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パレストリーナ国王メルクリシスは夜な夜な馬小屋で馬と体を重ねるとんでもないアレだと判明した。と言うかそんなのを見せられる俺の気持ちにもなってくれよ。本当にげんなりするものを見てしまったのだが、彼に罪悪感はない。それどころかインモラルな生き方を肯定しているようだった。
ただその気持ち、分からないわけでもなかった。大体俺が勇者になる事を決めた理由の一つはもてるから、だもんなあ。もてる奴がもてた先に何をするかと言うと、それは当然口では言えない事をするわけであって、ましてや俺みたいないきなり出現した外来種が女をたぶらかして次々とものにするとかインモラル以外の何物でもないじゃないか。残念ながら現状そこまでもててないけど。
「そもそも道徳的に生きて何が得られる?」
「そ、それはですね。いや、大体王様でしょうあなた。そんなので国民に範を示せるんですか?」
「国王なんて……」
ここでいきなり声のトーンが代わった。カミソリがすっと肌を横切った後のような寒々とした痛みが俺の心を襲った。
「国王になって良かった事なんて今までに一度もなかった! 少し闇魔法の才能があるだけで故郷から遠く離れてこんな星も見えない乾いた街に!」
パスカルは都会なので篝火も多く、その明かりが夜を彩る儚げな輝きの色を奪っていたのは事実ではあった。まあ日本の都会と比べると全然見えるほうだけど、そんな事はメルクリシスにとってどうでもいい事だ。
「君には見えるかい? 北西に浮かぶ黄色い星が」
「北西に? えっと、どれだ?」
窓を覗いて探してはみたものの、夜空には数多の星が瞬いておりどの星の事を言ってるのかよく分からなかった。こっちの世界における天文知識ないからどれがどうとかさっぱりだ。
「ベラドンナ。妹と同じ名前の星だ。マセティアの夏はベラドンナをいつでも探す事が出来た。草原に寝転がって妹と一緒に眺めるだけで心は満たされていた」
そう言えばベラドンナも同じような情景を思い出してたな。星空を眺めるのが本当に好きな兄妹だったんだなとほのぼのしたが、そんな呑気な感情をメルクリシスは冷たく激しい口調で切り裂いた。
「でももう戻れない! 今は何も見えはしないのだ! だから君には今すぐ断ち切ってほしい。星も見えぬほどに薄汚れた操り人形のくだらない一生を!」
少年王の苦悩が少しだけ見えた気がした。確かに十歳かそこらで国王としての任務を果たせるはずもなく、政務はもっぱらあの化粧ババアの言いなりだった事は想像に難くない。そしてメルクリシスにとって不幸だったのはその現状を気にしないでいられるほど無責任な人間性じゃなかったって事だ。
自分が何も出来ない事だけははっきりと認識している。でも分かったところでどうする事も出来ない。ただ自分ではなく闇魔法の才能だけを愛する母親や臣下の言われるがままに暗殺などの政務をこなし、ただそれだけの日々日常。
あのおぞましき行為の数々もとどのつまりは誰にも操られていない自分、生きている実感を求めていたのだろう。そのために心も体も傷つき、それでも癒やされずついには死に憧れるまでに追い詰められている。
俺は彼に何をしてあげられるだろうか。言葉も無いまま三日月斧を拾い直して、構えた。
「そうだ。それで首を軽くかすめるだけでいい。そうすれば、もう苦しむ事はなくなる……」
両手を広げるパレストリーナ王メルクリシス。それはまるで来るべき歓喜の瞬間を今か今かと待ち構えているようであった。俺は何も言わず、勢い良く細い首に突き立てた。
が、やっぱり考えが変わったので三日月斧の切っ先を少しずらした。
メルクリシスの背中を占める壁には穴を開けたものの、首筋は完全に空過して桃色の髪の毛二三本をはらはらと落とすだけに終わった。
「ど、どうしたのだ! 臆したか!」
俺を罵倒するメルクリシス。しかしその声は震えていた。狂気という雲の向こうには彼の確かな真実、十年生きてきた人間としての心が隠されていた。
「……そうだよ。君と同じでね」
俺は微笑みとともに確信を持ってこう答えたが、メルクリシスにとってはまったく予想外のショッキングな回答であったらしく、しばらくは言葉を失っていた。
「なっ……! どういう事だ。余が死を恐れたとでも言うのか!?」
「そうさ。気付かなかったのかい? 君が心の底から狂っていたなら俺もためらいなくこれで首を刎ねていただろうけど、そうじゃなかった。もっとも俺も気付くのがちょっと遅れたから人のことは言えないけど、どうにか間に合って良かったよ」
あの瞬間、まさに少年王の首にターゲットを定めて、そのまま掻っ切る事を覚悟していた。むしろそれが勇者としての義務、乗り越えなければいけない壁を越える瞬間だと思っていた。そして突き刺そうとした刹那、メルクリシスの瞳がほんのわずか収縮したのが見えた。
メルクリシスは怯えていたのだ。死を恐れる心がまだ生きていたのだ。人間としては当たり前の反応だ。死を恐れないと言うが本当にそんな人間がいたとしたらそれはすでに人間を捨てているのと同じで、そっちのほうがよっぽど恐ろしい事だ。
「君の心は何度も傷つき苦しんだ果てに多くのものを捨ててきたんだと思う。でも幸い、未だに人間である事を捨ててはいなかった。だから殺せない。君は俺と同じ方にいるって分かったから」
「君に何が分かる!」
ああ、どうせ言われると思ってた事を言われてしまった。でも実際これは一理ある。色々辛い事は多かったとは思う。でも全てを理解出来るものではない。俺とこいつはあくまでも他人だからだ。
「ごめん。俺にだって君の抱える絶望の全てを理解しきってるわけじゃない。だからこういう事しか言えないけど、君はまだ生きるべきだと思う。妹さんだってそれを望んでいる」
「ベラドンナは……。だが、もう遅い。ベラドンナにも暗殺の手は伸びている。母上の指示だが、最後に命令を承認したのは余だ」
「でも、君はそれを望んだわけじゃないんだろう?」
「当たり前だ!」
ためらいのない返事に、俺はなぜか少しだけ嬉しくなった。そしてやはり手に掛けるべきではなかったと再確認するに至った。今はとにかく目の前の彼に生きてほしい、生きる勇気を持ってほしいとだけ心から願った。
「それなら、そのようにすればいいじゃないか。もう戻れないかも知れないけど進む事は出来るはずだよ。俺はね、この三日月斧で君の首を斬る代わりに君を操る糸を断ち切ったつもりだ。ねえ、君はもう自由なんだ。そして誰のためでもなく君の思う真実にのみ従い、決めればいい。きっと、答えは今君が掴んでいるのだから」
メルクリシスはなおも何か言いたそうだったが俺はそれに背を向けて、一直線に扉に向かいまったく振り向かなかった。もう言いたい事は言ったし、伝える事と伝わる事、どちらも十分に満たされたから。
何でもかんでも差し出がましく指示を出す必要なんて、彼には全然ない。それを十分に理解したああしろこうしろとは言わない。後は彼が歩けば道になるだろう。そう確信していた。
俺は間もなく合流した他のメンバーと一緒に王宮を脱出した。
本拠地に戻った俺達を真っ先に迎えてくれたのはアレサンドロだった。「明日の事もあるのに眠らなくて大丈夫なの?」と聞いたが、そんな精神状態じゃなかったらしい。ううむ、やっぱり発想からして無茶だったからなあ。心配しないでって言葉でかえって心配かけてしまったかな。
「それで、フィールは?」
「ああ、フィールはね、ごめん。先手を打たれた。だからもう、この世にはいない」
「そうか……」
「やっぱり操られていたんだよ。悔やんでるみたいだった。でも懺悔の暇すら与えられずに……」
「分かった。あんな事があっても僕にとってのフィールは任務に忠実な大臣だった。今は冥福を祈ろう」
アレサンドロは目を閉じて、変わり果ててしまった者の平安を祈った。俺ならこうは出来ないな。
「ところで、兄上はどうでしたか?」
アレサンドロの背中からおずおずと出てきたのはこれまた眠っていなかったベラドンナだった。小さく、そして不安そうに震える声色。そのこわばった心を打ち消すために俺は微笑みながら答えた。
「彼はあなたの言った通りの人でした。何も忘れてはいなかったんです」
「そうですか」
「星を眺めていました。黄色い夏の星を。もう何も心配する事はありません」
俺の言葉を聞いたベラドンナの瞳にうっすらと潤むものが見えた。安堵の涙。それはどんな宝石よりも強くきらめく刹那の輝きであった。
「ところで次の交渉は明日だっけ、アレス」
「ああ、そうだ」
「ならもう眠ろうじゃないか。差し障りがあると大変だから」
「そうだな。とにかく、君達が無事でよかった。今はただそれだけなんだよ」
アレサンドロも随分と目が潤んでいて、もうちょっと若ければ確実に落涙していただろうとは容易に想像出来る程であった。俺は気持ちを鎮めるためにぶどうジュースを飲んでからごろりとベッドに崩れ落ち、今後の事をあれこれとりとめなく考えるうちに眠りに落ちていた。




