第四十七話 : 彼女の謀(はかりごと)~ side友弥 6~
彼女は光。
屈託のない眩さで、僕を、世界を明るく照らす――――。
◇
異世界五日目の、朝。
王都より離れた街の、固いベッドの上で友弥はゆっくりと瞼を持ち上げた。
視界には少しばかり古びた板張りの天井、そこに走る細い亀裂と黒ずんだ染み。
眠りに就く前に見た優しいクリーム色はどこにもなく、ここが巫女姫の私室ではないことを主張している。
昨夕リゼ達とたどり着いた街の、宿屋の一室だ。
「……………………」
どうやら今朝も問題なく、友弥は自分の躰に戻ってきたらしい。瞬いて首を傾ければ、骨ばった手が力なくそこに投げ出されている。昨夜思うままに動かしていた柔らかそうな白い指は、幻のごとく消えてしまった。
――――いったいいつまで、こんなことが続くのだろう。
答えの出ない問いかけに友弥は深い溜息を吐き、再び目を閉じると光を遮るように自らの腕でそれを覆った。
「秘めたる力が目覚めれば、か……」
昨夜の友人の言葉は真実か、それとも単なる慰めだったのか。
「力なんて、何処にあるって言うんだ」
溢した言葉はこれ以上ないまでに情けなく、一人きりの部屋に空しく響く。
本当に、いつまで。
こんなに歯がゆい日々を過ごさなくてはならないのか。
何も出来ないまま、深月にも会えないまま、時間だけが過ぎていく。
「秘めたる力が目覚めれば……」
入れ替わりがなくなって、その先は?
リゼの言う通り“救世主”として、この世界を救えるとでも言うのだろうか?
本当に自分は、深月と一緒に、元の世界に帰れるのだろうか?
「…………」
それこそ考えたって始まらない問題に再度息を吐き、友弥は額を押さえたまま上体を起こした。
薄布を敷いただけの木製ベッドから抜け出し、窓際へと移動すると白いカーテンを一気に引いた。刹那、まぶしい朝日が友弥の瞼に襲い掛かる。
――――ことはなく。
どんよりとした暗い空、行き交う人のいない空っぽの大通りが、友弥の眼下に広がっていた。
身支度を済ませた友弥が食堂に降りると、主従がくつろいだ様子で端の席に腰を下ろしていた。奥に座っていたリゼがこちらに気付き、腕を振って合図をする。
焦る友弥の心の内とは裏腹に、二人の表情は明るかった。ここ数日で距離を稼ぎ、旅は順調といえるからかもしれない。
「おはようございます、ユーヤ」
「おはよう、リゼ。それにディディウス」
「はよー」
何処か気の抜けた挨拶で友弥を迎えた聖獣は今度は自らが席を立ち、すたすたとカウンターへと歩いていった。忙しなく動き回るエプロン姿の少女に声を掛け、ふたつみっつ言葉を交わし、朝食の乗ったプレートを受け取るとテーブルの間を抜けてそれぞれの前に並べてくれる。
「ありがとう、ディディウス」
「おう」
鷹揚に頷いたディディウスは改めて席に着き、飲み物の到着を待って銀のフォークに手を伸ばす。湯気を立てるベーコンと焼き立てと思われるパン、コールスローによく似たサラダと冷えたカットフルーツ、温かいスープ。
聖獣だという彼に食事が必要なのかはいささか疑問だが、そんな友弥をよそにディディウスはもりもりと朝食を平らげていく。
「……いただきます」
あまり湧かなくなった食欲を何とか引きずりだし、友弥もスプーンを手に取ると澄んだスープを口に運んだ。
「昨夜は何か、変わったことはなかった?」
まだほんのりとあたたかいパンをちぎりながら、友弥は主従に尋ねた。返ってくる言葉はおおかた予想がついている――というか、そうなるように言づけているのだが。
「えーと……」
「あーー」
リゼは俯いて表情を隠し、頬杖をついたディディウスは呆れたような声を上げてふいと目線をそらした。予想外な反応に友弥は目を瞬く。
「……何か、あったの?」
「ええと……」
「あ、あの絵は嵌め絵なんだ。見てみて姫、細かい破片が見える」
言いよどむリゼを遮って、ディディウスが突然、壁に掛けてあった絵画を指差した。カウンターの脇に掛けられたそれは、暖かい陽を浴びる青々とした畑。頭を垂れる金色の稲穂に、小さな小屋と奥に伸びるあぜ道。
どこか懐かしさを感じる田舎風景だが、特にこれといって目に留まるようなものでもなかった。
「…………」
おそらく話を逸らそうとしたのだろうが、あからさますぎやしないだろうか。
思わず友弥が食事の手を止めると
「まあ、本当。あれはどこの穀倉地かしら」
リゼが話に乗っかった。
これまたわざとらしく身を乗り出した彼女に、友弥はズル、と肩を落とす。しかしそんなことはお構いなしとばかりに、二人は話題を広げ始めた。
とはいえさして興味がないことは一目瞭然。証拠に主従の目は風景画に留まらず、あちこちさ迷って明らかにおかしい。
「これだけじゃわからないなぁ。時期はもう少し涼しくなった頃だと思うけど」
「そうですね。これは多分、稲穂ではないかしら」
「ああ、ってことはもう少し北方の――――」
微妙に上ずった声調でそれでも話を続ける二人はぎこちなく、とても楽しそうには見えない。むしろ友弥には違和感しか感じられず、続きを聞かれまいとしているのが丸わかりだった。
「………………」
本当に、何があったというのか。
正直とても気になるし教えてほしいが、無理やり聞いておかなくてはならないようなことでもないらしい。そうであれば二人は隠したり、誤魔化すことはしないだろう。
(だったら、まあ……)
とりあえずはいいだろう。
そう結論を出した友弥は、小さく息を吐くと無言で食事を再開する。
そんな彼に主従はこっそり目を合わせ、安堵したように息を吐き。
それからうーんと首を傾いだ。
◇
「深月のチカラが覚醒した?」
その事実を友弥が聞いたのは、昼をとうに越え宿を後にした時だった。
今日は朝から天気が悪く、空には厚い雲が垂れ込めている。辺りは日がない為か薄暗く、人の影もない街はいっそうさびしく感じられる。
水分を多く含んだ風が肌にまとわりつく。この様子では、そう経たないうちに降り出すだろう。
「かもしれない、な。不安定極まりない――っていうかアレがそうなのか甚だ怪しい」
あくまで可能性、と門を目指すディディウスが念を押すが、
「でも限りなく高い可能性です。事実、ミヅキはその神力で方陣を描きました」
彼を挟んで反対側に並ぶ王女は深く被ったフードを押さえ、真摯な面持ちでより詳しく友弥に説明する。
少し風も出て来たようだ。
「ミヅキは言いました。私も戦う、と。そうして自ら、武器を造り出したのです」
「武器を、自分で?」
そんなことが可能なのだろうか?
驚きを隠せない友弥をちらと見やったディディウスが「貧相だったけどな」と付け加え、「これくらい」とその大きさを二本の指で教える。
その向こうには太い鉄柱で作られた高い門、そろそろ街の出口にたどり着きそうだ。
「…………随分、小さいね」
ディディウスが示したのは10cmほどの、掌に収まりそうなサイズ。友弥は困惑した。
全く想像がつかず「どんな武器?」と訊くと、「見たことないやつ」と全く要領を得ない答えが返ってくる。
「ミヅキは“ミズデッポウ”と言っていましたが……」
「水鉄砲?」
ますます意味が分からない。子供の玩具のようなそれで深月は、呪いと呼ばれるあの禍々しい異形のモノを倒したというのか。
どう頑張っても威力が足りないような……。
「まあ倒したわけじゃないからな」
「そうなの?」
「そ。あ、おじさんっ」
街の外に通じる門の前に差し掛かり、脇に構える見張り台にディディウスは小走りで駆け寄った。簡易の鎧を纏った壮年の男はこちらに気が付くと、驚いたように目を瞠る。
「おまえさん達まさか、この天候のなか街を出て行こうっていうんじゃないだろうな」
「そのまさか」
ディディウスが軽い調子で頷くと、男は仰天して顔の前でぶんぶんと腕を振った。
「とんでもない、やめといたほうがいいぞ。陽の差さないこんな日に出歩くなんざ……」
「待ってみたけど晴れそうにないし。俺たち先を急いでるんだ」
「にしたって……。せめてあと一日くらい伸ばせないのか?」
「時間がなくてね」
肩をすくめるディディウスに「けどなあ……」と男がまだ難色を示す。それは宿を出る時にも交わされたやりとりで、闇に怯えるルーウィン特有の風習ともいえるものらしかった。
巫女姫であるリゼ曰く「雲が陽を隠す今日のような日は、家に籠って火を炊くのが一般的なんです」とのこと。これは神殿でも同じらしい。
光が弱まる分闇――すなわち呪いと呼ばれるものが力を増し、生あるものはその命を脅かされないよう外出を避けるのだと。
それは一般的というよりも当たり前、常識の範囲らしく見張り台の男はなかなか門を通そうとしてくれない。
「いやでも……」
「だから……」
「そうじゃなくても最近……」
こちらの身を案じてくれているのはよくわかるのだがこのままでは一層暗くなってしまう。さてどうしたものかと友弥が思案に暮れていると、それまで成り行きを見守っていたリゼが無言で前へと進み出た。見張り台の足元で、眉間にしわを寄せた男を見上げる。
「ご心配痛み入ります。が、僕は神司ですので」
例のごとく性別を隠したリゼが、幾分低い声で「大丈夫です」と付け加えるが男はまだ渋って行かせまいとする。それでも、
「依頼が入っているのです。早くいかないと大変なことになってしまう」
神妙な声色でそう言われれば、もう引き止めることはしなかった。
「神官さまがいるんなら大丈夫だとは思うが……気をつけなよ。闇はますます強くなってるっていう噂だからな」
「ありがとう、用心します」
「お世話になりましたー」
じゃあねーと手を振り門を出ようとするディディウスの背に、最後の一押しとばかりに男の声が飛んでくる。
「くれぐれも、森なんかは通るんじゃねーぞ!」
絶対だからなー、と続けられたその言葉の意味を友弥が理解するまで、そう時間はかからなかった。
石を敷き詰めた道は舗装と言えるほど手が入っておらず、間に入り込んだ砂利で少しばかり歩きづらい。昨日馬車で通ったときは露ほども気にならなかったそれらは今、ブーツの底に確かな存在感を主張している。
とはいえ坂があるわけでも何かに阻まれるでもないので、穏やかな道と言えるだろう。
天気は相変わらずよろしくないが“闇を恐れる”といった概念のまったくない友弥、そしてそれらに対抗出来うる王女とその聖獣は少しも怯むことはなく、しんと静まり返った街道を迷いない足取りで進んでいく。
しばらくすると今度は畑や小さな井戸、簡易の東屋やわずかに傾いた露店、干し草を積み込んだ台車など長閑な光景に変わった。食堂で見やったパズル式の絵画に似ているように思うのは、どこにでもある風景だからだろうか。
しかし日も差さず人一人いない為、その印象はだいぶ異なる。
「本当に、誰も出歩かないんだね」
徹底的とまで言えるその習慣に、友弥はいっそ感心する。日本でも雨の日に好んで外出する者はあまりいないだろうけれど、それでもそれぞれの目的の為に街に人の姿は絶えない。否、地方やいわゆる田舎と呼ばれる地域がどうかまでは友弥にはわからないが、それにしても、だ。
人どころか、生き物の気配すら感じられない。
自分たちだけが世界に取り残されたような、奇妙な錯覚に囚われそうになった。
刹那。
……ずる
身の毛のよだつような物音が、遠くから聞こえた。
……ずる
何かを引きずるようなその音は、友弥たちのはるか前方。
……ずる
田んぼの先に広がる林道の先へと。
不安定に形を変える赤黒い塊が、鈍い動きで奥へ奥へと進んでいく。
「……呪いの……獣」
「行きましょう」
戸惑う友弥を先導するように、リゼは自分も林道を目指して歩調を速め、ディディウスがそのすぐ後ろに付いた。
慌てて後を追う友弥の、その頬をぽたりと水滴が濡らす。
「……あーあ」
とうとう降り出した雨。
聖獣はうんざりと空を見上げ、友弥は息をつめて林に吸い込まれていく物体を見つめる。
だから誰も気づかなかった。
先頭を行くその巫女姫の。
瞳が揺れて、かすかに震えていたことを――――――。