第四十二話 : 砂の城
天井ガラスから差し込む光に、神紋を施された床や柱がきらきらと照らされる。
清掃に換気にと窓や扉が開け放たれる為、新鮮な風が神殿内を吹きぬけて空気は一層爽やかだ。
彩り豊かな神興国の神殿は、朝のこの時間帯が一番美しいと言える。
芸術的と言っても過言ではない。
が、しかし。
「姫様、姫様っ」
見る者を恍惚とさせるような光の造形物をがっつり無視して、深月は回廊を無言で進む。今の深月に、芸術を愛でる心の余裕はない。
だから、ひたすら外を目指す。
「姫様、お待ちくださいっ」
王女の私室を飛び出してから、深月の思考は目まぐるしく変化していた。
最初は、確かにアークに腹を立てた。
深月に手を掛けるために自らを省みないそのやり方に、怒りが沸いた。
もっと自分も大事にしてくれれば良いのに。どこまで深月を子供だと思っているのだ、と。だからアークに背を向けた。
しかしそれは、時間と共に全く違う感情になった。
「姫様、姫様ーっ」
アークの立場も、その場の空気も。
何も考えずに、部屋を飛び出してしまったのだから。
冷静になった頭に浮かぶのは、もはや後悔の念だけだった。
助けてもらったのに、差し伸べてくれた優しい手に、噛みついたようなものなのだ。
もしかしたらアークは、もう。
「――――姫様っ」
「ひゃっ」
突如耳元で上がった声、眼前に現れた腕に驚き深月は奇妙な悲鳴を上げた。正面には甲冑を纏った腕、すぐ向こうには神殿の太い柱。
「前をご覧にならないと、危ないですよ」
そう言って腕を引っ込めた少年騎士、王女の近衛であるレヴィンは心配そうにこちらを窺っている。その距離は思ったよりも近く、レヴィンの漏らす息が深月の頬に掛かった。そして。
「わ、あああああぁぁぁ?!」
ぼっ、と顔を赤らめたレヴィンはものすごい速さで後ずさった。
「えーっと……」
そんなに? と深月は口元を引き攣らせた。
確かに驚きはしたが、そこまで後退されると少しばかり傷つく。
「す、すみません、ご無礼をっ」
あわあわと両手をばたつかせるレヴィンに「落ちついて」と声を掛けたいが、今のこの状況できちんと少年に届くだろうか。
うーん、と身の振り方について悩みだす深月。
このまま先を進むか、それともレヴィンが落ち着くのを待つべきか。
本日の悩みどころである。
その姿をどう取ったのか、深月の耳にまたも謝罪の声が聞こえた。
「すみません、姫様」
「えっ?」
「ご案内します、あの、ちゃんと。だからその……」
何故か身を縮こまらせる少年騎士、レヴィンは今や耳まで赤い。真っ赤だ。
その様子に近衛騎士という肩書はとても似合わず、どちらかというと捨てられたペットに近い。
深月の目には揺れる尻尾と、力なく垂れる耳の幻が見えた。
そして。
「――――ぶっ」
深月は吹き出した。
「姫様?」
堪え切れず肩を震わす深月を、不安な鳶色の眸が見つめている。その様に、少年の背後に濡れた段ボールまでちらつき始めた。
もう限界だ。
「ふ、ふふ……っ」
「ひ、姫様……?」
「大丈夫ですよ、レヴィン」
遠慮なく笑いたい気持ちを何とか押し留めて、深月は答える。すっかり動揺したレヴィンの眸をヴェール越しに覗いて、深月は微笑う。
「今更部屋に戻るなんて言いませんから」
だから、案内をお願いします。
軽く首をもたげる深月にレヴィンはきょとん、と眼を丸くし。
しばらく呆気に取られた後、我に返ってすぐさま「はいっ」と元気な返事をした。
◇
神殿を抜け城内に入ると、雰囲気はがらりと変わった。
あのやりとりの後、赤面が治まったレヴィンに先導され深月は賓客室を目指した。
神殿を渡り庭を抜け、城に足を踏み入れる。その間、おおよそ十五分。
単衣に隠した時計で確認したから、これは間違いないだろう。
しかし深月にとってこの十五分は、とてつもなく長く感じられた。その理由はただ一つ、無言が辛かったからだ。
これがセレーンやユハ、アークならばそれはそれで良かったのだが、今回の相手は勿論違う。赤面純情少年レヴィンだ。
では彼の何が、他の面々と違うかと言うと。
(見てる……また見てるよ)
深月を案内する間何度も、前を行くレヴィンはこちらを振り返っているのだ。
それは確認と言うよりも、何かを探っている様に見えた。
と言うより確実に、彼は探っている。
王女に話しかける、その好機を。
まだ少し赤い頬、緩んだり引き結ばれたりする唇が時に開かれ、そして何も言わないままに閉じられているのだ――――そう、何十回も。
いっそ早く話しかけてくれないかしら。そう思わずにはいられない深月だが、かと言って自分から口をきくことは躊躇われた。
事情を知る人以外は、誰であろうと話さない方が賢明なのだ。
アークに反抗した深月だが、それでも正体がばれぬよう、用心だけはなるべくしようと決めていた。
「あの柱を超えた先が、皇太子殿下のお待ちになっている部屋になります」
悶々とした深月が音を上げそうになった頃、レヴィンが振り返って前方の柱を指した。
苦行タイム終了のお知らせである。
「やっ」
(っと着いた~)
あまりの気疲れにへたり込みたくなった深月だが、そんなことをすれば今までの苦労は水の泡。瞼を閉じ、小さく息をつくだけで済ませる。
(私はリゼ、リゼ、リゼ……)
自分に暗示を掛けるように胸中で繰り返し、深月はゆっくり顔を上げた。ヴェールから眸が見えないように、そして王女に見えるように。
最大限意識して、深月は口を開いた。
「ありがとう、レヴィン。ここまでで結構です」
「えっ、でも」
「すぐそこですもの。部屋へは一人で行きますから、レヴィンは戻ってくれて大丈夫です」
むしろ戻ってくれた方が助かる、というのが、にっこり笑った深月の正直な気持ちだ。
忘れてはいけない。
かの帝国の皇太子――通称“黒い人”(深月命名)であるライズは、とても嫉妬深いのだ。嫉妬というと何だか誤解を生みそうだが、適切な言葉は残念ながら見当たらない。
強いて言うなら独占欲だろうか。
お気に入りの玩具を独り占めしたい、そんな子供のような感情だと深月は感じている。
(だからあんな風に、迫ったり脅したりするのだわ)
そうだ、間違いないと決めつけて、深月はぐっと拳を握る。眉は凛々しく吊り上げられた。
「では」
「――――姫様」
手を振って歩き出す深月の、その手をレヴィンが掴んだ。すれ違い様、囁くような小ささで、少年騎士が深月を呼ぶ。
「レヴィ」
「くれぐれも」
耳元で紡がれる音に、深月は目を見張った。無意識に身を捩り、レヴィンの腕を払う。
振り返った深月の瞳に映ったのは、赤茶の髪の少年騎士。彼は鳶色の眸を細め、わらうように唇を緩めていた。
「お気を付けて」
告げる声はやや高い、少年特有のもの。それは変わらないのに、今のレヴィンはどことなく影を帯びているように深月には感じられた。
ざわり、と心が波立つ。
「レヴィン? あなた……」
「ではまた」
最後まで言葉を待つことなく、レヴィンはぱさりと外套を翻す。
遠ざかる背、そこには先程のような稚さは微塵もなかった。
「今の、は……」
一体何だったのだろう。
感情をそのまま表に出す、子犬のような少年騎士。深月が抱いたのはそんな印象だったが、今のレヴィンは確実にそうではなかった。
笑っているのに笑っていない。
冷たささえ感じられる表情は、深月にかの皇太子を連想させた。
狂気を抱いた冷酷な支配者。
深月はぶるりと身を震わせる。
「まさか、ね」
呟いてみてもこの場には深月しかいない。
答える者は当然なく、深月はひとり、腕を抱えて立ち尽くした。