第四十一話 : 揺れる夏影
「失礼します」
王女の私室、その扉を押したのは、若い少年騎士だった。
耳に掛かる赤茶の髪と明るい鳶色の眸、背は深月より頭半分ほど高い。
同い年くらいだろうか、幼さを残す顔には僅かな緊張の色が見て取れた。
否、がちがちに緊張している。
その証拠に、ピンと伸びた指先は自らの両腿にぴたりと添えられ、顎は大げさなほど上向きだ。
「……楽にしてください」
見かねた深月がそう声を掛けると、少年騎士は「す、すみませんっ」と上ずった声を上げた。
緘口令を布かれている深月だが、目の前の少年はさすがに可哀想に思えた。
深月は本物の王女ではない。巫女姫でもない。正真正銘一般人。近衛騎士だというこの少年のほうが、身分はずっと上ではないだろうか。
この場に居るのが深月だけならば、少年は敬意を払う必要もないのだ。
そう、深月だけ、ならば。
「それで、レヴィン。このような時間から、王女殿下に何用だ?」
厳しい声で問うのは、深月と少年騎士――レヴィンの間に立ったアークだ。
深月を隠すように背を向けている為その顔は見えないが、話させまいとする空気だけはしっかりと伝わる。
それはそうだろう、顔は確かに瓜二つな深月だが、内面は王女であるリゼに欠片も似ていないのだ。
遠慮なく喋れば確実に、偽者だとばれる。
それは深月としても大変面倒――もとい困るので、ここはアークの言いつけに従って大人しく、成り行きを見守ることにした。
「すみません。先程ユハ殿が、セレーン殿を部屋にお送りしていたので」
「それがどうした?」
少年騎士の思いがけない切り口に、深月も「およ?」と目を見張る。
昨夜から体調が芳しくないというセレーンは確かに、主である深月が休暇を言い渡しその場でユハに連れて帰られている。無論深月の保護者であるアークにも、この件は伝えられていた。
「彼女は姫様を、賓客室にご案内する役目を仰せつかっていたかと存じます」
「そうだな」
アークの声に苦いものが混じる。
賓客室とは言うまでもなく、皇太子との朝食場所として深月に提供されている城内の一室だ。
昨日は皇太子自ら「用事が出来た」と断ってくれたが、さすがに連日と言うことはないだろう。
そしてそれ故案内が必要だと、この少年は言っているのだ。
確かに城内は同じような造りばかりで、歩き慣れていない者には迷路以外の何物でもない。
正直全くもって自信のない深月にとっては、これは有り難い申し出だ。が。
「無用だ。王女は私がお連れする」
(ですよねー)
予想通りのアークの返答に、深月は目を閉じて肩を竦めた。
アークと深月、どちらにとっても安心なその方法に、深月は安堵するとともに少しばかりの反感を覚える。
気に掛けてくれるのは嬉しい。面倒を見てくれるのも、有り難いことこの上ない。
肉親も友人も、一緒に来た幼馴染みさえ傍にいない今、いざという時に頼りになるのはアークだけだ。
けれど。
「でも最高神官長はお忙しいと、補佐官が。宰相も書類が滞っていると」
そこまで言って、レヴィンははっと言葉を止めた。「マズイ」と顔に書いた少年騎士をアークの背中越しに眺めて、深月はこっそり息を吐く。
「そうか。心配をかけたな」
どう考えても不用意である少年騎士の発言に対し、アークは「すまないな」と詫びを述べた。
しかし言葉とは裏腹に、アークの声は冷たかった。
「あ、の、俺」
「私としたことが、他に迷惑を掛けていたようだな。気を付けていたつもりだが、どうやら配慮が足りなかったらしい。すべて問題なきよう手を打とう。レヴィン」
言葉を切り、強く名を呼ぶ。少年騎士はびくっ、とその躰を揺らした。
「ご苦労だった」
もう用無しだと言わんばかりの一言に、レヴィンが目に見えて動揺する。
それもそうだろう、少年騎士は決して、アークを怒らせに来たわけではないのだ。本来の目的は王女の供だと、最初から述べていたではないか。
それを分かっている上での、アークの突き放すような物言い。
失言があったにしてもあまりにも不憫だと、深月は感じた。
それに、と深月はアークの背を見上げる。
「アレク」
「……はい?」
「彼に供を頼みます」
「…………」
静かな深月の声に、アークが無言で振り返る。その麗しの顔には、苛立ち。
深月は怯まず、出来るだけ穏やかに言葉を紡ぐ。
「最近は私に付き合わせてばかりでしたもの。お忙しい貴方の手を、これ以上煩わせるわけには参りません」
「……無用な心配です」
他者がいる為声音だけは平静を保っているアークだが、その表情は険しい。天色の眸には隠さない怒りが露わになっており、深月はそれだけで身が震えた。
しかし引くわけにはいかない。
「アレク、私は」
「先程述べた通り職務に支障は来しません。貴女の身の管理もまた、私の仕事のひとつです」
「でもアレク」
「問題ありません」
何を言うことも許さず、アークはきっぱりと言い切る。そこに深月の意思は関係ないとでも言うように。
分かっている、アークは心配してくれているのだと。
分かってはいるが、どうにも素直に従えない。それは先程、レヴィンが言ったことと、もうひとつ。
「いいえ、アレク。私はレヴィンと共に参ります」
「王女」
「私も子供ではないのです。そういつも、貴方に手を引いてもらわなくても良い」
言って、深月はソファから立ち上がった。言葉を失うアークの脇を擦り抜け、少年騎士の傍らに立つ。
「レヴィンと言いましたね」
「は、はイっ」
呼びかければ、呆然としていた少年騎士は声を裏返して返事をする。
一気に紅潮したその顔をヴェールの陰から覗きこみ、深月は口元だけで笑った。
「案内を、頼みます」
◇
頑な背中を見せる少女は自ら扉を押し、回廊へと踏み出す。
その華奢な後ろ姿が扉の向こうに消えるのを見つめながら、アークは声もなく立ち尽くした。
「失礼、します」
気遣わしげに退室を告げるレヴィンに、アークは「ああ」と低く答えると再びソファへと歩き出す。
背後で、扉の閉まる音がした。
「……子供ではない、か」
投げつけられた言の葉を、力なく繰り返す。
自分は、彼女のことを侮りすぎていたのだろうか。
異なる世界から来た、王女に良く似た少女。その容姿とそぐわない色彩を持つことから、アークは彼女を庇護しようとした。
何も分からない世界では、心もとないだろうという気持ちはあった。
しかし何よりアークが危惧したのは、その身を誰かに利用されないか、ということだった。
王女を鏡に映したような、その容貌。
王女が宿してはならない、その色彩。
巫女姫であるこの国の王女は最高の身分と地位を持ち、誰よりも人々に慕われる。
同時に、全てを手中に収めている様に見えてしまう王女は、誰よりも妬みを持たれる存在なのだ。
彼女を手に入れたのなら、使いようは幾らでもあった。
だからこそ、アークは深月を身代わりに仕立て、手元に置こうと思ったのだ。
それは管理するとともに、少女を守ると言う目的もあった。
それなのに。
「些か、干渉がすぎたのやもな」
小さく呟き、アークはソファに身を屈める。
少女が座っていたそこには、置き去りにされた真白のぬいぐるみ。紅玉の眸でこちらを見返す、物言わぬキツネ。
「お前の主は、やはり頑固者だな」
柔らかなそれを拾い上げ、アークは端麗なその顔を憂いに歪めた。
◇
信用が無いのは分かっていた。
自分の行動や言動が、彼を安心させないのだということも。
だから、傍にいるのは当たり前だと思っていた。一緒であれば心強いし、何よりその傍らは心地よかった。
叱られることの多い自分だが、それでも、彼のことは兄のように感じていた。
この異世界における、肉親のようなものだと。
それがいけなかった。
(アークさんは、この世界を守る大変なひと)
最高神官長と呼ばれる、このルーウィンの要なのだ。自分が独り占めして良い訳が無い。
甘えてばかりはいられない。
(出来ることは、自分で)
例えそれが、彼の望まぬこと――王女として振る舞い、他人と関わることであっても。
顔は似ているのだ、声だってそう遠くはないはず。そっくりは無理でも近づけることくらいは出来るだろう。
深月の“王女の振り”がお遊戯会のレベルであっても、誤魔化すことはきっと可能だ。
だから、どうか。
これ以上、あなたの邪魔にならないから――――。
祈るような気持ちで、深月はそっと瞼を閉じた。