第四十五話 : こころ
リゼ=ヴィーラという少女について、深月が知っていることは決して多くない。一緒に過ごした時間はまだわずかで、どちらかというとアークから聞いたことの方が多いかもしれない。
この国の王女であるということ。
行く未来を定める巫女姫だということ。
聖獣とよばれる存在を連れていること。
そして。
『見失えば何も分からなくなる。進む道も、本当の願いも皆。壊してしまう、取り返しがつかなくなる、その前に……』
――――彼女は、何かにひどく怯えていた。
状況からしてその“何か”はこの世界を滅ぼすという“闇”だと考えるのが自然だが、本人の口から明言されたわけではないので本当のところは深月には分からない。
けれど、それでも深月は彼女のことをすきだと思った。身分や位など関係なく。
優しい微笑みは温かかったし、折れてしまいそうな儚さは守ってあげたいと思った。ひたむきに前を見つめる、懸命な彼女だからこそ。
だからこそ。
「今の言葉は、どういう意味ですか?」
侮辱でしかない言葉を真っ向から否定する為、深月は男に向き直るとその姿をひたと見据えた。
まるで恋に舞い上がっていると言うような、あるいは権勢を誇る帝国への、人身御供になれとでも言うような。もしくはそうすることで権力――王位を得ようなどと目論んでいるのか。
何にせよ、腹立たしいことこの上ない。
「皇太子殿下の妃になりたい。そうして国を守りたい――そう申したことが、私にありましたか?」
答えは間違いなく「否」だろう。リゼはそんな方法は選ばない。
皇太子にも言った通り、リゼは権力など望んではいない。
「私はリラムの王女であると同時に、神に仕える巫女でもあります。国はもちろん大切ですが、今は何より、光を支えることが第一。この世界の現状は、宰相であるあなたも知るところでしょう。違いますか?」
ファンタジーを凝縮したようなこの世界で、宰相というものがどのような役割を持つのかは定かではない。ただ政務を行うのみで、神事には一切の関わりを持たないのかもしれない。
が、世界情勢を把握するのは政治の基本だと深月は思うし、それが出来ていないのであればこの男は宰相として失格だ。人に――ましてや自国の王女にあれこれ言う権利はない。
「この身を捧げるものは世界――ルーウィンであり、それがこの国の安寧に繋がると私は考えています。なのでロシュア」
一歩、男に歩み寄る。瞳を隠す為俯いた深月は、それでも凛とした姿勢を崩さずに。
「先ほどの言葉は、撤回してください」
はっきりと、男に告げた。
いつしか温かい日差しは雲に覆われ、空は灰色に染まりつつあった。太い柱の立ち並ぶ回廊には薄暗く影が差し、近づいたにも関わらず相手の表情が鮮明には見えない。ロシュアはばつが悪いのか顔を俯け、その真意は尚更伺えない。
「申し訳ございません、リゼ=ヴィーラ様」
すんなりと謝罪を口にしたロシュアは、しかしそれだけでは終わらなかった。
「分かれば」
「ですがリゼ=ヴィーラ様。貴女様がかの帝国に嫁がれること、これがこの国の一番だという考えに変わりはありませんぞ」
そう続けたロシュアはゆっくりと顔を上げると、皺の刻まれた顔に歪な笑みを浮かべた。
「……あなたはまだ、そんなことを」
「貴女様が皇太子殿下のお気に入りであるということは、誰の目にも明らか。その証拠に殿下御自ら、出奔した貴女様を迎えに行かれたではありませんか」
「しゅっぽ……」
出奔とは身分のある者が家人に何も告げず行方をくらませること。つまりは家出だ。深月も聞いたことくらいはあるが、もちろん良い意味合いなどではない。
それなのにこの男は何の躊躇いもなくその言葉を使う。それどころか。
「貴女様が不在の間、城には何の問題もございませんでした」
「――――つまりこの国に私は不要である、と」
「恐れ多い。そのようなことはこのロシュア、口が裂けても申しません。ですが」
宰相として、そもそも臣下として有り言ない発言に深月の語調は強まったが、ロシュアは全く悪びれず、むしろ好機とばかりに身を乗り出した。その瞳は醜く濁り、口元には喜色を滲ませて。
「貴女様のお役目とは、リゼ=ヴィーラ様? 光の弱まったこの状況に御身を捧げたところで、どうにかなると本当にお思いか?」
「――――」
「このように闇に蔓延られた世界にあって、巫女姫という地位には最早なんの価値もない。意味すらないと、ルーウィンの現状が教えているではありませぬか」
はっ、とロシュアは鼻白む、そこには王族への畏怖も巫女姫への敬意もない。
あるのはただ、嘲りのみ。
「世界を救う力など、貴女様には有りはせぬ。ならばせめて、祖国の為に尽くしては頂けませぬか?」
「祈っても意味のない、私は役立たずだと。そう言いたいのですか?」
先程とは比べ物にならないほどあからさまな物言いに、深月の怒りは沸点に達した。目の前の男の言葉は到底許せるものではない。だが想いのままに声を荒げることは、王女として振る舞う深月には出来なかった。
「そうは申しておりません。ただ国にとっての最善をと、お願い申し上げているのです。……それとも」
湧き上がる感情を拳を握りしめて堪えようとする深月の、その様子をどう取ったのか。
「まだ、アレクセイ殿下に取り入ろうとお考えですか?」
ロシュアは、予想もつかない一言を放った。
「……………………は?」
なぜ今ここで、かの神官の名前が上がるのか。それは理解の範疇を遥かに超えて、深月の脳内を真白に染め上げる。
アレクセイ。
それがアークの本名だということは朝、本人の口から直接聞いた。王族としての正式な名だと。
だがどうして、今この場で宰相の口に上ったのか。それも、嘲りを隠さない響きで自分にぶつけられたのか。
答えはすぐに与えられた。
「貴女様が王位に就けぬこと。これは覆しえぬ決定事項と申しても過言ではない、今や王宮に集う者たちの総意だと言えましょう。政務に一切関わらない貴女様に、国はまとめられない。だからと言って次期国王である王太子殿下の妃、国母の地位を欲するなどとは愚か者の考えることです。そうは思いませぬか?」
「な、にを言って……」
「ましてや貴女様は、アレクセイ殿下の従妹君でもあらせられる。濃すぎる血は国難を招く、血統を維持するのとは訳が違います。お分かりか?」
まるで聞き分けのない子供を諭すような口調に、深月の心臓は嫌でも早まった。
王女であるリゼが、王太子であるというアークに取り入る。
それは他でもない権力の為に。王位に近づくために。
(どうして……)
なぜそのような話になるのか、深月は怒りで躰が震えた。
確かにリゼはアークを想っている。それは揺るぎない事実。
生まれて間もなく神殿に引き取られたリゼの、アークは唯一の肉親だったと。兄のような存在だと。
そうして深月は唐突に理解した。
(ああ、だから……)
『恋愛感情を抱くことは』
リゼは、あんなにも頑なに。
『ありません』
何者をも拒むように、完璧に笑ったのだ。
アークを慕うその心が、穢れた思惑に利用されない為に。地位など露ほども欲しがらない彼女の、精一杯の想いの守り方。
そして。
「巫女姫だと仰られるのであれば、ご自身の欲望は我慢なさってくださいませんか? これ以上」
「――――――」
「忙しいアレクセイ殿下の、お手を煩わせませぬよう」
壊したのは、深月――――――。
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ずきりと、どこかが軋むような音が聞こえた。痛い。
胸の辺りが、痛くてたまらない。何か、一言でも言い返さねばと思うのに声が出ない。
リゼは望まない。権力など欲しがらない。
彼女は純粋に、アークを慕っているだけ。
そんな短い言葉さえ。
踏みにじったのが自分だと思うと、哀しいくらいに音にはならなかった。