幕間 ハッセ、ソープで散財する
「空の色も変わってきましたね」
もう今日はここらにしとこうかと思ったタイミングを見計らっていたかのように聞こえてくるニーナの美しき調べはさながら夕刻を告げる鐘の音のように響いた。
この声が聞こえてきた瞬間、俺はようやく太陽が大きく西に傾いている事に気付いた。新技開発に熱中していると時さえ忘れてしまう。
今は自由だ。自由だからこそこうやってしょうもない事でも何でも、さも有意義な実験であるかのように全身全霊をかけてぶつかれる、汗を流せる。これが実戦となったら、さすがに俺だってあんな未完成の曲芸を披露しようとは思わない。いつかは実戦で披露する時は来るはずなのだがそれはあくまで最終目標であって、今の俺にはまだ届かない領域の話だ。
それをいつかきっとと追いかけるのは男のロマン。俺は大きく息を吸い込んで体内にこもった熱を冷ますべく風を循環させると、始める時と同じような勢いですっくと立ち上がった。
「そうだな。いい時間だもんなあ。じゃあ頼むよ」
「はい」
回復魔法を体に受けて生傷を全部なかった事にしてから、俺とニーナはマーブルクのメインストリートを大きく外れた一角にある家まで戻った。地味な灰色の石壁に何の飾りもない木窓が付いている、この街だと標準的な住宅なのでこれが自分の家だと分かるように扉の上にカシスのレリーフを備え付けている。
これは俺達の住まいとしてアレサンドロから提供してもらった家だが、特に何があるってわけじゃない。ただそこそこ広くてそこそこ柔らかいベッドがあるだけで俺としては十分だった。
しかし足りないものもやはりあって、その最たるものがお風呂だ。日本人だから前は毎日お風呂に入っていたが、こっちの世界だと本当に長らくご無沙汰なので体かあの温かい湯を求めてぐるぐるしている。
「でもドラガニアじゃ入浴はそれほど広まっていないんですよ」
「じゃあどうやってこっちの人達は体を洗うんだ? まさかそのままじゃないよね?」
「一般的には川で沐浴ですね。そうだ、一度やってみます?」
以前ニーナにこう提案されたので試しに川に浸かってみた。当たり前だがひんやりとして心地良い。でもそれだけでは物足りなく思える。それに体を擦ったりはしないので汚れが取れた感覚がない。やはり入浴したいという思いをかき消すには至らなかった。
そこで普段は墓石を作っている職人さんに頼んで、人間が横に並んで三人ぐらい入れるサイズの浴槽を作ってもらった。「だいたいこういう感じでお願いします」と頼んでみたところ最初は「石の棺桶かい?」なんて言われてしまった。
だから「とにかく一箇所水を抜く穴を作って、それ以外は水も漏らさぬようにお願いします。それと内側の角はなるべく滑らかに」と念を押した。さすがに職人は腕が立つもので、初めて見たものもしっかりと作ってくれた。しかも魔法で。
まず職人は浴槽の素材である石を庭にばら撒いた。でもそれは研磨されているわけでもない、まさに原石そのものであった。
「土の精霊よ。この石どもをこの設計図通りの形に組み立ててくれ」
職人の指示に従って石たちが勝手に動き出したかと思うと、見る見るうちに石が研磨されていき、それが組み上がって浴槽の形になった。最後に穴を埋める栓の役割となる石もころんと出来上がった。大体一分ほどで完成したのだからまさにお見事。鮮やかなお手並みだ。
「これでいいですかい?」
「ええっと、でもその前に水を張って試してみないと」
「そうですね。じゃあ行きますよ」
ここであらかじめ水を瓶に入れて待機していたニーナが立ち上がり、水を風呂桶に注ぎ入れ始めた。三割ほどが埋まったが特に漏れたりはしていなかった。信頼していたがさすがは職人さんの腕だ。次に栓を抜いてみたところ、静かに水が抜けていってついには空になったが、ここでも大きな問題は見当たらなかった。
「よし、実験成功。ありがとうございました」
「毎度あり! それじゃ、何に使うのかは知らんが大事に使ってくれよな」
そして受け取るものを受け取ると職人さんは帰っていった。魔法をああやって活用する姿こそ真の意味で精霊と信頼関係を築いているって事なんだろうな。そしてその精霊をマスターしているまた別の男を俺は待ち侘びていた。
「ハッセよ、ワシに何か用があるとの事じゃが?」
次に来たのはあらかじめ呼び出しの手紙を送っておいた相手だった。体は子供、口調は大人を通り越して老人の元魔王デザイアだ。俺がやっつけちゃったからその魔力は全盛期の半分以下だが、基礎的な魔法は未だにバリバリだ。例えば水を作ったり火を出したり、そういうのは基礎中の基礎で、忘れるわけがないそうだ。じゃあ利用しちゃおうって事だ。
「おお、来てくれましたかデザイア。実はですね、この石で出来た浴槽、まあ容器のようなものですけどこの中を水でいっぱいにしてほしいんです」
「水でいっぱいに? まあよかろう」
デザイアはすかさず水の精霊を使役して浴槽を水で埋めた。次にそれを温めるようにお願いした。デザイアも何のためにそんな事をするのか理解しかねるという表情だったが、とりあえずは俺が言った通りに炎の精霊を用いて温めてくれた。
「出来るだけゆっくり温めてくれると助かります」
「ふうむ、ならばその通りにせい」
俺は水に右腕を突っ込んで温度を計っている。今デザイアが行っているのは水の中に炎の精霊を潜り込ませるという作業で、目に見える火とかがなくても着実に温度が上昇しているのがよく分かる。
「はいここらでストップを」
「うむ。炎の精霊よ、燃焼を止めよ」
程よく温まったところで温度上昇をやめてもらった。ここでデザイアにはありがとうございましたと頭を下げて、お帰り願った。そしてもうしばらく待っていると三人目の、本命と言える客がようやく来てくれた。
「やっと来たなルサカ。今日という今日は勘弁してやらないからな。覚悟しろよ!」
「なっ、何をする気だ!?」
ルサカは体中が泥で汚れており、口元は赤い血の色に染まっていた。一体何を食べたんだ。まあいい。ある意味汚れているのは幸いだ。一緒くたにまとめてやるぜ。
「知れた事よ! お前の体を綺麗に洗ってやるんだ! ふふふ、まずはその服をひん剥かねばな。ニーナ!」
「はい!」
ニーナがルサカの背中を取ると両腕で締めあげた。ルサカは往生際が悪くじたばたと抵抗していたが俺が前の結び目を解き、それと同じタイミングでニーナが後退して両腕にかかっていた袖を引っ張ると瞬く間にこの野獣はその生き様にふさわしい、生まれたままの姿となった。
「さあさあ、こっちおいで。何も怖がる事はないよ」
研ぎ澄まされた野生の警戒心を解きほぐすため、俺もルサカと同じ格好になった。夏だからはしたない格好になっても寒くない、不思議もない。俺は両手でお湯をすくって自分の体にかけると、湯船に飛び込んだ。
「ほら、ちょうどいい湯加減だからさ。一緒に気持ちよくなろう」
「絶対嘘だろ! 何をたくらんでる!」
まだ警戒心を隠さないルサカだが、まあなんだかんだ言って俺の事を少しは信頼してくれているのだろう、少しずつ近づいてきた。そうそう、その調子。
「大体なんでお前も裸になってるんだ?」
「まあいいからいいから」
そして恐る恐る右手をお湯に入れたところ、一瞬触っただけでとっさに引っ込めた。言うほどか? むしろぬるいくらいに設定したんだけどなあ。
だが俺はこのタイミングを逃さずルサカの首根っこを摘んで、湯船に引きずり込んだ。
「ああああああああああああ!! や、やめろ!! こんなの無法だぞ!!」
「男だったらじっとしてろ! ほらニーナ、石鹸を!」
「はい!」
俺が指示を出した瞬間、ニーナは前もって桶に用意しておいた石鹸水をルサカの頭にぶちまけた。調べたらこの世界でも石鹸は作られていたらしく、でもオリーブオイルから手作りしてるため相場はちょっと高かったががっつり買って今日の日を待っていたのだ。ルサカはもはや言葉にならないうめき声を発するのみだ。
そして俺はその石鹸水でルサカのゴワゴワした髪の毛を泡立て、垢にまみれた肌をなでてその汚れを少しでも落とそうと努力した。その際出来るだけ、心臓の鼓動を盗み聞きされるぐらいまで近くに寄った。これは敵意のある行動じゃないと示すためだ。その甲斐あってか、激烈だった抵抗も次第に治まってきた。
「ふう、これで大分綺麗になったな。ルサカ、お疲れ様」
生まれて初めての入浴を経験した野生児は目を閉じてただ荒々しい呼吸をするばかりだった。泡にまみれた数分の激闘はかくして終わりを告げた。最後にニーナが俺達の頭の上から水をかけてくれたのだが、それで開けた視界に映ったのはシャボンと垢によってどす黒く変色していた浴槽であった。
「あらまあ。これは酷い。早速しっかりお風呂掃除しなくちゃなあ」
普段そんなに綺麗好きではない俺も思わず肩でため息をつくほどであった。一体幾重の垢が溜まっていたのか。色だけでなく臭いもとんでもない。しかしその成果として、ルサカの肌の色がちょっと明るくなった。
それに匂いも大きく改善された。鼻をルサカの肌に近づけてもひん曲がる事なく、むしろ芳しいフローラルの香りが春風を運ぶような爽やかさだ。それとなぜか髪の色も真っ黒だったものが赤みがかってきた。一体何の色だったのか。
ルサカ本人からすると相当不本意そうだったが翌日以降、皆と会った時口々に「あれ、今日は臭くないな」みたいな事を言われまくっていた。やっぱりそう思われてたんだよね。それ以降も毎日のように垢を取り除くべく風呂に入れた。その頃にはルサカも熱湯にはかなり慣れ、猫のように丸まって入浴を楽しむようになった。
かくして俺は円換算すると百万ほど散財してしまった。そのほとんどは石鹸代だ。初日とか一発で十万ぐらい吹っ飛んだからな。でもまあ、仕方ないかな、みたいな。石鹸の量産体制が整ってないからね。じゃあ一発技術革新を、と意気込みたくなるが実際石鹸をどうやって作ってるかとか知らないしどうにもならない。
それと結局このお風呂は半ばルサカ専用みたいになったのも多少気になるところではあった。でもまあいいや。多少狭いけど入ろうと思えば二人で入れるし。でも次はもっと大きいの作ってもらおう。その時はこう思っていた。
しかし俺達は知らなかった。次に訪れる運命を。この平和なマーブルクの暮らしは間もなく終演を迎えるという真実を。それは親愛なる友より届けられた一枚の紙切れから始まった。
幕間は今回で終わり。明日には本編の第一話を投稿します。




