第三十七話 : 煌く夜の静寂(しじま)には
細い月の輝く夜空を、木々の隙間から見上げる。
鬱蒼とした樹木たちが風を受け、ざわざわと騒ぎたてる。
辺りは黒に塗りつぶされ、せっかくの月明かりもここには届かない。
「彼らは唄を聞いたかな」
問いかけるようなその言葉はしかし誰にも届くことなく、木々の声に掻き消される。
光のない場所、暗い森の中で天を仰ぐのは一人の青年。
鈍色の髪が使い古した外套の肩に落ち、色素の薄い瞳はここではない何処かを見つめる。
「届くといい。想いが――――声が、二人に」
呟き、青年は苦悶の表情を浮かべた。
青年は絶望していた。
運命を変えようと力を尽くした、そんな尽力を嘲笑うかのように、世界は彼を裏切り続けた。
大切な人はいつだって奪われた。
守っても取り返しても、最後には彼の手をすり抜けた。
失う痛み、繰り返される哀しみ。
でもそれは、あるいは当然だったのかもしれない。
何故なら守りたいその人は、このルーウィンの“巫女”であったから。闇を世界に出さない為の、謂わば生贄だったから。
自分一人で守れると思ったこと自体が、そもそも間違いだったのだ。
「………………」
愛しい名を呟く、青年の声はやはり誰にも届かない。
わかっている、もう手遅れだと。
彼女はきっと助からない。
「それでも、せめて」
守りたい。彼女が命を捧げた、この世界を。
誰もが幸せで、誰もが脅えている、哀しいこの大地を。
崩壊は始まっている、今でもその足音が聞こえるかのようで、それを彼女が悲しんでいるようで。
「――――ッ」
唇を噛み締める。乾ききったそれに血が滲んでも、今更気にはならなかった。
比べ物にならないほどの苦痛を、青年は知っている。そしてそれ故に、彼は選ぶのだ。
己の最善を。
例え世界が敵であっても。
何一つ願いを聞き入れない、そんな残酷なものであっても。
「救って――――みせるから」
だから、ねえ。
「笑って――――」
月に向かって手を伸ばす。彼女と同じ色彩を持つ、淡い淡い、儚い光。
悲しみに満ちた青年、その姿は次第に黒い森に馴染み。
やがては闇に溶け込んだ。
◇
彼は笑っていた。
可笑しくて堪らない、そんな表情で。
彼にとってこの世は、初めから疎ましいものだった。
生まれてすぐに、彼は捨てられた。
捨てたのは母親、しかし母と呼べるほど、彼は女を知らなかった。
それも当然、彼は生れて間もなく、その存在を消されたのだから。
恨みを持つ暇さえなかった。
そんな彼が最初に感じたのは疑問だった。
何故自分は、この世に生まれたのだろう。
消されるのならば必要なかった、そういうことではないのだろうか。
それなのに、どうして。
答えはすぐに見つかった。
彼が生まれた理由はひとつ、両親が身勝手だったから。
そして彼が消された理由もまた、両親の勝手からだった。
否、両親というよりは母親だ。父親は彼の存在すら知らない。
彼は、母親にとって望まない子供だったのだ。
では父親にとってはどうだったのか、これについては最早知る手立てはなく、また彼自身も興味がなかった。
あるのはただ、彼を消した母親への疑問。
何故自分を作ったのか。
何故自分を消したのか。
何故――――自分を消してまで、この世界に縋ろうとしたのか。
「ほんっとーに、わからない」
一人ごちる、その口元には薄い笑み。
彼は笑っていた。
それもそのはず、彼は愉しくて仕方がないのだ。
母親に消された子供である彼は、それでもこの世界に生きている。
生きている、ならば母親である女に復讐を――――なんて考えは彼にはない。
そんなことには欠片も食指が動かなかったのだ。
彼の選択、それは。
「さあて、アイツはこの先、どう踊ってくれるかなぁ」
愉悦の滲む唇、母親譲りの甘い顔立ちに狂気を潜ませ、彼は掌中の駒を弄ぶ。
「アレは今は、使ってもムダ。あの子は靡かない。じゃああっちは? だめだね、アレと同じか、もしくはもっと悪い。ヤツは頑張ってるみたいだけど、それもどう転ぶことやら。まあ足掻いてくれたほうが、こっちとしては面白いけど。でもそろそろ、ソッチが限界そうだよ。くくっ……あはははっ」
堪らず、彼は笑いだした。
「ああ、可笑しい」
可笑しくて可笑しくて堪らない。
「ああ、聞こえる」
世界が壊れる、その足音が。
「何ていい響き」
耳朶を打つ音色、その旋律は極上で、彼は恍惚と瞼を閉じる。
もうすぐだ。
もうすぐ、彼の望む景色が見られる。
「その為なら、僕は手間を惜しまないよ」
うっとりと、彼は呟く。
きっと、もうすぐ。
彼の求める惨劇が、このルーウィンを覆うのだ。