第三十八話 : 深窓の令嬢
鳥の鳴き声と、頬を撫ぜる心地よい風。耳に優しい葉擦れの音。
パステルグリーンのカーテン越しに柔らかい光が差し込む明るい部屋。
(ここに来て、寝起き良くなった……かも)
ふかふかの寝台にうつ伏せた深月は、そんなことを考えながら身体を起こした。
寝ぼけ眼を軽くこすり、寝台から降りると窓際へと歩み寄る。木製の机に置かれた腕時計、実は弟と色違いであるそれは、可愛らしいピンクゴールド。
(六時……)
素晴らしく早起きだ、と深月は思った。
日本に居た頃はこうではなかった。というよりも、深月はほぼ毎朝、弟である颯希に起こしてもらっていた。
寝付きは人一倍い良い深月だが、その半面寝起きはとても悪かった。
目覚ましなんて掛けるだけ無駄、うるさい分いっそ公害だというのは、隣室を与えられた颯希の言だ。
『なんで起きれもしない癖に、何十回もアラームを掛けるの』
しかも最大音量で、と颯希はいつも顔を嶮しくしていた。
それもそのはず、早起きしようと張り切っていた深月は、毎朝四時半に目覚まし時計をセットしていたのだ。それも「音量の大きさがウリ」という、迷惑この上ない代物を。
それでも深月は起きなかった。
両親は一階に寝室がある為かあまり被害を被らず、結果薄い壁一枚向こうの颯希だけが、毎朝けたたましく起こされる羽目になった。
その恨みは計り知れない。
『これは取り上げ』
起きたいなら言って、俺が殴ってでも起こすから。
そうして深月の目覚まし時計は、購入一週間にして颯希に没収された。
そんな深月が、今や誰に揺さぶられるでもなく、一人で起きることが出来ている。
「これは目覚ましい進歩ね」
文字通り、と胸を張る深月。
何となくテンションの上がった深月はうーんと伸びをし、窓を開けると鼻歌交じりにラジオ体操を始めた。
◇
「…………」
何をしているんだ、あの娘は。
早朝の神殿を散歩がてら見回っていたアークは、何とも言えない光景にズル、と肩を落とした。
開け放たれた寝室の窓、風に舞い上がったカーテンの向こうで、何やら奇妙な動きをする深月。
腕を真横に上げたり、ぐるぐる回したり斜め上に伸ばしてみたり。
本当に意味が分からない。
「……何かの舞か?」
大真面目に呟くアーク、しかしそれを否定する者はいない。
「よくわからんが……」
とてつもなく下手だな。
そんな風に考えたのは、きっと深月がやたらとキレの良い体操をしていたからだろう。しかも調子に乗った深月は、ラジオ体操にオリジナルの動きを加えていた。
両腕を上げて左右に揺れたり、ヒーローポーズを交えたり。
「………………」
止めるべきか。
謎の踊りを披露する深月、それをうっかり目撃などされたら、可哀想で堪らない。
主に目撃した者が、だ。
仮にも王女としてその私室を使用している深月、そのそっくりな容姿も相まって見た者は間違いなく、彼女を王女だと思うだろう。例え晒された髪の色が違っても、それは「遠かったから」という理由で別人だとは認識されない可能性が高い。
しかし行動はそうはいかない。
目の錯覚だと言うには、彼女の動きはおかしすぎるのだ。
「やはり止めるか……」
はー、と深く息を吐いたアークだったが、窓に寄ろうとしたその瞬間、思い直して踵を返した。
ここは神殿の敷地内、ましてや巫女である王女の私室付近だ。滅多な者は立ち入る事すら出来ない。
だったら。
「アレを取りに行く時間くらいはあるだろう」
誰にともなく呟き、歩き出すアーク。
しかしその本心は単純に、「今近づくのは面倒が過ぎる」という、何とも私的なものだった。
◇
「っしゃあ!」
独創性あふれるラジオ体操を終え、深月はすこぶるご機嫌だった。
「せっかく早起きしたんだし、もっと何かしたいなぁ」
うーんと首を倒した深月は、部屋の中をぐるりと見まわす。
机と備え付けの椅子、小さな本棚、広い寝台に長方形の姿見。
「見事に何もないなー」
深月の首の傾斜はますます鋭くなっていく。
「うーんん」
そのままどんどん傾く頭が終いには肩に付きそうになったその時、居室に繋がる扉がコンコンとノックされた。深月は「およっ?」っと首を戻し、振り返ってドアノブをひねる。
「おはようございます、ミヅキ様」
「おはようございます」
すっかり顔馴染みとなった侍女、ユハとセレーンが揃いの衣装に身を包み、深月に向かって丁寧に頭を下げた。
「おはよう、二人とも。今日は随分早いね?」
言いながら、深月は二人を寝室に招き入れる。「失礼します」とまた軽くお辞儀をしたユハが、少しばかり小さい身長でもって深月を見上げた。
「先程アーク様がいらして、ミヅキ様はもう起きておられるので呼んで欲しいと」
「アークさんが? 何だろう?」
心当たりがさっぱりない深月は再び首をもたげた。
(もしや)
昨日の喧嘩の続きだろうか?
深月は眉根を寄せてむーんと唸った。
実は昨日、深月はアークとケンカ別れをした。
祭殿に祀られた闇の呪物――今はシシィと名づけられたぬいぐるみの一件で、深月は見事にチカラを目覚めさせた。
呪いに対抗する光の武器を作り出し、“核”とも言える怨念を見抜いて闇を討ち払った。
このチカラがあれば、たくさんの人達を救えるかもしれない。
闇に脅えているという、このルーウィンも救えるかもしれない。
深月の心は浮き立った。
今すぐには無理でも、修練を積めばいつかは。そう遠くない未来に。
(だって、リゼは言っていたもの)
深月たちは、この世界の“救世主”なのだと。言われた時は「まさか」と落胆したものだが、今なら「もしかしたら」と期待することが出来る。
出来るくらいになりたいと思う。
武器の生成には成功したのだ、後は修行すれば、あるいは……。
先走った期待にうふうふと笑いだす深月、その緩みまくった笑顔はしかし、美麗な神官によって即刻崩された。
「そのだらしない顔を止めんか、アホ娘」
「んなっ?!」
すっかり定番となったアホ娘に加え、暴言まで吐かれた深月は目を剥いた。が、アークは綺麗にスル―して話を続けた。
「言っておくが。その力、外では使うなよ」
「えっ。……何でですか?」
「何で、ではない。もしやとは思うがお前、入れ替わった後に闇を相手にしようとか思っていないか?」
「……え”っ」
図星だった。
ここは神興国の神殿、そうそう“呪い”などあるものではない。何よりここには、口うるさいアークが居る。
だから深月は夕方、友弥と入れ替わった後にチカラを使おうと目論んだのだ。
“修行”という名目があれば、アークも大っぴらに文句は言えないだろうと。
そう踏んでいた。
しかし。
「えっと、それはその、鍛練の一環で……」
「却下だ」
にべもなく一蹴。相変わらずキレの良い否定に深月は眉尻を下げ、口を三角に曲げて抗議した。
「ひどいっ、アークさん横暴ですっ」
「酷い、ではない。あんな物騒なものを街中で使ってどうする。騒ぎのもとだ」
「街中でなんか使いませんよ、人気のない所に行きます」
「尚更却下だ」
「どうして」
「自ら危険に寄って行ってどうする」
王女も一緒に居るのだぞ、とアークは厳しい口調で言う。
「そんな、リゼを巻き込んだりしませんよ。一人でやります」
もともとそのつもりですしね、と両こぶしを握って笑う深月。その膝にちょこんと座った真っ白なキツネが、主に追従するかのように勢いよく頷いた。
光と希望に満ち溢れ、瞳をキラキラと輝かせる一人と一匹。良く言えば純粋、逆に言えば単細胞な主従に、アークは。
「却下だ」
「そんなあ!?」
一切の揺らぎも躊躇いも見せることなく、その意見を棄却したのだった。
そんなことがあってからの、昨夜開口一番の「アークさんのわからず屋」発言だ。
取り合ってもらえないわシシィは取り上げられるわ、本当に散々な別れだった。
とはいえ、アークがこんなに朝早く、説教の為だけに訪れることは考えにくい。
深月だけを呼び出すなら話は別だが、寝起き一番ともなればそうはいかない。
寝巻でアークに会う訳にもいかず、結局は身支度の為にセレーンとユハを呼ぶことになる。実際アークは直接ではなく、二人を伝って深月に声を掛けているのだ。
それにいくら最高神官長でも、王女と二人きりというのはあまりよろしくないのかもしれない。
そう思うと、王族というのも大概面倒なものである。
「従兄なのにね?」
「はい?」
何がです、と大きな目をぱちりと瞬くユハ。可愛らしく小首を傾げる様はまさに小動物そのものだ。 あまりの愛らしさに「もえーっ」と叫びたくなる深月だが、今はその衝動をひとまず抑え「何でもない」と手を振る。
理由はアークに直接確かめるとして、とりあえずは着替えだ。
思い直して先導するユハの背を追い、支度室に入ろうとした深月はその手前で足を止めた。
「セレーン?」
ユハと一緒に身支度を手伝いに来たセレーン、彼女はいつも、最後に支度室に入室する。挨拶の後、一端衣装室に下がるからだ。
ユハが深月の頭をセットする間に、ツインテールを揺らしながらきびきびと衣装を揃えてくるセレーンは、しかし今は様子が違った。単衣や貫頭衣は腕に抱えているものの、戸口で立ち止まったまま額に汗を浮かべている。
セレーンは感情をほとんど表に出さない為表情に乏しいが、今は明らかに辛そうだ。僅かだが眉間を寄せているし、よくよく見れば歩き方もぎこちない。
「どうしたの、セレーン? どこか具合でも悪いの?」
深月の問いかけにセレーンはハッと顔を上げ、平静を装って左右に首を振る。
「何でもありません」
言って、セレーンは再び歩き出した。が、やはりその動きは固い。からくり人形のようだ。
「どう見てもしんどそうだよ」
「そんなことありません」
「あるでしょう」
「気のせいです」
あくまでも大丈夫だと言い張るセレーンは、しかし寝台の傍まで来ると今度は衣装を抱いたまま蹲った。
「セレーンっ」
叫び、駆け寄ったのは深月ではない。先に衣装室に入ったはずのユハだ。
ユハはセレーンの隣で膝を付き、その頬を両手でそっと挟むと顔を覗きこんだ。
「やっぱり辛いんでしょう、セレーン。だから今日は、お休みを頂きなさいって言ったのに」
めっ、とセレーンを叱りつけるユハ。その姿は少しだけお姉さんぽく、いつもの二人とは立場が逆転しているように見える。
「平気、何ともない」
「嘘ばっかり。昨日からずっとじゃない」
「昨日から?」
ユハの台詞に、二人の傍に寄った深月は「そうなの?」とセレーンの顔色を窺う。
セレーンは相変わらずしらを切ろうとしているが、残念ながら今はユハが居る。ユハは頑なな幼馴染みを代弁するように、深月に昨夜のセレーンの様子を伝える。
「部屋に戻ってからずっと、こんな調子なんです。顔色は悪いし、ふらふらしているし。それに時々、お腹を押さえて蹲るんです」
こんな風に、とユハがセレーンを指し示す。
「お腹? セレーン、お腹痛いの?」
二人に倣って座った深月の、合わさった視線の先でセレーンは頬を僅かに染めた。
そこで深月はぴんときた。これはもしや、と。
「セレーン、もしかして生理中?」
「せ、いり……?」
それは何? とばかりに目を丸くするセレーンに、やや間を置いて深月は「ああ」と納得する。
「何て言ったらいいのかな……。女の子の日と言うかナンというか……」
「月のもののことでしょうか?」
うんうん唸り出しそうな深月を救ったのは、当事者であるセレーンではなく、その傍らに座るユハだった。
「そう、それ! 月のもの、でいいのね」
「月の穢れとも言いますが……。そっか、セレーン、そうだったのね」
優しく微笑むユハに、セレーンはとうとう俯いてしまった。
その様子に深月はまたしても気づいた。セレーンは、きっと。
「ユハ」
「はい、ミヅキ様」
「今日は私一人で着替えるから、セレーンを部屋に送ってあげて」
「ミヅキ様、私は」
「いいから。今日はゆっくり、体を休めなさい」
これは命令よ、と胸を張る深月。そんな主にセレーンは再び顔をうつ向け、ユハはその体を支えて立たせるとぺこりと頭を下げた。
「セレーンを送ったら、また戻って参ります」
では、ともう一度頭を下げ、セレーンを支えて ユハは寝室を後にした。
「お赤飯、炊かなくちゃ」
この世界には小豆はあるかしら。
一人寝室に残された深月は頬を緩め、誰にともなくそう呟いた。