第四十六話 : 繋がる想い
「このようなところで、何をしている?」
忙しない城内の一角にあって、人の目に留まりにくいその場所。
宰相の姿を見つけたアークの声は、その陰に微動だにしない少女を認めたことで自然低くなった。
「ア、アレクセイ殿下……」
狼狽える宰相には威厳も何もなく、この男が与えられた地位にどれほど似つかわしくないかを如実に体現している。
政治家として手腕を発揮することも、貴族として領地を治めることも出来ない。先王によって宰相を任じられたロシュアがその責務を果たしたことは、アークの知る限り一度もない。権威に縋り身分に溺れるだけの、無能な人間。そしてそれ故に面倒この上ない者だと、アークは認識している。
「宰相ともあろうものがこのような時間に、政務をするでも議を行うでもなく」
「いえ、これは、その」
「政務が滞っているのではなかったのか? それとも私の承認がなければ、そなたの仕事は何一つ進まぬと」
声には苛立ちが混じり、その貌は無機質さを増して一層冷ややかに。
「そういうことか?」
「――――い、いいえっ、めっそうもございませんッ」
ふんだんに込められた皮肉に恐れをなしたのか、宰相ロシュアはがばりと頭を下げる。己の失言に気付いたのだろう、小刻みに震えたその背を何の感情もなく見やったアークは、その向こう側、目的の少女に視線を移して小さく息を吐いた。
「ミヅキ様のお帰りが遅いのです」
そう言ってアークの執務室を訪ねたのは、最も馴染みのある神官のうちの一人。
波打つ栗色の髪を揺らす小柄な少女――巫女姫付きの侍女であるユハだった。
「レヴィンが迎えに行っているのではないのか?」
「それが、レヴィンはミヅキ様を送りに行ってから一度も、こちらに戻っていないのです」
ユハは官衣の胸元を握りしめ、不安そうに顔を曇らせアークに告げる。
「何だか、嫌な予感がするのです……」
「分かった」
ユハにそれだけを返して、アークは城へと足を向けたのだ。
そうして思っていたよりも簡単に、深月は見つかった。
(構いすぎるなと、言われたばかりなのだがな)
「お帰りが遅い、と。侍女が心配していましたよ」
「…………」
宰相の向こう、近衛騎士を従えた彼女は深く俯いて何も言わない。やはり機嫌を損ねたのか、こちらを見ようとさえしない。
どうしたものかと嘆息したアークにびくりと反応したのは、深月ではなく手前で頭を垂れていた宰相。
「ア、アレクセイ殿下っ。わしは、その、火急の用を思い出しましたのでッ」
言うなり初老の男は大仰なまでに何度も叩頭し、かと思うと脱兎のごとくその場から逃げだした。
「……王女殿下」
レヴィンの手前名を呼ぶ訳にもいかず、仕方なくそう呼んでアークはその肩に手を伸ばした。
刹那。
「―――――触らないで」
パンッと、アークの手は勢いよく払われた。
顔を上げた深月の、表情はヴェールに隠されてほとんど見えない。が、露わになっている唇に色はなく、心なしか青ざめているようにアークには見えた。
「宰相に、何か言われましたか」
「…………」
またしても深月は答えない。それどころか、くるりと背を向けると無言のままに歩き出す。
あからさまな拒絶、引き止めようと後を追おうとしたアークが単衣の袖に触れるか否かの、その瞬間。
「私を、放っておいて」
これ以上ないほど冷めた声音で、吐き捨てるように深月は言った。
そうして一度も振り返らず、近衛と共に彼女は去った。
「放っておいて、か……」
一人回廊に残ったアークは誰にともなく呟く。払われた己の手を見つめても、彼女の真意は見えない。
固い声。強張った、小さな背中。
彼女の頬は濡れてはいなかったが、アークには何故か、深月が泣いているように見えた。
けれど拒絶されてしまった以上どうすることも出来ず、アークは自らの額に手をやると深く深く息を吐いた。
(頼ればいい、今までのように、何の気兼ねもなく)
否、頼って欲しい。
名を呼んで、袖を引いて。
常春の陽だまりを思わせる、あの笑みで。
「……………………」
拒まれるということは想像以上に突き刺さる。それは少女があまりにも似ているからなのか。
頼ることを忘れた、一人ぼっちの巫女姫に。
『アレク』
「イリーゼ、私は……」
形の良い唇が、わずかな音を伴って言の葉を紡ぐ。
それは誰にも聞かれることなく。
泣き出しそうなリラムの空に溶けていく。
◇
敷地内に吹く風は湿度を増し、肌にまとわりついて一層息苦しい。
朝の快晴が幻であったかのように、空はその様相を変えていた。穏やかに浮かんでいた雲は厚みを増し、質量を持って天を覆う。陰り始めた神殿には慌ただしく神官が行き交い、昼前だというのに随所に火が灯され始める。闇を恐れて遠ざけるのは、民間も神職も変わらない光景。
光に縋る、その姿は。
「……そろそろ戻りませんか、姫様?」
刻まれた神紋、色鮮やかな階に座り込んだ深月に、レヴィンが遠慮がちに声を掛ける。が、返る声はない。抱えた膝に顔を埋めて、深月はぴくりともしない。
「雨が、降りそうです。その、このままここにいては、御身が濡れてしまいます」
だから部屋に、と言外に含んで、少年騎士が甲冑を纏った腕を差し出す。わずかに近づいた気配、それでも頑として動こうとしない深月は次の瞬間。
「風邪をお召しになられては、最高神官長が心配されますよ」
レヴィンの言葉に小さく肩を揺らし、俯けた顔をのろのろと上げた。
「さあ、姫様、部屋に」
「…………の?」
「え?」
掠れれた声を聞き取れず問い返すレヴィンに深月は唇を噛み、躊躇いながらもう一度口を開く。耳に張り付いた宰相の声。嘲り、侮蔑、向けられた様々な負の感情。
巫女姫とは、そんなにも軽んじられるものだというのか。守ろうとする人々たちが、リゼという存在を否定するのか。頼りないと、救われないと。
「……私は、嫌われているの?」
乾いた唇からこぼれたのはそんな、子供じみた言葉だった。
「姫様……」
「巫女姫には希望がないと、形だけの存在だと思っているの? ロシュアの言うように……王位に取り入るだけの、無能な姫だって」
「姫様、そんなことは」
「この国にとっては厄介者でしかない……っ」
最後は殆ど叫びに近かった。レヴィンが息を飲む音が間近に聞こえる。
吹き抜ける風が草や枝の葉を揺らし、二人の間に距離を作った。
そして訪れる、短い沈黙。
破ったのはレヴィンだった。
「俺たちは……」
わずかに言い淀み、それから。
「騎士である俺たちが姫様の近衛に選ばれるのには、条件があります」
常に気遣い露わに言葉を探し、選んで口に上らせていた少年は意を決したように顔を上げる。鳶色の眸には痛ましさと、そして強い意志が見て取れる。
深月は言わんとすることを正確に汲み取ろうと、口を閉ざしたまま少年をじっと見上げた。
過渡期特有のわずかに高い声が、深月に教える。
「近衛騎士の絶対条件。それは巫女姫を守れる剣の強さと、それから」
レヴィンの視線が深月を射抜き、周りの音をかき消した。
届く音は、ひとつ。
「誰の声にも揺らぐことのない、貴女様への敬愛です」
知らなかった想い、熱のこもった瞳とその裏側。
「近衛は貴女様の御身を、神殿は御心を守る繭。権力を望む王宮側は王太子こそが次代だと声高に唱え、姫様の王位継承権を否定してきました。先代――お父上の御世には密やかに行われていたそれらも、今や止められる者がおりません」
王太子であるアークが諌めても、その場凌ぎにしかならないとレヴィンは言う。ましてや我が娘を妃にと画策する者にとっては、王太子が庇えば庇うほど、リゼの存在が目障りになっていく。誰よりも大切だとするその態度は、ますますリゼを追い詰めたという。
そしてそれ故に。
「最高神官長はなるべく、姫様に会わないようにと。関わらないことで姫様を守る方法を取られました。だから……」
レヴィンはついと王宮に視線を移し。
「俺たち近衛騎士の役割は、直接傍に居られない最高神官長の、代わりを務めることなんですよ」
想いを代弁するかのようにそっと深月に告げると、眉根を下げて悲しそうに微笑んだ。
◇◇◇
王女の私室に軽快な音色が鳴り響く。繰り返される澄んだピアノ、奏でられるのは異なる世界の音楽。
テーブルに置かれた濃茶の学生鞄の、その一部が内側からぼんやりと光る。しかし主の居ない居室に人の影はなく、それに気づくものはいない。
そうして音はふつりと途切れ、、光は沈んで元のように。
まるで何事もなかったかのように、部屋は再び静まり返った。