第四十三話 : 誰も知らない
真実の顔。
どうか、貴方だけが、知っていて。
◇
「花嫁」
「わひゃうっ」
首筋に掛かる温い風、響く低音に深月はびくりと飛び上がった。
「こ、皇太子さまっ」
うなじを押さえて振り返った深月の、背後に立つのは長身の人物。紫紺の眸に濡羽色の長髪の、冷めた美貌の皇太子だ。
彼の帝国から遠路はるばるやって来たライズは、本日もリラムの城に滞在中だ。冷酷と名高い皇太子はしかし今はご機嫌らしく、その顔は笑みに満ちて――否、歪んでいる。
「何とも色気のないことだな、俺の花嫁」
もはや当然のように呼んでくるライズに、深月は顔を赤らめつつもその尊顔を睨み上げた。
「そんなの今は関係ありませんっ。それに皇太子さま、何度も言うように私はあなたの」
「ライズだ。お前こそ、何度言えば覚えるんだ?」
「忘れてるわけじゃありませんけど!?」
まるで記憶力が無いとでも言いたげなライズに、深月は目を剥いて声を上げる。が、それもライズは笑うだけだった。
「相も変わらず面白いな、花嫁」
「だから違いますってば」
相も変わらずは進まない会話の方だと、深月はがっくり肩を落とす。この遣り取りを今後どれだけ繰り返すのか、考えただけでも憂鬱だ。
はぁぁ、と深く息を吐き出す深月はじっとりと皇太子を睨めつけ――――そこで閃いた。ピコーンと脳内で軽快な音が弾ける。
「皇太子さま」
「名を呼ぶ気になったか」
「いいえ」
はっきり、いっそ気持ちの良いくらいきっぱりとした否定。クッとライズが低く笑う。紫紺の眸が深月を貫いた。
「では何だ?」
ん? と首を倒す皇太子。
子供や女の子なら可愛らしいその仕草も、ライズがやると尊大にしか見えない。むしろ拍車がかかっている気がして、深月は目を据わらせた。が、どうやらこの俺様皇太子、話を聞く気はあるようだ。
「交換条件です」
「何?」
深月の台詞が余程予想外だったのか、ライズの眉がぴくりと動いた。
交換条件。
それは二日前に、深月が従わされたもの。
『俺はお前を王女として扱う』
『その代わり、お前は俺と朝食を共にする』
ちなみにこの交換条件、深月の意思は綺麗に無視されている。というか皇太子は初めから、意見を聞く気なんてなかった。それを跳ね返せなかった深月は仕方なしにその条件を呑んだのだが、もちろん納得は出来ていなかった。
当然だろう、それが原因で深月はアークにたっぷり絞られたのだから。
何とか宥めることに成功したのは、深月が必死に無力アピールをしたからだ。「他国の皇太子相手に反抗しきれない」「王女様の演技中は不可能だ」など、でっち上げの理由を盾に頑張ったのだ。
そうまでして交換条件を守ったのは、人が死ぬのを避けたかったから。戦だの切り捨てるだのと物騒極まりない皇太子に、逆らい切れなかったからだ。でも。
「一昨日は私が、皇太子さまの条件を呑みました。だから今回は、皇太子さまが私の条件を呑んで下さい」
びしぃっ、と指を突きつける。そんな深月に皇太子は、さも可笑しそうに眸を細め、手の甲で口を隠す。実際愉快でたまらないのだろう、隠されていない切れ長の眸は、明らかに笑っている。
「言ってみろ。内容によっては、承諾しないこともない」
「簡単ですよ。私は皇太子さまを名前で呼びます。だから皇太子さまも、花嫁と呼ぶのを止めてください」
臆することなく顔を上げる深月。譲る気が無いことを主張するために、視線は逸らさない。
「ちなみに拒否権はありません」
一息に告げて、深月は堂々と胸を張った。双方の視線がまっすぐぶつかる。
皇太子は思案しているのか無言で深月を見つめた後、口端を吊り上げにやりと笑った。
「拒否などしない」
「皇太子さ」
「ライズだ。名を呼ぶのだろう?」
口元を緩めたライズが、腰を折る。
158cmの深月と190cmはありそうなライズの、距離が一気に近づいた。
正直近すぎる、というよりこの皇太子はいつだってゼロ距離だ。深月は思わず声を上ずらせる。
「じゃじゃ、じゃあっ」
「いいだろう、条件を呑んでやる。俺も、お前の名前を呼ぼう」
僅かに熱を帯びた声、その台詞に、深月の背中がびくりと震えた。
「それで構わないな?」
構わない。否、大いに構う。
その先はいけない、それ以上は――――。
「ミヅ」
「わあああぁぁぁぁ!」
深月は大音声で叫び、すさまじい早さで皇太子目掛けて両腕を振り上げた。そのままライズの口を塞ぐ。
「駄目じゃないですか、こんなところで名前を呼んじゃっ」
誰かに聞かれたらどうしてくれる、と深月は皇太子を睨み付ける。冗談じゃない、それでは説教・尋問・追放の三拍子が揃いかねない。深月は大いに慌てた。
そして。
「名前を呼ぶのは、二人っきりの時だけにしてください!」
……ん? と。
言い切って、深月はハタと我に返った。何だかとてもマズイことを口走ったような気がするが、自分の思い違いだろうか。
「ほぉ……」
深月の両の掌を自身のそれで握り、唇からグイとずらしてライズが嗤う。
もう嫌な予感しかしない。
「積極的で嬉しい限りだ」
「え、ちょっ、今のは違っ」
懸命に抵抗を試みる深月は両手を突っ張って離れようとするが、逆に腕を取られ、ライズに抱え込まれた。朝日に照らされた怜悧な美貌、間近に迫ったそれに、深月の顔に熱が集まる。
どうしてこうなった! と嘆かずにはいられない。
「は、ははは放しっ」
「やはりお前だな」
「はぁァ?!」
意味が分からない、分からないのは動揺からか混乱からか。どちらにせよ今は、そんなことに構っていられない。
というよりこの距離で息を吸わないで欲しい。
「こっ皇太子さまとりあえずっ」
「ああ、そうだな」
とりあえず放してください、そう告げる前に、ライズは深月を解放。
「続きは部屋の中でだな」
したわけではなく、そのままひょいと抱え上げた。
◇
本当にこの皇太子は、何を考えているのか分からない。
「どうしたミヅキ、面白い顔をして」
「この顔は生まれつきですっ」
噛みつく深月は眉間の皺を一層深くし、ぎりぎりぎりと歯ぎしりをする。
廊下での一件の後、賓客室で朝食を取った深月とライズは現在。
「腰が引けているぞ。もっとしっかり、柄を握れ」
同じく賓客室で、剣の稽古の真っ最中だ。剣は勿論本物で、竹刀を握りなれた深月でも、真剣の重さに姿勢が定まらない。二倍、否、少なくとも三倍はあるのではないだろうか。
「確かに、稽古をしたいとは言ったけど……」
いきなり真剣を渡されるとは思ってもみなかった。そんな深月が今手にしている長剣は、さっきまで皇太子の腰に佩かれていたものだ。
「どうした。剣の腕には自信があるのだろう?」
意地悪く唇を歪めたライズが真っ黒な大剣を構え、切っ先をこちらに向けてくる。
力の差は明らか、それは初めて会った時の友弥との仕合で理解している。あのような大振りな剣を軽々と扱っていることからも、皇太子が深月よりも何倍も強いことを知らしめている。
それでも。
(小馬鹿にされている……っ)
表情からも態度からもにじみ出るライズを前にして、負けず嫌いの深月はぎりりと奥歯を噛み締めた。
相手は真正面、一見隙だらけに見えるがその実どこにも隙はない。
「――――行きますっ」
剣を上段に構えたまま、思い切って床を蹴る。気を抜けば腕が後ろに持っていかれる、そんな感覚に背中に汗を掻きながら、深月はまっすぐライズへと駆けた。
「剣の稽古をつけてやろう」
ライズがそう言ったのは、朝食を終え温かいお茶に口をつけた時だった。
「えっ?」
「昨日言っていただろう、剣の修行がしたいと」
「あ……」
それは昨日の朝、深月がアークに頼み込んだことだ。結局は許可を貰えないまま、口論の最中にライズが闖入し話が放置されていたのだ。
そしてその結果と言えば。
「約束したからな。俺が相手をしてやろう」
どうやら会話は外に筒抜けだったらしく、最終的には深月の相手は他国の皇太子であるライズになってしまったのだ。
とはいえ王女として生活する深月が、皇太子相手に剣を振るっているなど公になっては大問題。これは丁重にお断りせねば、後々色々とマズイことになりかねない。
深月は俗に言う“愛想笑い”を全開にして、ライズに向き直った。
「いいえ、ライズ様。お気遣いには及びません。もうあの話は、一応片が付きましたので」
お気遣いなく~とぱたぱた手を振る深月は今日も、ライズの左隣に席を設けられていた。故にまたまた距離が近い。つまりは、伸ばせば手が届く。
「私に触りたくば剣を取ることです、だったか」
なぞるように口にするライズ。余裕ぶってカップを口に運んでいた深月はぶふッ、と吹き出した。
運悪く気管に入り込んだそれにゲフゲフッと盛大に咳き込む。
『私に触りたかったら剣を取ることです! さぁっ』
この台詞は昨日、アイアンクローから逃れる際にアークに投げつけたものだ。が、このタイミングで掘り返すのは似つかわしくないにもほどがある。しかも、何だか違う意味に聞こえたような気がするのだが。
「お前が言った言葉だろう?」
「言いましたけどっ」
「ならば」
顔を真っ赤にして上体を引く深月の、その漆黒の長い髪をライズが掴む。皇太子は三つ編みの毛先を眺め、くいくいと弄った。
そうして。
「相手をすれば、お前に触れてもよいのだろう?」
凄絶な笑みを面に浮かべ、深月の髪を自身の口元へと引き寄せた。
(――――ッぎゃあああぁぁぁぁぁ-っ)
余計なことを思い出した深月は胸中で絶叫し、走るスピードを一層上げるのだった。