましく思ったのもまた事実であった。元の世界であっても俺を本当に愛してくれていたのは家族ぐらいのものだった。その家族はこっちの世界にいない。
俺の心はいつもタイトロープの上を歩いているようなものだ。ちょうど三日月斧でバランスを取りながらね。普段、何も考えずに進んでいられるうちはまだいい。しかしほんの隙に立ち止まったり、ましてや下を向いてしまうとそこにあるのは真っ暗な奈落のみ。
愛する人、戻るべき場所とはセーフティネットみたいなものだ。それがあるからこそ恐れずに進む事が出来る。俺には何もない。
闇に落ちてしまえばどうなるのか。それも怖い。虚無の中で人非人と化して世界を制覇せんと暴れまわるような人間にはなりたくない。でも俺は何を目指しているのかと言うと、これがまた「優しい世界を作る」とか激しく抽象的な事柄なわけであってね。
つまり何をどうするのがいいのか。それすら今の俺には見えてはいない。とりあえず俺の思うがままにやるのが正しいわけじゃない事ぐらいは分かる。でもそれだけだ。だから俺は今ここにいる。もっと勉強するために。それとコネを作るために。
何でもかんでも自分一人でやろうなんて独裁者は面倒臭いしパスしたいものだ。でもこっちの世界にどうにか馴染んでみたとして、本当の意味で俺の全てを曝け出せる相手なんていないんだよな。
例えばアレサンドロ。向こうも多分そう思っていただけていると信じてるけど俺としても親友だと思っている。でも言えない。嫌いだからとかじゃない。好きだからこそ言えない事だってある。
ただ一人だけ例外もいる。それはもちろんニーナだ。この世界において俺の事を一番良く知っているのはあの天使をおいて他には存在しない。でも明日からは天使と別れてしまう。ニーナも今回に任務に連れて行かれるからな。
ああ、どうせなら俺の名前も呼んでくれたら良かったのにと心の中で嘆きつつも顔は平静を装い「ニーナ頑張れよ」と送り出すのみであった。
「そうですね。僕にとっても初めての任務ですし、しっかりやらないと」
「ああ……、なあ」
「えっ? 何です?」
「いや、別に……。頑張れよって、それだけ……」
他の仲間の視線を気にした、いささか他人行儀な会話でお茶を濁す姿は我ながら不甲斐なく思う。しかしあまり感情を露わにしすぎて本当の事を喋ってしまうとまた弁解が面倒になるから俺は俺で綱から落ちないように慎重にバランスをとっているつもりなんだが、そんな気苦労を無駄だと思わずにいてくれるのはニーナだけだ。
やっぱり少しだけ寂しい。




