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第五十四話 : 遠雷


 急がなくちゃ。


 分厚い布を頭から被り、深月は一心不乱に小道を進んだ。森なのか、林なのか、それともただの庭園の一部なのか。

 どれでも良い、隙間を埋めるように茂るこの木々が、姿を隠してくれれば好都合だ。今はただ、あの場所に戻りたい。あの場所――この世界で最初に目覚めた、澄んだ浅い川のほとり。それがどれほどの距離なのかは全く分からないが、足を止めることは出来ない。


 帰りたい、帰りたい、帰りたい。


 深月の頭にはもう、それしかなかった。

 帰れる保証なんてない、否、きっと帰れない。分かっている、そんなことはとっくに。

 ここはルーウィン。闇に怯える光の世界。深月たちの世界ではない。

 分かっている、けれど。



 もう、耐えられない。




「こんな時間に何処へ行く」

 前触れなく現れた腕に白布を奪われ、半ば走る様に進んでいた深月は驚いて思わず足を止めた。

「…………皇太子、さま……」

 居るはずのないライズの登場に、思わず名前を呼び損なう。いつもであれば即座に「ライズだ」と決まり文句が返ってくるが、今に限ってはそれがない。何を言うでもなく、じっと深月に視線を注いでいる。

 その眸も、片側で纏められた長い髪も。纏う軍服のような衣装もすべて夜色で、雨に濡れたそれらはなお一層、暗い色に染まっているように深月には見えた。

 静かに佇む姿はまるで、闇を凝縮した化身の様。

 そんなことを考えていたからか。


 深月は不意を突かれた。


「いつもの服はどうした。さっきまで身に着けていたものは? こんな雨の中、わざわざ着替えてどこへ行く?」

 矢継ぎ早に質問を浴びせられ、言葉を失いかけた深月はけれどすぐに口を開く。

「こ、これは……散歩、みたいなもので……」

 怪しまれないようにと言葉をひねり出したが、情けなくも声は掠れた。焦りから思わず俯けば、「ほう」とライズの皮肉めいた笑いが聞こえた。

「こんな夜に、供もつけずに、か?」

 途端に手首を掴まれ、かと思えば顎を捕らえられ、上向かさせられる。

「こ……っ」

「もう一度訊こう、ミヅキ。どこへ(・・・)行く?」

 ライズが腰を折り、こちらに顔を近づけて問う。漆黒というには幾分澄んだ紫紺の眸に、深月は囚われそうになった。

 けれど。





『皇太子殿下のお気に入りでいらっしゃる』





 老獪の下卑た声が、脳裏に蘇る。深月は腕を振り回してライズのそれから素早く逃れた。

 自分の取った行動がどこへ繋がっていくのか、もう深月は知っているのだ。ぼんやりとすることさえ今の深月には許されない。

「……なんのつもりだ」

「か、帰るんです」

 咄嗟にそう答えていた。誰にも言うつもりなんてなかったのに、案の定、ライズは不機嫌そうに眉根を寄せる。

「帰るだと? どこにだ? お前の国にか?」

 じりりと後じさった距離を、一歩で詰められる。当然だ、深月とライズでは脚の長さが全然違う。悔しくないと言えば嘘になるが今はそんなことはどうでもいい。このままライズと問答している暇はないのだ。

 一刻も早く、ここから抜け出さなくては。


 恐ろしいくらいに心地よい、暖かくて優しい籠から。

 これ以上誰も傷つかないように。

 これ以上誰も傷つけないうちに。


 その為には、この深い緑を進まなくてはいけないのだ。 

 歩みを止めるわけにはいかない。


「それはどこだ? ディズラスか? シーダか? それとも辺境の二ランか?」

 皇太子の口から知らない単語が次々と飛び出すが、そのどれもがきっと、深月の持つ答えとは違う。

 帰りたいのは日本。

 颯希(さつき)と両親の待つ家。友弥が笑う、暖かい場所。

 

 それはこの世界の、何処にも在りはしないのだ。

 でも。


「し、知らない……」

 正直に話したとして 、目の前の皇太子が素直に聞いてくれるとも思えなかった。あるいは信じてくれるかもしれないが、口にしたくない。

 今はただ、そっとしておいて欲しい。誰とも話したくない、関わりたくない。

 何も考えたくない。

 深月の心は限りなく限界に近かった。

 気を張っていないと挫けてしまう。挫けてしまえばまた(・・)迷惑を掛けてしまう。


 ぎりぎりで保たれた琴線に、どうか誰も触れないで――――。

 そんな深月の切なる願いは、しかし早々に打ち砕かれた。 



「――――帰すと思っているのか? この俺が、みすみすお前を手放すとでも?」


 皇太子からもたらされた言葉は、今、深月が最も聞きたくないものだった。

 反射的に踵を返し、緑の奥深くへと走り出す。

 やはり誰にも言ってはいけなかった。

 帰りたい、この世界から逃げ出したいなどという気持ちは。当然の気持ち、権利だと、言ってくれる人などここにはいない。言ってくれる人がいるとしたら、それは。


(……トモっ)


 泣き出しそうな唇を噛み、泥濘に取られる足をひたすら前へ。何も見たくなくてぎゅっと目を瞑った。

 刹那。



「――――あっ」


 背後から伸びた手に肩を掴まれ、そのまま後ろに引っ張られ反転した。突っ伏しそうになる深月の躰は、固い何かに受け止められる。

 顔を上げればライズが、怜悧な容貌(かお)に凄惨な笑みを浮かべていた。


「こ、皇太子さま、離し……」

 訴える言葉を遮るように、ライズの腕に力が篭もる。甲冑を纏わずとも固い皇太子の胸に、深月の額は押し付けられた。

「この国が嫌だというのならレスティアに来い。妃として迎え入れてやる」

 からかうように口にしてはいるが、ライズはきっと本気だ。深月が是と答えればすぐにでも、自国へ連れて帰るだろう。妃と言っても何も、正妻にする必要はないのだ。

 彼は帝国の皇太子。妾の一人や二人、いっそ数えきれないほど居ても、おかしくもなんともないのだから。


 そしてライズは間違いなく、深月を深月として扱うだろう。


 巫女姫の代理でも影でも、厄介者でもなく。

 世界の理などすべて無視して、“白崎深月(しらさきみづき)”という一人の人間として接してくれる。

 強引で我儘なライズだが、それだけは信じられた。

 ここから連れ出してくれる。

 世界を救うことも、上品に振る舞うこともライズは要求しないだろう。

 それは確かに、最も容易い逃げ道のひとつだった。

 

 けれど。

 

「……お断りします」

 両の掌でライズの胸を押し、距離を取る。

 どんなに楽になれるとしても、その選択肢は深月には選べない。

(だって、私は……)

「何故だ? 神気臭いこの国が、厭になったのだろう?」

「……この国を出たいわけではありません。私はただ、アークさんと」

 離れたいだけ。

 そう続くはずだったのに、唇は空回りした。アークの名を口にした瞬間、深月は強く手首を掴まれる。そしてこちらの意思などお構いなしといった様子で、ライズは暗い道を歩き出した。

「え――――っ?」

 奥へ進むのでもなく、戻る方向でもない。

 一体、どこに向かって――――。

「――――ッ」


 唐突に、まるで物のようにぞんざいに。

 思いもよらぬ力を持って、深月は放り投げられた。



  ドンッ



「…………かっ」

 はっ、と喉の奥で空気が漏れる。背中、それと後頭部に衝撃が走った。  

「こ、たいし…さま?」

 壁のような硬い――おそらく木か何かに投げつけられたと想像は出来たが、深月にはその理由が分からなかった。頑なな態度を取ったのがいけなかったのか、ライズを怒らせるような一言を言ったのか。

 考えようとするのに頭が働かない。

 背中が痛い。言葉がうまく紡げない。今は座り込んでしまわないよう、躰を支えるだけで精一杯だ。

 そんな深月を睥睨したライズは、嗤うでも、激昂するでもなく淡々と言った。


「その名を口にするなと、何度言えばわかる。ミヅキ?」


 凍りつくような冷たい声音。一切の熱を取り覗いたそれは、今まで聞いたどの声とも違う。雨に邪魔されていることもあってはっきりとは窺えないが、その瞳もまた、仄暗い感情を宿しているに違いない。


(怖い)


 どくん、と深月の鼓動が大きく脈打つ。

 怖い、その感情も初めて感じるものだった。

 今、目の前に居るのは間違いなく“虐帝”。気に入らないものを切り捨て、己の望むままに世界を支配する――――けれど、深月が恐ろしいのはもっと本能的なもの。

 一歩踏み出す、それだけでもう、ライズは深月にたどり着く。

「皇太子、さま……」

「聞かぬな、本当に。やはりお前は……」

 深月の頭上に自らの拳を叩き付け、残虐な皇太子はその身を屈める。そして。


「躾が必要だな」

 花嫁殿(・・・)、と。


 耳元で低く囁いて、深月の耳朶に歯を立てた。



「――や……っ、っだ、痛いっ」

 血が出たのではないかというほど強く噛みつかれ、深月は悲鳴を上げた。傷を押さえようと上げた手は、ライズによって阻まれた。手首を捕らえられ、もう片方も掴まれる。かと思うと素早く捻られ、木の後ろで一つに束ねられてしまった。軋む躰、磔にされたこの状態では逃げ出すどころか抗うことすらままならない。クッとライズが嗤う。


 遠くで雷が鳴り、冷たい美貌が怪しく光った。


「ひゃっ」

 視線ひとつ逸らせない深月の顎を捕らえ、ライズがその舌を這わす。今しがた噛みついたその場所の、傷を癒そうとするかのように。かと思えば、より一層強く歯を突き立てられた。

「痛っ、や、皇太子さまやめ」

「問題ない。躾だからな」

 必死の抵抗も懇願も、ライズは意にも解さない。凄絶なまでに美しい笑みを浮かべ、苦痛を浮かべる深月を見下ろす。いたずらに鼓膜を揺らす吐息に、深月の躰はびくりと震えた。


「……甘いな?」

「え?……っ」

 低く囁いたライズが深月の鎖骨に触れ、無防備になった首筋をそっと舐めた。ぞくり、と怖気だったその直後、今度は肌に痛みが走る。

「ひ、あっ」


 深月にはもう、何が起きているのか分からない。

 痛い。

 熱い。


 打ち付けたことにより朦朧とする頭、意識は、湧き起こる熱により一層はっきりとしない。

「や、いた、痛いの、ほんとに……」

 子供のように呻いて唯一自由になる両足を動かす。少しでも、この状況から逃れなければ。

 しかしそんなものは抵抗にならないとでも言うように、ライズは簡単に動きを封じた。諦めずに身を捩ってもライズはびくともしない。

「無駄だ。どう足掻いてもお前は俺に敵わない」

 告げられた言葉の通り、ライズは笑みを絶やさぬまま、深月の皮膚に次々と小さな痛みを降らせる。

 右の首筋、鎖骨の上、斜め下、耳の裏側、先とは反対の皮膚。

「やっ、あ……っ」

 聞いたことのないような声が自分から零れていく。痛みと、熱に浮かされる感覚。

「ふ……。ん、うっ」

 何をされているのか分からない、けれどこの先に待つものは、深月にだって想像できる。

 このままでは、きっと。

 どうにも出来ない焦りが生じたその時、ライズの指が深月の深緑のスカーフに触れた。音もなく解かれ露わになった胸元に、ライズは躊躇いなく痛みを与える。

「……っ、も、やめ」

「この状況でその台詞。煽っているようにしか見えんな」

 愉悦を滲ませた皇太子はさらに、セーラーの裾に指を差し入れ深月の脇腹をつ、と撫でた。思わず仰け反る深月にライズは目を細め、満足そうに口端を緩める。

 ゆっくりと、ライズの眸が近づく。吸い込まれそうな深い夜色――深月は咄嗟に顔を逸らしたが、ライズによって無理やり正面に戻され、音を発するその前に、強引に唇を塞がれた。

 咬みつくような、息が詰まるような口づけ。

 冷え切った唇に重ねられた、確かな熱を持った柔らかさ。



 それに、深月は思いっきり噛み付いた。


 熱が離れる。ライズは深月の腕を離し、無言で身を引いた。薄い唇には血が滲み、黒い影を赤く彩る。

 じくじくとした痛みと、広がる錆びの味。自分の口唇も切れたに違いない。

 それならそれで構わない、これ以上、ライズの好きにされたくない。

 深月が持っているのは今、この身一つだけなのだ。それがどんなに無力なものでも、役に立たないものだとしても。 


「私は……あなたのものには、ならない」

 深月は自由になった両手で躰を支え、震える脚を堪えて皇太子を睨みつけた。拭えない恐怖はまだそこにあったが、呑まれてしまうわけにはいかない。力で敵わないならばせめて、気持ちだけでも。

「……何故そうまでして逆らう? もうここには、お前の居場所は無いのだろう?」

 居場所はない、紛れもない事実に深月の胸がずきりと痛んだ。

 そう、居場所はない。立派なお城にも、静謐な神殿にも。誠実なセレーンやユハ、忠実な近衛騎士。不器用で優しい、アークの傍にも。

「……例えこの国にいられなくたって、私は……」

 視界がぼやける。感情が溢れてしまわないよう口を引き結べば、鼻の奥がつんと痺れた。

 帰る場所なら、深月にだってある。だから何としても、そこにたどり着かなければ。

 独りでも。どんなに時間が掛かったとしても。


「私は、私の居るべき場所へ」

 何としてでも帰るのだ。

 そう続けようとした言葉は、やはり最後まで言えなかった。先程までとはまるで違う、冷めた瞳でこちらを見ていた皇太子が、深月の頬に手を伸ばした。再び縮まった距離に目を見開く深月の肩口、濡れた黒髪をひつ房掬って節ばった長い指に絡め、そして。


「お前の場所はここにはない」


 感情の一切ない声でライズは静かに。


「ルーウィンは、お前を受け入れることはない」


 ここで生まれたものではないのだから、と。



 告げたことのない真実を、ライズはいとも簡単に口にした。





 永遠に降るかと思われた雨はいつしか上がり、暗い空には薄い光が現れ始めていた。






 

 

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