第六話 : 知らない場所で
ハンカチ濡らしてくるね、と友弥は立ち上がった。
どこにと訊く間もなく、その背が遠ざかっていく。
友弥はあっという間に薄闇に溶け込んだ。
(今、何時だろう……)
置いていかれた深月は腕時計に目をやるが、暗くてよく見えない。
(ボストンボストン……あった)
あまり期待はしていなかったが、深月のボストンバッグはちゃんと持ち主のそばに置かれていた。
(携帯は、と)
目的のものを見つけ深月は祈るような気持ちで電源を押す。
「よかった、電源入る……」
事故の衝撃で故障を覚悟していた深月は、煌々と光るディスプレイにほっと息を吐いた。
続いて画面に表示された数字に首を傾げる。
「四時……二十分?」
思ったより時間は経っていない。
真夏のこの時期にこれだけ暗いのだから、早くても七時くらいだろうと深月は思っていた。
なのに。
「ここ……どこなの?」
深月は不安に駆られた。
「どうして、私たち以外誰もいないの?」
どくん、どくんと心臓が騒ぎ出す。
まわりを見回すがバスはもちろん乗客の一人も見当たらない。
辺りはますます暗くなり、先の景色ももうほとんど見えない。
「――――――トモッ!!」
たまらず叫んだ深月は、手にした携帯を放って立ち上がった。
刹那。
――――――――リィン
鈴の音のような澄んだ音色が、大音量で頭に響いた。
同時に心臓に鋭い痛みが走る。
「――――――っ」
あまりの痛みに息が出来ない。
胸を押さえた手と反対の手が、指先が、友弥を求めて無意識に彷徨う。
もちろんそこに彼はいない。
苦しい。
何も考えられなくなっていく――――――。
(私、死ぬのかな)
深月の身体がぐらりと傾いだ、その時。
――――――ばっしゃーーーーん
派手な水音とともに、頭上に大量の冷水が降ってきた。
その冷たさに一気に目が醒めて、しかし耐えきれずに深月は転倒した。
再び水音が上がる。
がぼがぼがぼがぼ……。
(おおお、溺れる~~~)
空気を求めて深月はもがいた。必死に手と足を動かし水面から顔を上げる。
「っぶは! う」
そのままはっ、はっ、と浅い呼吸を繰り返しながら深月は動転する頭を働かせた。
一体何が起こったというのか。いつの間に自分は水溜まりにはまったのか。
けれど、水面から突き出た岩といい緩やかだが確かな流れといい、水溜りというよりは川のようなーーーー。
……川?! っと尚更ぎょっとするが、それでも底にはきちんと足がついていた。その事実に少しだけ、ほんの少しだけ落ち着きを取り戻す。
(……よかった。うん、よかったよ、以外と浅くて)
これが海だったら本当に死んでいた。
(まさに不幸中の幸いね。さて……)
状況を整理しようとした深月は、水面に映った自分に気が付き。
「…………………………え?」
信じられない光景に、いとも間抜けな声を洩らした。
水面に映ったそれは、確かに見慣れた顔だった――――――。
(これは……一体)
どういうことだろう。
深月には、現在の状況が全く理解できない。
視界にあるのは濃茶のチェックズボンと白いカッターシャツ。
深緑と黒と白、学校指定のストライプのネクタイ。
そして水面に揺れるのは――――。
「と……も?」
水に濡れて少しゆるくなった、くせのある明るい髪。
同色の長い睫毛がかかる碧がかった瞳。
通った鼻梁、形の良い唇。
辺りが暗くなっているにも関わらずはっきり認識できるのは、毎日見ている顔だからだ。
毎日、顔を見に行っていたから。
「え……と」
深月は訳のわからないまま俯く。制服が目に入る。
深月の学校の制服は、男女を問わず人気が高い。
その理由は、夏と冬の制服の違いだ。
冬は、女子は濃紺のセーラー服に赤いスカーフ、さらに好みでベストやカーディガンを羽織るが、それ自体はごく一般的なもの。
男子は白いカッターに黒の学ランとこれまた定番だ。
が、この制服は夏になるとまったく別物に代わる。
女子は襟とスカートが深緑に変わる。そして同色のスカーフが、白いセーラーにとてもよく映える。
男子などはこの違いがもっと顕著で、白いカッターに濃茶のチェックズボン、深緑基調のストライプネクタイと、おおよそ冬服からは想像もつかない装いになるのだ。
季節が変われば生徒の印象もがらりと変わる。
それが、深月たちの制服が圧倒的な人気を誇る理由だ。
「はっ! 現実逃避しちゃった!」
今そんなことはどうでもいい。
ストライプネクタイが可愛くて憧れたとか、密かに片割れの予備を狙っていたとか、こっそり自分の引き出しに入れようとしたとか。
あっさりバレてとてつもないアイアンクローを食らったとか。
今はほんと、どうでも、いい。
大事なのはそんなことではなく。
「私……トモになってる?」
問いかけても、答える者はいない。
「いやまさか、マンガじゃあるまいし……」
否定しても、同意は返らない。
「あはははは……」
笑いは虚しく闇に溶けて。
「――――って、ちょっと待ったあーーーーッッッ!!」
友弥の顔、友弥の声で深月は叫んだ。
「なんで、どうして、何が起こってーーーーっ?!」
天を仰いで深月は尚も大絶叫。
先ほど真っ白になった頭が、今は混乱でショッキングピンクだ。
「いやいやいやいや、違う、違うよ?!」
確かに友弥の容姿は深月の好みど真ん中だが、ルックスを手に入れたいわけではない。
「こういうことじゃない、こういうことじゃないんだよ!」
魅力的なのは、性格が伴ってこそだ。
「中身がトモじゃなきゃ、意味がないよーーーーッ」
神様のばかあぁぁ、と涙ぐんだ深月は、そこではたと気が付いた。
「あれ、じゃあトモは……」
「――――――深月ッ」
馴染みの声に振り向けば、木立からこれまた見慣れた人影が現れた。
二重の大きな瞳、くせのないまっすぐな黒髪、あまり高くない背…。
十六年間付き合ってきたその姿に、深月はおそるおそる問いかけた。
「もしかしなくても中身は……」
「友弥!」
半ば予想していた答えだが、深月はくらりと倒れそうになった。
そして。
―――――うに。
「ひゃぁ!?」
バッシャーーン
水底の、何かにつまづきもう一度水中へダイブした。
(鼻、鼻に水がっ)
入る、と慌てて身体の向きを変えて。
「――――――また私?」
蹴ったものを確認して、深月は愕然と呟いた。
そこにあったのはモノではなく一人の少女。
上体を預けるように、苔た岩に滑らかな頬を乗せている。
暗闇にも輝く絹糸のような銀の髪、肩口までしかないそれは不揃いだがひどく美しい。
優美な睫毛は伏せられて、瞼は固く閉じられている。
「深月!」
溺れると思ったのか躊躇いなく水に入った友弥に、深月は顔を上げた。
駆け寄ってきた彼にその存在が分かるよう、わずかに身をよじる。
「深月」
「トモ、この子……」
深月の導くまま視線を移した友弥は、鋭く息を呑んだ。
「私にそっくりなの……」
その声は、途方もない感情を多分に含んでいた。