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嫌な雲が広がっていたのは国境あたりで分かっていたが、案の定ゼノラビアに入ってしばらく馬車を走らせるうちにざんざか降り出してきた。かなり本格的な雨だ。屋根の上でもバラバラと激しいドラミングを奏でている。
俺はいい。どうせ屋根のある馬車の中にいるんだから、のんびりと華麗なるドラムソロに耳を傾けていればいい。でも御者はそうじゃない。ニーナは今頃ずぶ濡れで、それでも己に課せられた使命を果たすべく鞭を叩いている。
「おーいニーナよ! こうも降ってきたんだから寒かろうよ! 何なら代わろうか?」
「それには及びませんよ」
木の壁越しにニーナの声が響いた。本当にそれでいいんだろうかと思っていたら今度はアレサンドロが「ならば僕と代われ!」と叫んだ。しかし「あなたが一番駄目ですよ。大事な肉体はお父さんを救うために酷使すべきでしょう」と返されたので「むう、確かにその通りではある」と素直に引き下がった。
「じゃあ俺がやる」
すると今度はルサカがこう言い始めた。ダチョウ倶楽部じゃないんだから。壁の向こうから「御者の経験は?」との声がしたのだが、この野生児と来たら一切のためらいもなく「ない!」と叫んだのでさすがのニーナもふふっと吹き出していた。
冷やかしか? 違う。ルサカは真剣だ。第一俺だって御者の経験なんてあろうはずがないのに「代わろうか?」って言ったわけだし。つまり、みんな「俺がやらねば誰がやる」という義務感みたいなものに溢れているのだ。
俺は勇者だし最年長でもあるから頑張らないといけない。アレサンドロは領主の息子だしこの旅も自分が始めた事なので頑張らないといけない。ルサカは年齢が俺達より若いからこそ、自分が重荷になるようではいけないから頑張らないといけないってそれぞれ思っている。
それぞれが同じような事を思っているのだから本当は心はひとつのはずなんだ。ちょっとずれてるけど。
結局それから小一時間ほど、ニーナは雨に打たれながら目的の街であるスプーレまで鞭を叩き続けた。本当にお疲れ様だ。濡れた前髪を指で弾くと水滴が飛び散った。俺は思わず冷えた体を抱きしめて温めてあげたくなった。
「お疲れ。本当お疲れ」
「だから大丈夫ですってば。でも、心配してくれてありがとうございます」
「まったくもう。心配しないわけないじゃないか。あんまり無理はするなよ」
「ふふっ、初さんのその暖かさがあればそれで十分です。さあ、早く宿に入りましょう。初さんまで濡れてしまいますよ」
「ああ、そうだな」
このスプーレという街はそれほど大きくはないし、雨なので露店もあまり並んでおらずいささか寒々しい印象を受けた。宿自体もエスパニスと比べると質素だったし。
しかし夜を越えて朝を迎えるとそれは間違った印象であると思い知らされた。
「さあさあ今朝採れたての野菜だよ! タマネギは銅貨一枚で二つ! ニンジンは一枚で一本!」
「お粥はいらんかねー。ドラガニアの太陽をいっぱいに受けた小麦をたっぷり使った、暖かい乳粥だよー」
暗闇の中ではあんなに閑散としていたメインストリートも朝市とあれば各地から集まった店主たちが声を張り上げており、それに人通りも思ったより多くて活気にあふれている。
さらに子供たちの挨拶や黒い牛のボーボーという地鳴りのような鳴き声も重なり、さながらパレードだ。そして俺もパレードの一団に参加した気分で朝の街を練り歩いた。
「ねえねえそこのお兄ちゃん! 見てご覧よこのソーセージを! うまそうだろう!」
肩をぐいと引っ張られたので向かった目線の先では、ヒゲもじゃの親父さんが鉄の網でソーセージを焼いていた。肉汁がしたたり炎の勢いを強めている。ジューシーな匂いが一面に広がり、俺は思わず生唾を飲み込んだ。
「一本銅貨ニ枚! 今なら三本で銅貨五枚! お得だよ! さあさあ買った買った!」
うまそうだなと心は強く惹かれた。しかしごめんなさいと頭を下げる以外の選択肢を俺は持ち合わせていなかった。「何だい残念だね」と店主の親父さんから言われたが、本当に申し訳なかった。文字通り一銭も持ってないわけだから、最初から冷やかし以外の何者でもなかったわけだから。
今頃食料の調達はアレサンドロがこなしているところで、俺は社会見学とか無理を言って連れてきてもらったのはいいが絶賛迷子中なのだ。本当にごめんなさい。鈍臭さとか間の悪さはチートパワーを得てもあんまり変わってなかったみたいです。
金さえ持ってりゃ絶対買ってたし、こうこう賑やかな空気だって本来はそんなに嫌いじゃない。でも今は状況が状況だ。早くアレサンドロを探さないと。モンスターより強い孤独感という敵に、俺はノックアウト寸前だった。
「アレスゥゥ! いたら返事してくれよぉ」
ああ、もう語尾がしおしおだ。でもこれは全部自業自得だからなあ。不安だし空腹だし、まさに修羅場だがここで救いの天使が現れた。
「初さん何やってるんですか?」
「ああ、ニーナ……! お前だけは信じてたよ」
こんな事もあろうかとニーナの魂が俺を探しに来たのだ。しかしそのニーナもさすがに呆れたような苦笑いを浮かべていた。後で聞いたけど俺は泣いてたらしい。これは恥ずかしいぞ。でもだからこそ、この時ほど天使が天使に見えた事はなかった。
「今俺はどこにいるんだ? アレスはどこ? いや、とにかく宿に帰りたい」
「今はストリートでもかなり北の方にいますからね。宿はまずずっと南下して、リンゴをびっしりと並べてる屋台まで行ってください。そこからはまた改めて指示します」
「本当にありがとな。やっぱりお前は天使だよ」
「そりゃそうですよ」
ニーナがそこにいてくれるという幸福を心から噛み締めつつ、俺は人でごった返すストリートをとにかく南へ向かって歩いた。そしてリンゴの屋台まで到着すると偶然アレサンドロに出会った。
「ああ、アレスいた!」
「ハッセ! いたのか! 心配したぞ!」
紙袋いっぱいにパンや果物を詰め込んで両手がふさがっていたアレサンドロには何もかもが申し訳ないので、せめて荷物だけは俺に持たせてくれと頼んだ。やっぱり変な事するもんじゃないなと思った晴れた朝だった。
「それで、今日はゼノラビアの首都アイシスまで進む。予定では昼過ぎには到着するだろう。そして戦いの準備もここで整える」
「昼過ぎ? じゃあちょっと短いのかな?」
「そうだな。アイシスはゼノラビアのほぼ中央で、ここから北上したあたりにジェスターの泉はあるのだ」
「なるほど了解。じゃあ出発しようか」
「おう!」
相変わらずニーナが御者で、スプーレを出発したのは大体午前八時ぐらいで、首都アイシスに到着したのは午後二時ぐらいだった。時間は大した事はなかったが、基本的にゼノラビアは風景が単調だったので眠たかった。
青々と生い茂る麦が延々と広がる平原。途中でたまに出会う村も質素なもので、教会と思しき建物もドラガニアのように石造りではなく木造だった。せめてガジェみたいに動物とかいたらまだ良かったんだけど。
また、道はあまり舗装されておらず揺れは激しかったし、昨日の雨が作ったぬかるみに車輪がはまりかけた事も数知れず。ニーナは苦労したものと思う。それと馬もね。
ただ昼が過ぎていい加減お腹が空いてきたなあって時間になると道路事情は劇的に改善されていた。首都アイシス周辺はしっかりと整備された石の舗道が四方八方に広がっていたのだ。
アレサンドロが「揺れが少なくなったからそろそろ着くぞ」と言ってくれたが、果たして舗道の先には堀が二重三重に築かれており、それを抜けると大きな門があった。槍を持った兵士が常にうろうろしている。
その辺の算段は全部アレサンドロに任せて、俺はのんきに大あくびなどしていたら「許可が出たぞ」と聞こえたのでとっさに表情を戻した。でも緊張感のない顔つきになっていた。
「ここまで順調に来たのはいいけどまだ日没には間があるな。別にここに泊まらなくても、もっと進んでいいんじゃない?」
昼食のえんどう豆をポリポリと頬張りつつ、俺はアレサンドロに素朴な疑問をぶつけた。アレサンドロは「それなんだがね……」と言うと俺に目配せしてきた。
「今日はここからが大事なんだよ。本当のことを言うとね、路銀が尽きたんだ」
「はあっ!?」
唐突な、しかも重大な告白。アレサンドロの爆弾発言にさすがの俺も思わず素っ頓狂な声を上げた。




