続・個人授業
「なあハッセよ、ちょっと話があるのだが」
「何だいヘサッキごめん後にして! 忙しいから」
「ああ、ちょっと!」
今日の授業が終わった瞬間、誰の声も聞かぬうちに俺は誰よりも早く俺は言われた通りの場所へと走り、壁にもたれかかりながらその人を待っていた。太陽はその光色を濃くしながら西へ西へと傾きつつある。
目を閉じて未来を想像してみる。そこに描かれしハートはショッキングピンク。もはや未来は止まらない。ただそれだけしか俺の頭にはなかった。
不意に吹いた西風が俺の頬を叩く。そんな気がしたから薄く目を開き太陽を睨みつけた。そこには確かに、俺が待ち望んでいたたおやかなシルエットが浮かんでいた。
「先生! 待っていました、ずっと……!」
「ああ、ハッセ。こっちへ来て。もっとその顔をよく見せて」
「はい!」
甘い囁きに導かれ、俺は花の蜜に吸い寄せられる蝶々のようにはらはらとシルエットに向かって走った。力いっぱいに走った。
しかし次の瞬間、全ては暗転した。後四歩で抱きしめられる、そんな距離にまで近づいた時、いきなり足が空を走るような感覚に襲われた。なぜだ! 力が入りきらない!
俺は踏み込んだ右足でどうにかふんばろうとあがいてみたが、それは無駄な努力に終わった。突き抜けていく衝撃。やがて俺の肉体は空と大地が反転した世界へと叩き落とされた。
「なっ……!?」
どさりと崩れ落ちる俺の体はまるで死んだ時のように黒い空間へと放り込まれていた。しかしあの時のようにあてのない暗さではない。目にはうっすらとではあるが確かに光が入り込んできている。そしてひんやりとした少し柔らかい質感と土の匂い。
何が起きたのかまるで理解出来ないわけではなかった。しかし何が起こったのか、理解したくはなかった俺の脳はその機能を完全に停止した。
「きゃはははははははは!! 引っかかった引っかかった!! 良かったぞ貴公の慌てふためく姿!!」
そして響き渡る嘲笑とともに先生の顔が空の上を覆った。だがその声は俺の知っている先生のものではなかった。
すると先生は鼻の前に右手の人差指と中指を立てて何かつぶやいた。その瞬間、あのほほ笑みがパズルのピースのように崩れ落ちて中から目尻を潰し口を開きケラケラと笑う子供が現れた。
「お前は……! ザペラ、なのか?」
「ふっ、くくくっ、いかにもその通り。それにしても驚いたぞ、貴公の初さ加減には。拙僧、誰にでも一度はいたずらを仕掛けるものだが、貴公の反応が一番純粋であったぞ。うむうむ、良い事じゃ。その初心を忘れるでないぞ。はっはっは」
深い深い穴の中で立ちすくむ俺は、止まっていた頭脳を少しずつでも動かしながら状況の整理を試みた。その結果得られる答えは、あまり認めたくないものであったがこの現状を鑑みるにそうとしか思えなず、認めるしかなかった。
つまり、俺は謀られたのだ。あのザペラ・ルージェに……!
ザペラ・ルージェ、牧師の子。元々は本場であるパダルカ教皇国、つまりフェリス同盟の南部にある大国の出身だったのだが本人も記憶にない頃にダネット湖を超えてギザミア第三の都市であるオギュノメユンへ移ったという。
親は神に仕える身分なので当然のように子も神に仕える存在となった、はずなのにザペラはまったく敬虔なところがない。多少たりとも威厳を感じさせるのは一人称が拙僧なところぐらいで、それ以外は本当に子供っぽく、いや、もっと言うとガキっぽい印象を受けていた。
授業はあまり真面目に聞いておらず、地理の時間でちょうど隣の席だったのだが、横をちらりと見たところ手持ちの黒板に先生やアレサンドロ達仲間の似顔絵を描いていた。なかなか達者だった。
そして休み時間はずっと大きな声で誰かと話しており、俺も何度か話しかけられた事はあったが正直テンション高すぎるので敬遠している部分もあった。話の内容も「可愛い女の子の知り合いいる?」とかだったりするし。いるわけないだろ。
そしていたずらが大好きなのだ。「近くに捨てられていたから拾ってきたが、可愛いだろう」などと言って猫を抱いていた事があった。
「頭を撫でてごらん。いい声出すぞ」
そう言われたからラメニルスが真っ先に猫の頭に触れた所、首がポロッと取れた。当然阿鼻叫喚だ。しかし当のザペラは大笑い。最初から作り物だって分かっていたのは奴だけだったからだ。
「ほうれ、いい声を出したろう。今のラネの叫びほど迫真の声はそうなかろうよ」
「ま、まったくもう! 死んだと思ったけえびっくりしたわ!!」
「はっはっは。しかしラネも力はあるからいずれ本物の猫の首も撫で斬るかも知れず、気を付けろよ」
「ぼく、そんな事せんよおっ! 力加減には気を付けるもん!」
そうだ。最初から全部そうだ。あの時は「またしょうもない事してからに」なんて我関せずとばかりにため息をついていたが、ついに俺がターゲットとなってしまったのだ。こんなところに落とし穴があって、それにはまったのも全部計算ずくのドッキリ。まるでロンドンハーツだ。
そもそもザペラは変装の名人。土の精霊を用いて、ちょうど人形を作る感覚でその人にそっくりな姿に変装出来るのだ。そして声色を使うのもやたらと上手い。
思えば入寮の際の挨拶で彼は俺やルサカとまったく同じ声を出して、マロールの声真似に至っては方言のアクセントまで完璧に再現していたので単純に凄いなあと拍手喝采を浴びせたのだが、まさかよもやこんな事に使われるとは。
うん、じゃあやっぱり嘘か。全部嘘だったのか。あの風習も、告白も、そしてあの胸のときめきさえも全ては仕組まれた、ザペラの手のひらの上で弄ばれただけに過ぎなかったのか!
体がわなわなと震える。落とし穴の底で俺はうつむき、手のひらの皮が破れるまで拳を強く握りしめて立ち尽くしていた。その後もザペラは何やら言ってたらしいが、そんなものはもはや俺の耳に一欠片も入っては来なかった。
この辱めをどうしてくれよう。空の色が青から黒へ塗り替えられるように、俺の心はそれ一色に染まっていた。ボロボロと溢れる涙を拭おうともせず、奴の理想的な処刑方法の数々を思いつくままにつぶやいた。
「単に首を跳ねるだけじゃ駄目だ。痛みを、もっと痛みを感じさせなきゃ、どうせ殺すなら意味がない。じゃあ殴るか。でもあんな奴の血で俺の拳が穢れるのは美しくないな。じゃあまずは控え目に四肢をバラバラに切り刻んでからのほうがいいか。いや、その前に指の関節ごとからスタートしよう。それで泣きわめいても俺は一顧だにせず血管を一本ずつ切断していくんだ……」
ひと通り妄想し終えてようやく穴から出てきた時には、斜めに伸びた校舎の影が草原を黒一色に染め尽くしていた。とにかく明日だ。俺は何も心に残っていない、空虚な笑顔でその日を過ごした。
「明日は確か、体育があったよねえ。ふふふっ、はははははは……!!」
悪い今日はもう終わりだ。明日はきっと楽しい一日になるだろう。いや、そうしてみせる。
「さて、予習もこんなものだな。ハッセはどうだ?」
「うんアレス、こちらも至って快調だよ。くふふっ」
「んっ、どうしたんだハッセ。何か嬉しい事でもあったのか?」
「ええ、まあ、何と言えばいいのかな。とにかく今日はもうおやすみなさい」
「ああ、そうだな。じゃあおやすみ」
寮では同室のアレサンドロに気付かれないようにと思ったがやっぱりすぐにばれてしまうものだな、俺の心の動きなんて。サトラレって奴か。その手の病気を患ってるわけじゃないよ。それに大事なのは俺が明日何をするかであって、そこは感付かれていなからセーフ。
一瞬、ろうそくが灯していた仄かな光は風の精霊によって完全に消し止められた。こうなったらもう見られる事もない。邪な企みに脳を完全に支配された中で俺は二段ベッドの高い方に上り、眠りについた。




