第五十二話 : 砕けた箱庭
深月が携帯電話を持たせてもらったのは、中学三年生の時だった。小学生の時から自分の携帯電話を持っている子は多くいたが、深月たち双子はそうではなかった。
言いたいことは機械越しではなく、相手の顔を見て直接話す。メールなど不要、連絡事項は家の電話を使えばいい。
それが双子のしつけ担当、深月たちの母の考え方だったのだ。子どものうちからネット環境に慣れることを、母は良しとはしなかった。深月たちも、特に嫌だと思ったことはない。
友弥とは剣道場で会えるし、家が隣なのだからその気になれば訪ねられる。双子の片割れである颯希とは、それこそいつだって一緒だった。
話したい相手は、いつだって深月の近くにいた。
『これこれ、颯希、これにしよっ』
『なんで今から買うのに、あえてガラケーなの。俺スマホがいい』
『トモとお揃いがいい』
『トモ兄のは物持ちがいいだけだよ』
『そんなことない。お父さんも、お母さんだってスマホじゃないもの』
『それは仕事で使うからであって……。まぁいいや、好きにすれば。俺はスマホに』
『お揃いがいい!』
『じゃあソレは諦めて。だいたいネットするのにも』
『トモとも颯希ともお揃いがいい!』
お揃い、お揃いと連呼する深月に、しだいにうんざりとし始める颯希。他人のふりをしたいのかじりじり後退しているけれど、そんなのは無駄な抵抗というものだ。
何せ双子、そっくりとまではいかなくとも兄弟間の似通いはある。誰がどう見ても二人はきょうだいだ。それが“姉弟”なのか“兄妹”なのかは別としても、だ。
『これを買うまで、私ここから動かない』
一歩も動かないから! と宣言する深月に対し、颯希は心底呆れたように顔を歪める。「これが本当に姉なのか」と顔に書いて、スマホと深月を交互に見やる。最新機種が欲しいのに、否でも店にも迷惑になるし、否でも最新機種……。
そうして逡巡した顔を見せた颯希は、最後に名残惜しそうにスマートフォンを眺めて盛大な溜息を吐き。
『……わかった。それでいいよ』
歓声を上げそうになる深月の口をサッと手で塞ぐと、せめて色だけは好みのものをと携帯電話を真剣に選び始めた。これでもない、あれでもないとぶつぶつ呟いて、それからはぁとまた息を吐く。
『めんどくさくなってきた。どうせあまり使わないだろうし』
『そうかな?』
『そうだよ。だって』
ちょっとつり気味のふたつの瞳がこちらに向けられる。颯希は唇を尖らせ、それから少し恥ずかしそうに言う。
『俺たち、いつも一緒じゃん』
一番最初に入れたのは颯希の携帯電話の番号。その次が両親。そして友弥。
メールのやりとりは少なかったけれど、三人で写真を取ったり、連絡の電話を掛けたりした。
もう使えなくなってしまったけれど、思い出だけはたくさん。
たくさんたくさん、詰まっている。
◇
ふにふに、ふにふに。
「ううーん……」
頬を叩く柔らかい刺激に、深月は夢から引き離される。
懐かしい、温かい夢。
ふにふに、ふにふに。ふにふに、ふにふに。
「まだ、もっと……」
思い出すことしか出来なくなってしまった、この居心地の良さに。泣きたくなるほどの安心感に。
「もう少し、もう少しだけ……」
浸っていたい。
辛い現実には戻りたくない。
ふにふにふにふにふにふにふにふに。
「……………………」
ふにに、ふにふに、ふににににににに……。
「っだあぁぁぁああああ!」
絶え間ないモフモフ攻撃に、深月は観念して跳ね起きた。
「ん、もう、なぁに、シシィ。私ものすごくいい夢を見ていたのだけれど?」
少し責めるような口調になってしまったのは仕方のないことだろう。出来れば覚めたくなかった、今一番見たかった光景なのだ。
「いくら愛キツネだからって、今のはダメだよ。それにね」
あまりの切なさからお説教を始めようとすると、愛キツネ――もといシシィはその腕からびよんと飛び出した。
「あっ、どこいくの?」
後を追おうと寝台を降りる。シシィは居間に向かってぽふぽふと移動し、その扉をやはりぽふぽふと叩く。
「居間に行きたいの?」
こくりと頷くキツネ(のぬいぐるみ)。外に出たいの? と首を傾げた深月は窓の外、カーテンの向こうから聞こえるシトシトという音にとうとう雨が降り出したことを知る。
泣き疲れて眠ってしまってから、どれくらいの時間がたったのだろう。部屋には最初から灯が灯《ともさ》れていたが、外はこころなしか暗くなっているような気がする。
単衣の袖をめくり、ピンクゴールドの腕時計に目線を落とす。戻ったのが十二時頃だから、今はきっと……。
「…………え?」
時計に目をやり、深月は固まった。一瞬にして思考が止まる。と、その足をぽふぽふと叩かれる。シシィだ。
「待ってシシィ、私、今……」
訴えても愛キツネは待ってはくれない。柔いキツネパンチを繰り出して、反対の前足でしきりに居間への扉を示す。
「だって、え、だって……」
狼狽える深月、動揺で言葉も出てこない主に愛想を尽かしたのか、キツネはふるりと首を振ると再び扉に移動して。
ぴたっ
木製の扉に片耳をくっつけた。
じっと、まるで聞き耳を立てるように。
「何かあるの、シシィ? もしかして誰か……」
いるの? と耳を澄ませた深月は次の瞬間、弾かれたように駆け出した。扉を押して転がるように居間へ出る。縺れる足をどうにか動かした。
聞こえる。さっきまで届かなかったメロディーが。雨音にかき消されていたピアノの旋律が。聞こえるはずのないそれが、扉越しでなくなったことによりはっきりと深月の耳朶を打つ。ここではない世界で生み出された、深月には馴染みの深いその曲。
「うそ……」
懐かしい音階はテーブルに置かれた深月の鞄、仕舞い込んだ携帯電話から紡ぎだされていた。
携帯電話が鳴っている。光を発し音を奏で、本体を揺らして伝えてくる。
もといた世界と繋がっていると。ボタンを押したその先に、誰かがいるのだと。ドクン、と胸が鳴る。震える指でボタンを押し、深月はごくりと息を呑んだ。
「も、もしもし……?」
これも夢の続きだろうか? どうにも信じられず、声は緊張して固くなった。けれど。
「もしもし? 深月?」
元気っだった? と。どこかのんびりとした、変わらず穏やかな声。耳に快い、優しい抑揚。
聞きたかった声が、優しく深月の鼓膜を震わせた。
「久しぶりだね、深月」
「……トモ」
「やっと繋がった。何度か試してみたんだけど全然だめで……。でも」
諦めなくてよかった、と友弥が笑う。それだけで、深月は泣きたくて堪らなくなる。
「今ひとり? 話しても大丈夫かな」
「うん、大丈夫、今はひと……は居ないよ」
一人だから、と言いかけた深月は慌てて言い換える。足元にはやっと追いついたシシィが、必死にテーブルによじ登ろうとしているのだ。深月はふぅと息を吐き、なるべく落ち着くよう意識して言葉を選んだ。
「久しぶりだね、トモ。その……元気、だった?」
選び抜いたつもりが、ただのオウム返しに終わる。呼吸を整えてそれかと我ながら情けなくなったが、友弥はからかうことなく「元気だよ」と答えてくれる。「深月は?」と問いかける声は震えるくらいに優しくて、深月は携帯電話をぎゅっと握り締める。
「元気、だよ。ずっと、トモと話したかった……」
「……うん。僕も。僕も、深月の声が聞きたかった」
「うん。――――うんっ」
もしも友弥に会えたなら。話したいことはたくさんあった。
離れてしまった時のこと、深月を捕らえた皇太子のこと。友弥を撃ってしまった近衛たちのこと。
保護してくれたアークとのこと、神殿での日々。
友弥の矢傷が治っていることは身を以って知ってはいたが、その心まではわからない。
訊きたいことがたくさんあった。聞いてほしいこともたくさんあった。そうして。
「あのね、トモ。今ね」
「うん」
ゆったりとした相槌が続きを急かすことはない。深月の言いたいことを、先回りせずに待ってくれる。
ああ、と深月は思う。そうだ、友弥はそういう人だった。
自身の気持ちより何より、いつも深月を優先してくれた。深月はもうとっくの昔に、甘やかされて生きていたのだ。
「深月? どうしたの?」
問いかける声はやはり甘い。
「……何かあった?」
心配そうにけれど決して聞き出そうとはしない声音。どこまでも優しい友弥に、深月は縋ってしまいたかった。何も考えずに言ってしまいたい。「つらい」「帰りたい」と。でも。
「大丈夫。ちょっと、驚いてしまって」
きゅっと唇を噛む。繋がらなかった携帯電話。話せている今が奇跡なのだ。
泣き言は言いたくない。
「そうだね、この世界でも繋がるなんてね」
友弥の声は明るい。旅は順調なのだろう、後ろではディディウスらしき声も聞こえた。
「うん。それに」
それにね、と、深月は左腕を持ち上げる。単衣がずれて隠れていた機械が露わになった。
灯りを受けたそれは見間違いなどではない。教えるのは真実の刻。
それでも信じられなくて、深月は確かめるように問う。
「私たち……今日は入れ替わらなかったんだね」
「そう、だね」
返る声は飽くまで穏やか。
銀に輝く時計の針は、時刻が午後六時であることを告げていた。
「神力、だっけ。ついさっきだけどね、力を使えるようになったんだ」
「そうなんだ……」
「アークから聞いていないかな? 僕たちの入れ替わりの、原因みたいなもの」
「え? っと……」
アーク。その名前に深月の鼓動が跳ねる。この神殿で一番近く、そして一番遠ざけたい人。
近くにいてはいけない人。
「深月?」
「あ、ううん。何でもないの。えっと、その……ずいぶん仲が良いみたいね」
アークさんと、と呼ぶ声がひくりと震えた。
実家が剣道場である友弥はとても礼儀正しい。相手を軽んじることもなければ、年長者への敬意も忘れない。
そんな友弥が明らかに年上であるアークを呼び捨てにするのは、本人が望んだからだろう。それほどに、心を許されているのだろう。
「そうだね、友人、かな」
実際に会ったことはないけれどね、と友弥は何処か気恥ずかしそうに笑う。その声にも親しみが感じられて、深月は眉根を寄せて俯いてしまった。無事にテーブルに到達したシシィが、主の眉間を和らげようと膝立ちで手を伸ばす。が、わずかに高さが足りない。
「彼は誠実な人だね」
「うん。とっても……良くしてもらってる」
つっかえながらも答えると、友弥は「そっか」と安心したように息を吐いた。
「多分、これから先は僕と深月は入れ替わらないと思う。まだ様子見は必要だと思うけれど、僕はこのまま旅を続けるよ」
「……うん」
「少し時間は掛かるかもしれないけれど、必ず無事に戻るから。だから深月」
友弥はそこで一度言葉を切った。訪れた沈黙にまさか電話が切れたのでは?! と深月は慌ててディスプレイを見やったが、そうではないらしく、すぐに友弥の声が響く。
「迎えに行くから、待っていて欲しい」
「――――……っ」
待っていて。
その言葉は深月の胸に重くのしかかった。鉛を飲み込んだように、喉が締め付けられる。
「待つって……ここで?」
苦しい。
「うん。神殿にいれば、きっと安全だと思うから」
気遣いに溢れた声が、深月をさらに喘がせる。
友弥の考えは間違っていない。異世界から来た深月にとって神殿が、もっと言うならアークの傍が一番安全だ。危険なことは起こらないし、万が一の時はアークが必ず守ってくれるだろう。
でも。
「一緒に……行きたい。トモに会いたいよ」
「深月……」
それは半分本当で、半分嘘だ。友弥に会いたい、顔が見たいと切望するのと同じくらいの気持ちで、アークから離れたいと願う。酷く身勝手で、狡くて、情けない。
大変な旅を続けようとする友弥にも、今まで守ってくれていたアークにも。
「深月、僕は……」
「――――なーんてっ」
殊更明るい声を上げ、深月はえへへと笑った。
「ごめんね、トモ。ちょっと言ってみたかっただけなの」
「深月」
困惑する気配に鼓動が早くなる。もうこれ以上、誰かを困らせることはしたくない。
愚かな自分にますます惨めになるだけだ。
「トモも旅、応援してる。うんと応援してるから。だから」
働かなくなる頭とは逆に、言葉はするすると唇からこぼれた。本音とは違う、けれどそれを伝えることは深月のプライドが許さなかった。
なけなしの自尊心も胸を突き刺したが、弱音を吐くよりずっといい。分かっている、どうにもならない我儘は――――。
「だから、また」
その先を伝える前に、深月は電源ボタンを押した。
親指に、ぱたりと滴が落ちる。
「…………っ」
声にならない悲鳴を上げて、深月は膝から崩れ落ちた。握りしめた携帯電話が再び震えることはなく、この世界は本当にままならないのだと知る。
深月は限界だった。
縋りつきたい、助けてほしい。そんなことは言えない、誰の傍にも居てはいけない。
「もう……どうしたらいいか分からないよ……っ」
ひっく、としゃくりを上げる深月を、慰めてくれる人はいないのだ。
「ふ、う……っ」
歯を食いしばって泣き声を堪えても、涙はぼたぼたと深月の手の甲を濡らす。握りしめた携帯電話もそれに巻き込まれ、未だ淡く光る画面をきらりと照らした。うっすらと開いた瞳で見つめたディスプレイを、ごし、と単衣の胸元で拭う。例えもう切れてしまったとしても、愛想のない“圏外”の文字が鎮座していても、ぞんざいに扱うことはできない。
これは謂わば“絆”。もといた世界と自分とを繋げる、唯一の。そして。
「……っ」
深月は気付く。薄く表示されたそれを。
十一時三十五分 着信アリ
「颯希……っ」
それはもう、遠くなってしまった片割れ。
一緒に生まれ、一緒に育ってきた、深月にとって何にも変えられない――――。
「――――っ」
そうして深月は決意した。すっくと立ち上がりテーブルの上の学生鞄に手を突っ込む。荒っぽい動作で底のポーチを手繰り携帯電話を押し入れると寝室にとって引き返した。そのまま衣装室までずんずん進み、目的のモノを探して手早く着替える。足りないものはない、強いて言うなら……。
「これで、いい」
手を伸ばして布地に触れる。ちょっと心もとないが、贅沢は言っていられない。
早くいかなければ。
ここではないどこかへ。
「帰るんだ」
呟いて、深月は居間へと足早に戻る。鞄を掴んでから少し考えて、深月はノートを一枚破った。
「これでよし」
何も心配ない。
他の誰でもなく自分自身にそう言い聞かせて、深月は学生鞄を肩にかけた。
歩き出す、そこに躊躇いや迷いはなく、深月は居間を抜け客間を通り。
王女の私室、輝かしい神殿を後にした。
鬱々とした雨、行き交う人の途絶えた回廊。外に向かって突き進む影。
たなびく外套に見え隠れする、解けかけた艶やかな黒髪を。
「……あれは」
遠く見つめる二つの眸。
神興国を濡らす雨は、止み時を知らぬとでも言うように長い時間降り続けた。