第三十一話 : Secret Glorious
最初に感じたのは、何とも言えない気持ちの悪さだった。
無遠慮な手が躰の中を掻き回すような感覚に、吐き気が込み上げる。
「ミヅキ――――ミヅキっ」
焦ったように、彼が名を呼ぶ。
否、実際に焦っているのだろう。いつもは冷静なその声は、今は叫びに変わっている。
(アーク、さん……)
心配してくれている。
痛いほど伝わる声に「大丈夫」と答えたいが、今の深月にはそれが出来ない。
ガクガクと躰が震える。
まるで病原体を焼く発熱時のように、寒気が止まらない。
薄く開いた唇からは、意味をなさない言葉ばかりが零れる。
「ひ……ぃあ……」
「しっかりしろ――ミヅキッ」
また、アークが叫ぶ。
(でも)
もう、アークが何を言っているのかすら深月には分からない。理解できない。
激しい耳鳴りが、全ての音を奪う。
侵食する闇に、視界が塞がる。
(ああ、どうして……)
こんなに情けないのだろうか。
(光になるって言ったのに)
心配性な神官は、それでも信じてくれたのに。
(私は、強くなりたいのに)
リゼが、みんなが哀しまないように。
なのに。
(こんな……)
『――――こんなのはいやだよっ』
「――――――」
聞こえたのは、自分の声ではない。
「誰?」
問いかけるが答えはない。
それなのに、尚も声は続いている。
『なんで、こんなことになっちゃったの? どうしてぼくは。ああ、ちがう、ちがうのに……』
それは幼い子供の、すすり泣くような訴えだった。
「あなたはだれ?」
問い返す。
闇に染まった視界には何も映らない、何も見えはしない。
それでも深月は、必死に呼びかける。
「どこにいるの? どうして泣いているの?ねぇ」
暗い世界の中で懸命に手を伸ばす。
――――その指に、何かが触れた。
真綿のように柔らかく、氷のように冷たい“何か”。
「――――――ッ」
瞬間、深月の中に熱いものが流れ込む。
『どうしてぼくががまんするの?』
『あなたはお兄ちゃんでしょう?』
『これはぼくのだもん。じぶんのやつであそべばいいんだ』
『聞き分けて、譲ってあげてちょうだい』
――いやだ、どうしてそんなことしなくちゃいけないの?
『あなたはお兄ちゃんなんだから』
『しらないっ! だったらぼくは、おとうとなんていらないっ』
――そうだ、あのこがいなくなれば。
『おとうとなんて、きえちゃえーーッ』
『きゃああぁぁっ! ――あなた、あなた、ジュナイゼがっ』
『なんてことだっ。シーリン、お前――』
『っちがうよ、ぼくがやったんじゃない、ジュゼがじぶんで』
『嘘を吐くな』
『そんな訳がないでしょう、ジュナイゼは、一人じゃ立てもしないのよ!』
『ちがう、うそじゃないよ』
『やめろ、聞きたくない』
『あっちへ行ってちょうだい』
……ああ、そっか。
『いらないのは、ぼくなんだ』
「こ、れは……」
深月の脳内に描き出される映像。
三つ揃いを着た壮年の男と、その腕の中でぐったりと目を閉じる赤ん坊。
それに寄りそうドレス姿の女と――睨みつけられる小さな男の子。
こちらに背を向ける子供の手には、動物を模したぬいぐるみが抱かれていて。
(ああ、そうか、この子……)
先程見た、あの人形の持ち主。
それを理解すると同時に、深月の胸がずきりと痛んだ。
この子供は、きっと、もう。
『そう、あの子はもう、この世に居ない』
今までとは違う柔らかい声が、深月に教える。
『あの子は家を飛び出して行方不明になった。そして』
映像が切り替わる。
雨に濡れて黒くなる樹木、崩れた土砂、泥にまみれた小さな躯に――――その手を離れ、転がった人形。
持ち主と同じく汚れたそれが、つぶらな瞳が見つめていた。
動かなくなった、自分の主を。
『憎い』
あの両親が。
『憎い』
独り占めする弟が。
『憎い』
骸を隠す、この森が。
『憎い』
孤独に満ちた、この世界が。
――だから、壊す。
「――――――だめっ!」
噴き出す瘴気、群がる闇の鼓動に咄嗟に手を伸ばした深月は、ソレを胸元に抱え込む。
ふわふわと柔らかいはずなのに、拒絶する心に反応して石のように硬い。
何よりも、凍りつきそうなほどの冷たさが、触れている深月の肌を痛めつける。
『いけないわ、放して』
命じる声、しかし深月はぶんぶんと首を振る。
「そんなことしたら壊れちゃう」
『大丈夫、光はまだ』
「違う」
宥めようとする声を遮って、深月は腕に力を込める。
「この子が、壊れちゃう」
訴えた瞬間、込み上げる熱に視界が滲み。
ぴちゃん、と澄んだ水音が響いた――――。
◇
目の前の光景に、アークはぎり、と歯噛みする。
何を思ったのか、いきなり呪詛本体に走り出した深月にアークは反応できなかった。
留めるのが一瞬遅れた――その愚鈍さを嘲笑うかのように、闇はその細い躰を貫いた。
貫頭衣の胸に滲み出す暗い色、このままでは、今度は深月が取り込まれる。
「ミヅキ――――ミヅキっ」
名を強く呼ぶが少女は反応を見せず、苦しそうに喘ぎ始めた。
震えだす躰、悲痛に漏れる声。
自らの躰を掻き抱いた少女の、その眸の焦点が合わなくなる。
「しっかりしろ――ミヅキっ」
アークの声が聞こえていないのか、やはり視線は結ばれない。
きっと目も見えていないのだろう。
(これは……)
恐らく、拒絶反応。
少女に宿る光の神力が、闇の侵略に抗っているのだ。
そしてこうなっては、アークは手出しができない。
もしこれが、チカラを持たない民間人であるならば、話は別だ。
取り憑かれたのが命あるものならば、その身を傷付けないようにすればいいだけのこと。難しいことではない。
先程の様に引き摺り出すのは、手遅れの場合のみだ。
しかしこれが深月のように、内に持つ神気が独自に闘った場合。
仮にアークが神力を注いだとて、それすら敵と見なされて攻撃される可能性があるのだ。
そうなっては、本人の生命力を余計に消耗するだけ。
(彼女の神力を、信じるしかない)
手の中にある強力な呪具も、今は全く意味をなさない。
ただ見ていることしか出来ない、非情な現実にアークが瞼を伏せかけたその時。
「――――だめっ!」
それまで蹲るように躰を縮こまらせていた深月が、悲鳴を上げた。かと思うと、また唐突に走り出す。
向かう先は自らと繋がる赤黒い塊――呪いの核だ。
「待て、ミヅキッ」
止まれ、追いかけてその肩を掴もうとしたアークの手を、単衣の袖が払った。
あっという間に祭殿の中央に躍り出た深月が、肩で息をしながらも顔を上げる。
そしてあろうことか、醜悪なその本体に両腕を伸ばした。
勾玉に渦巻く真っ暗な穴から、ずるりと何かが這い出る。
軟泥状の黒い塊はちょうど幼児くらいの大きさで。
「――――――」
アークの目の前で、少女の腕に落下した。
ぐちゅり、と肌が泡立つような音を立てる物体を、深月が抱き締める。
まるで本当の子供であるかのように、きつく胸に押しつける。
その唇が僅かに動いて――――零れたのは、言葉ではなく透明な雫だった。
ぴちゃん、と。
滑り落ちた涙が真っ白な床に波紋を作る。
刹那、少女の足元が水面に変わり眩い光を放った。
描き出される神紋、床を埋め尽くす勢いで翠の閃光が地を走る。
立ち上る神気が、高い位置で括られた長い黒髪を躍らせた。
「こ、れは……」
完成したのは桁外れに大きな方陣、輝きは優しい花緑青色。
深月はそっと瞼を持ち上げ、赤黒い塊に再び対峙する。
◇
――かなしい
腕の中で脅える弱々しい声に、深月はうん、と頷く。
(わかる。聞こえてるよ)
今の深月には、《彼》の気持ちが痛いほどに分かる。
触れている部分から、ダイレクトに感情が流れ込んでくるのだ。
――いたい
――つらい
そうだね、辛かったねと背中を叩いてあやしてやる。
――もういやだ
嗚咽交じりに嘆く声、深月は“彼”に頬を寄せて。
「もう、終わりにしよう」
優しいく語りかけ、その頭頂にキスを落とす。
「私が、助けてあげる」
それが出来るチカラ――恐らく神力と呼ばれるものを、今ははっきりと感じることができる。そしてその使い方も。
やり方は、さっきアークが教えてくれた。
リラムでも最高峰の術者であろう神官が、実践してくれた。
だから、真似をすればいい。
アークのように、強大な闇に立ち向かう武器を。
得物がないなら創ってみせる。
“彼”を左に抱え直し、もう片方の手に意識を集中する。
生成すると言っても、剣ではいけない。それでは届かない。
かといって弓矢は、片手では扱えない。
(何か。何でもいい、あいつを倒せる武器を……)
右手にチカラが集まる、熱くなっていくそこに、深月の望む物を作りたい。
(大丈夫、出来る。絶対に)
「もう、情けなくなんか、ならない――ッ」
輝く漆黒の眸、深月は右腕を振り上げて。
――――躊躇わず、一気に引金を引いた。