新世界へのプロローグ
「ああ畜生、痛ってえなあ! いや、痛みがないぞ。目も赤くないし。何だこれは……!?」
目覚めた時、俺は暗闇の中にいた。上下左右、振り向いてみても何も見えない。ひたすら漆黒だ。
ああ、ここが地獄なのかなと最初は思った。これが天国か地獄かで言うと間違いなく後者だろうから。そんなに悪いことはした記憶ないけどな。
いや、冷静に考えると結構あくどい事もしてたな。デパートでおもちゃのパーツ万引きとか。それに蟻を無駄に踏み潰したりバッタの柔らかい腹を触りすぎて破ったり。でも最大の悪行と言えば親よりも先に死んじゃった事だよな。賽の河原だっけ。あそこで延々と石を積む仕事しないといけないのか。
「やっぱり死ぬんじゃなかったな。もっと生きたかった」
涙を流すのは小学生までって決めてたくせに、瞳に熱いものが浮かんでしょうがない。それがあっさり溢れて膝を濡らした時、足元が急に明るくなったかと思うと、白くゆったりとした衣装に身を包まれた金髪碧眼の子供が目の前に現れた。
「初瀬顕真さんですね。お待ちしておりました」
「な、何だお前は!?」
「はい、僕は天使です。名前はニーナって言います。以後お見知り置きを」
見たところ八歳ぐらいの自称天使は、その欧米ナイズされた見た目に似合わず流暢な日本語を操りながらペコリと頭を下げてきたので、俺も「あ、ああ、よろしく」と思わず頭を下げた。
状況を全部把握出来てるわけじゃなかった。でもなぜかこいつが天使だって事は信じられた。金髪碧眼のいかにも天使ってルックスだからだろうか。別に背中に翼があるとかじゃないんだけど、単なる子供にしては高貴なオーラが漂ってるし。
それにしても、天使を名乗るだけあって顔はかなり美形だ。でも何となく醒めたような目線が妙に印象的だった。クールと言うかプロフェッショナルと言うか、口調もどこか意図的に抑えているようだし。
「でも、とりあえず天使がいるって事はここは地獄じゃないんだな。ちょっと安心したな」
「地獄だなんてとんでもない! ここは天界です。周りをご覧ください」
周りって言っても真っ暗だったろ、と思ってもう一度辺りを見回すと今までに見たこともないような光景が俺を包んでいた。
白くてフワフワした床はまるで雲のように柔らかく、周囲は桃色の光に包まれ、遠くには石造りの荘厳な門がうっすらと浮かんでいる。
「納得していただけましたか?」
「はええ、これはまた……。凄いや」
このような光景を目の当たりにして凄いとしか言えない語彙力の無さを嘆きたくなるほどに素晴らしい光景だった。ほら、また素晴らしい光景とか安っぽい形容しか出来ない。
とにかく、ここにいるだけで暖かく安らぎに満ちているみたいな……。冬の朝、目が覚めたもののすぐに起きる事なく布団にくるまってうだうだしている時のような感覚だ。
「うーん、でもここが天界だとして、俺は今どうなってるんだ? どうも理解が追いつかない」
「ええ、それなんですがね、いやあ、まあ、何と申しましょうか」
天使はなぜか言葉を濁していた。何だこいつは。お前以上にわけ分かってないのは俺なんだからしっかり説明してくれよ。そんな気持ちが口調にも出たようで、ついつい語尾が荒くなった。
「だから、どうなったんだって。俺は、確か死んだよね? だからここにいるんだよね?」
「ええと、じゃあまずそこから説明しますね。はい、あなたは間違いなく死にました。トラックに轢かれて全身をアスファルトに強く叩きつけられ即死。見てみます? 自分の肉体が今どうなってるか」
「……いや、いい」
俺は天使のお誘いを丁重に断った。グロ画像は苦手だから。すると天使は「ええ、それがいいでしょうね」と事も無げに言い放った。やっぱこいつ態度悪いな。
でも自分の肉体がメタメタになってる光景なんて見るもんじゃないし、見たいと思わせないような態度を取るのがひとまず正解なんだろうなと無理に納得した。
「でもね、あなたはとても運が良かったんですよ!」
「どこがだよ! 今までの人生、特に人に羨ましがられるようなイベントに出くわした事もないし、しかも何も出来ないまま死んだっていうのに!」
「ええ、まあ今までの人生は確かにちょっとアレでしたけどね」
ほれ見ろ。やっぱり駄目な人生だったじゃねえか。ああ、どうせ死ぬって分かってたら無理矢理にでもあれやこれをやっておけばよかった、などと倫理に外れた考えが浮かんだところでそれを制すように天使は言葉を続けた。
「でも死んだタイミングが良かったんですよ。ちょうどですね、こことは別の世界における勇者枠に空きができたんですよ。それで天界会議の結果最初に死んだ人を勇者として召喚しようって事になりまして。それが初さん、あなただったんですよ!」
と言うか何が初さんだ馴れ馴れしいなこいつ。ハッセは言われ慣れてるけど初さんなんて初めてだ。苦痛だ。でもまあ、そこに悪意が介在しているとは思わないので気を取り直し、慇懃無礼な天使の説明を結構真面目に聞いてみた。
それをまとめるとつまりこういう事らしい。まずこの世界には、と言うか世界ってのが俺が生きてた地球がある世界の他にもいっぱいあって、そのいっぱいある世界たちを統括しているのが神様とか天使とかそういう奴らだって事だ。
そしてすべての世界における魂の総量は一定であるので、例えば俺のいる世界で死んだらすぐに別の世界に転生してまた新しい生を授かる。当然その際は前世の記憶は抹消されてまったく何も知らない生命として一生をまっとうする。
しかし一部には例外がある。それが勇者枠というものらしい。暴れる怪物とか魔物に対抗するためには知識が多ければ多いほど良いので、その世界において勇者となる人物は例外的に前世の記憶を抹消される事なく転生されるのだ。
いや、転生と言うか知識だけでなく年齢も前の世界で死んだところから換算されるから転移って言ったほうが近いのかな。しかもパワーはかなり強化されるらしい。
「どうです? 無理にとは言いませんけど、人生やり直してみたいでしょ?」
「うーん、そりゃあね、どうせならもっとうまく生きてみたいもんな。ああ、そうだ。ちょっと尋ねたい事があるんだけど」
「ええ、どうぞどうぞ。気になる事があれば何でも尋ねてください」
と言うわけで俺はいくつかの質問を天使にぶつけた。
「まず第一に、そもそもどんな世界に移転するんだ?」
「文明レベルはこっちで言うと数世紀前ってところですよ。いわゆる剣と魔法の世界って奴ですね。変な病気も蔓延してますけどそれはこっちでガードするから大丈夫です」
「へえ、結構便利に出来てるんだな。でも勇者って危険じゃない? しかも敵の魔族とかモンスターもいるんだろうし、戦いの日々になるんならきついかも知れないけど」
「危険と言えば危険ですけど、身体能力はかなり強化されますから問題ありません。今の初さんが戦闘力5だとした場合、転生すると大体53万ぐらいですかね。それに治安についてですが、そりゃあ現代日本と比べると危険も多いですがそんな戦いばっかりってわけじゃないですよ」
「それならいいけど。ああ、そう言えば異世界って言葉は通じるの? 俺日本語しか駄目なんだけど」
「言語は魔法のパワーであらゆる言語が母語、つまりあなたにとっては日本語として認識できます。そしてあなたが日本語で話しても現地ではその人の母語として発声してるように聞こえます」
「顔も今のまま?」
「顔は希望すれば多少良くは出来ます」
立て板に水。俺が発した疑問質問にすらすらと答える天使の姿はまさに天使。神々しい後光まで見えた気がした。そして最後に、一番重要な質問をぶつけた。
「もてる?」
「もてます」
もはや何の迷いもなかった。特に最後の質問に対する答えを聞いた瞬間、俺はためらいを完全に捨て去った。
「ううむ、いいじゃないか異世界! そこに俺が必要とされているなら、もはや断る理由なんて存在しないじゃないか」
「良かった。決断していただき本当にありがとうございます。それじゃ、顔面エディットから行きますか!」
「おう!」
かくして今の顔にさらばを告げる旅路を歩み始めた。
これは虚栄心なのか? いや、人間の根本的な欲求だ。どうせ生まれたなら不細工なままじゃなくて少しでも良くしたい、改善できるのなら改善したいという。そう、言わば人間としての向上心の問題であって決してやましい行動ではない、はずだ。そうだと信じたい。
まず髪型は、特に代えなくてもいいかな。ただ輪郭はちょっといじった。元々子供っぽすぎたから、全体のシルエットをしゅっとさせた。それだけで同じ髪型でも割と印象が変わってくるものだ。
目はぱっちり二重まぶたにして、サイズも大きくした。そして瞳孔の色は結構色々考えた。当初は右が金色で左が赤のオッドアイとかも考えたが、それも何か臭いので両目ともに紫色にしてみた。
ただそうなると髪の色との調和なんかも大事になるな。と言う事で髪の色は黒から軽やかなプラチナブロンドに変更してみた。黒と紫だとちょっと濃くなりすぎるような気がしたので。鼻も高くして、唇も多少薄く、肌の色は今のままでいいだろう。体格は少し太って中肉中背にしつつちょっと身長を伸ばして、しかも伸ばす部分は足。まあこんなもんだろう。
いや、やっぱりもっと考えてみよう。どうせ二度目の人生だ。俺は男として生まれ、男として生きてきてそれ以外を知らない。じゃあ今度は女になるってのはどうだろう。そうなると髪の毛もグッと伸ばすべきだし、後は胸だな。
ううん、どうしようか。貧乳もそれはそれでロマンだがどうせなるなら巨乳に限る。スリーサイズで言うと99-58-89ぐらいで行こう。身長はもうちょっと足を伸ばしてスタイルを良くして。よし、これで完成だ。
「満足しましたか? 鏡で見てみましょうか?」
すると天使はどこからか全身鏡を取り出してきたので俺は生まれ変わった俺の姿をまじまじと見つめた。
「うわっ、何だこの女!?」
突如目の前に現れた見知らぬ女は俺を見て酷くあきれ返っているようだった。いや、この見知らぬ女が俺なんだ。全然そんな感じはしないけど。
一言で言い表すとしたら「別人」。それ以外にはもう何も言えないほどに自分とはまったく異なる存在が鏡の前であんぐりと口を開けている。でもこれが新しい俺の姿なんだから今のうちから目を慣らしておかないと……。
いや、やっぱり駄目だ駄目だ! 見た目だけ女になったところで中身は初瀬顕真というしがない男子中学生であって、それで十数年生きてきたものを急に変えられるはずがない。
大体一人称とかどうするんだ? あたしは、とか言えないぞ。いや、頑張って演じたとしても絶対すぐボロが出るのは目に見えている。一人称が俺の女なんてスターボーぐらいのもんだし最悪だ。
それに勇者はもてるって話だ。冷静になれ。女の姿になって男にもてても全然嬉しくないぞ。むしろこういう女にもてるようになるべきであって俺がこんな姿になる必然性は皆無!
おおっ! よくそこに気付いてくれた俺! うん、俺の頭もまだまだ捨てたもんじゃないな。
「ううん、やっぱ元に戻したほうがいいな。色々考えたけど俺は俺であって女じゃなくて男だから」
「はいはい分かりました。じゃあもう、元のままで行きますかね?」
「うん、そうだな。あんまり凝り過ぎるのも問題だからな。ああ、でも目元とか鼻筋は格好良くね」
うん、本当に気付いて良かった。うっかり女のままだと一生後悔するところだった。間もなく、鏡の前には見慣れた少年の笑顔が戻ってきた。
「それじゃ行きますよー! それっ!」
天使が勢い良く上げた右の手のひらから放射状に光が走ったかと思った次の瞬間、穴から落とされたような落下感が延々と続いた。
やれやれトラックで轢かれた次は投身自殺か、とかのんびりと思いながら落下を続けた。もう一度死んだ身だ。こんな事も全然怖くないぜ。
この道の先には俺の目指すべき本当の世界がある、はずだ。寄り道はしないようにと言われた今までの人生がむしろ長い寄り道だったと思えるほどのワンダーに満ち溢れた世界が、きっと存在している。
幸い俺には力がある。チートパワーを振りかざせばいくら顔がこれでも女のほうから「きゃー、勇者様素敵ー!」と寄ってくるだろう。で、よりどりみどりになったところで「お前たちはみんな俺の翼だ」とか言ってハーレムを作り幸せに暮らすんだ。優しい世界万歳だぜ。
「うおおおおおおおおおおおお!!」
今、俺は落下しているのではない。新天地へ、敢然と向かっているのだ。頑張れ勇者! 負けるな俺! 初瀬顕真の真の戦いはこれからだ。
第一部完