第二十三話 :だれかの記憶
「戻ったかアホ娘」
神殿に戻った深月を迎えたのは、そんな一言だった。
美々しい神官の変わらない暴言は、しかし何故か深月を安心させる。
「……どうした?」
いつもならすぐに言い返す深月が何も言わないことを不審に思ったのか、アークが顔を覗き込む。
が、深月はひょいとかわしてその背に回った。
情けない顔をしている自分は、誰にも見せたくはない。
「見ないでください。アークさんのえっち」
「……何だそれは」
呆れたように言うアークは、それでも何かを察しているのだろう。
振り向かないまま、深月の肩を後ろ手に叩く。
「何かあったか?」
無理に問い詰めるものとは違う、優しい問いかけ。
深月はふるると首を振る。
「何にも。何にもないです」
「本当か?」
「ほんとうです」
頷くと、アークはゆっくりと振り返った。
その表情は穏やかで、心配してくれていたのだと痛いほどに分かる。
「ならいい。食事は口に合ったか?」
「はい。とっても美味しかったです」
「それは何よりだ」
その声はどこまでも優しく、耳に心地芳い。
深月はくすぐったいような気持ちになって、照れ照れとアークを見上げた。
「朝からご馳走で、緊張してたのに全部食べちゃいました」
「明日からは部屋に運ばせるから、のんびり味わうといい」
気遣いに溢れた一言――――深月は笑顔のままびしっと固まった。
その様子に、アークの表情も凍りつく。
「……約束を、果たして来たのだろう?」
「……約束を、果たして来ましたよ?」
彼の言う“約束”は一体どれを指しているのだろう。
皇太子との朝食か、それとも正体を晒すなと言ったところか。
(どっちも微妙だ)
否、微妙どころではない。
一つは明らかに反故している。
「何故目を逸らす」
「これは心の目を開いて……――ひょえっ」
瞬間、アークから信じられないくらい冷たい空気が発せられた。
「珍しく意気消沈しているから問い詰めなかったものを……」
「あああ、アークさん」
「その判断は間違っていたようだな?」
(――――出た! アークさんの“氷の微笑”!)
「さぁ、アホ娘……」
「!」
「――――話してもらおうか?」
高みから見下ろすその貌は神々しいまでに美しく。
阿修羅の如く、壮絶なまでに恐ろしかった。
◇
「約束を“毎朝”にしてくるとは……」
先を歩くアークは控えることなく、盛大に溜息をつく。
「お前は何を考えているんだ?」
ちなみにこのセリフはもう片手では足りないくらい吐かれている。
「だから謝ってるじゃないですか」
深月はぶすっと言い返す。
(何よ何よ)
「謝ればいいと言う問題ではない。反省して、次に生かしてこそ人間だ」
「……だって」
(何も、出来なかった……)
先程の皇太子は、はっきり言って怖かった。
人を人とも思わない、気に食わなければ消せばいいと本気で思っている。
その感情がありありと浮かんでいた。
(私の言葉で、誰かが死ぬ)
それが何よりも怖かった。
平和な環境に生きてきた深月にとって、誰かが“殺される”というのは現実的ではない。
死は身近にあるもので、どう足掻いても、最後はみんな土に還る。
わかってはいるが、それは決して、誰かの意思でやっていいことではないのだ。
命はそんなに軽くはない。
「聞いているのか?」
「聞いてます。さっきからもう何十回と」
「なら早く入れ」
「――へ?」
「だから、着いたと言っている」
そう言って、アークは複雑な文様の刻まれた扉を押した。
どうやら深月が考え込んでいる間に、目的地に着いたらしい。
「ここが私の部屋だ」
通された部屋は深月たちのそれとは違う、奥まで突き抜けた造りをしていた。
突きあたりは一面大きなガラス窓になっていて、外から差し込む陽光で隅々まで明るい。
「ほあぁぁぁ」
「間抜けな顔をしていないで、さっさと座れ」
あんぐりと口を開けて見回した深月に、アークはまたしても息をついた。
なんとこれから「お勉強タイム」らしい。
何も知らない深月に、今居るリラムや、この世界の理を教えてくれるという。
「アークさんの部屋でですか? 図書館とかではなく?」
「重要な文献は私が保管している。持ち出すことは許可していない」
そう言ったアークの言葉通り、彼の部屋は本に埋め尽くされていた。
右側の壁一面、天井までが本棚になっており、様々な本が収容されている。
文庫本サイズの本、ノート、辞書のような分厚いものに、繊細な装飾が成されたもの。
その横にはボックスがあり、紐閉じされた紙類や巻物が収められていて、本好きの深月には堪らない。
「すっごい数ですね! これ全部“重要な文献”とやらですか?」
「いや、それはもっと奥に……ってこら」
深月はすかさず手を伸ばすと、綺麗な背表紙の本を抜き出す。
その本は青地に銀の縁取りがあり、豪奢とも言えるものだ。
深月はワクワクと表紙をめくった。
「……読めない」
恐らく文字であろうそれらが、深月には記号にしか見えなかった。
「やはりな」
「え~っ? 何でですか? 言葉はちゃんと通じるのにっ」
「それも異世界から来た者達に共通するものだ」
言いながら、アークは深月から本を取り上げると元の位置に戻してしまった。
ぶーぶーと不満の声を上げる深月の、その額を長い指がピンと弾く。
「った!」
「それも含めて説明するから、まずは落ち着いて椅子に座れ」
アークは深月を椅子に座らせ、自身も何冊かの本を手に向かいに腰掛けた。
「では始める。内容はこの世界の現状と、ルーウィンにおける王女の役割。そして異世界。この三つを重点に説明するから、分からないことがあればその都度訊くように」
「はーい」
手を上げて返事をした深月に、アークは軽く頷いて話し始めた。
「我々の生きるこのルーウィンは、全能神により造られた世界のうちの一つだと言われている」
「全能神……。神様ですね?」
「そうだ。この全能神により地上に生命が誕生し、守りが与えられた。守りとは光と闇。この二つによって、我らは朝と夜を手に入れた」
「朝と夜が、守り?」
「平穏と安息。糧を得る為の光と、生命を休める為の闇。どちらも、欠けてはならないものなのだ」
「え? でも昨日……」
『“黒”は最も忌み嫌われる色だ』
『闇を示す色だからだ。この世界は平穏だが、それは光が闇を抑えていて初めて成り立つもの。』
アークはそう言っていた。
(私にはよくわからないけど、でも言い方からしてそれは……)
「闇って、良くないものなんじゃないですか?」
「確かに、お前にはそう説明したな。しかしそれが全てではない」
「どういうことですか?」
ん? と首を傾げた深月に、アークは本の一冊を広げて見せる。
それは一組の男女が描かれた絵本だった。
黄金の髪と眸を持つ乙女と、漆黒の髪と眸の男。
乙女は昼の空を背にした高い塔におり、男は夜の地上から乙女を見上げている。
まるで、かの有名な絵画、マグリットの「光の帝国」のようだ。
「これは?」
「創生期の神話だ。光の神女と闇の神男、全能神より守りを託された神たち。そして」
アークはゆるりと瞬く。
「“過ち”の始まり」
ぱらり、とアークは絵本を捲った。
「二神は全能神により地上に遣わされた。光の神女は高い塔へ、闇の神男は地上へ。それぞれの神は交わることなく、昼と夜を交互に守った」
そうして未来永劫、この世界・地上の生命は続いていく。
それが全能神の意思であり、かの神たちに課せられた使命だった。
「光と闇は交わらない。平行線を保つことは平穏を保つことと同義。不可侵は絶対の条件だった。しかし」
「闇の神男が、それを破った?」
深月の答えに軽くアークは軽く瞠目し、それから満足気に首肯した。
「理解が早いのは良いことだ」
「褒められた! アークさんがデレました!」
万歳、と両手を上げた深月は、しかしアークの目が冷たいものに代わる前に話を戻すことにする。
「で、闇の神男は、具体的には何を?」
「光の神女を塔より引きずり降ろし、犯した」
「え」
あまりの内容に深月は言葉を失った。
アークが捲ったページには、男に手を取られ地上に身を投げる乙女。
その表情は哀しみに満ちている。
「光の神女と闇の神男が交わり、世界は均衡を崩した。不安定な光に大地は枯渇し、生命は安寧を失い、地上には恐怖が生まれた」
「……そ、それでどうなったんですか?」
「全能神は憤り二神を地上に堕とした。天へは帰れぬように」
「そんな! どうして?!」
闇はともかく光の神女に非はない。
「とばっちりじゃないですか!」
「お前の言いたいことは分かる。が、生命を守れない者に神を名乗る資格はない。それが、全能神の意思なのだ」
抑揚のない淡々とした話し方が、まさしく全能神そのもののように感じて深月は項垂れた。
「そんなの、光の神女が可哀想過ぎる……」
「しかしこれは終わりではない。二神の魂は消滅するのではなく、器を変えて繰り返す。繰り返すように、全能神が造り変えた」
「器を……変えて?」
「そう。そしてそれが、第二の“みこ”――――――悲劇の始まりだ」
アークはパタンと絵本を閉じ、腰を上げると窓際へと移動した。
「話は今から千五百年ほど前。リラムはまだ国ではなく、光を守る一族たちの総称だった。南西に集落を持ち、そこで女児を生み、巫女として育て、その巫女が塔に上がって全能神に祈りを捧げて光を戴く。それを、数え切れないほど繰り返してきた一族だった」
「つまり、そのリラムの“巫女”が光の神女の生まれ変わりだと」
「そうだ」
「じゃあ闇の神男は?」
深月の疑問に、アークは視線を窓の外へと逸らした。
「闇の神男は、レスティア帝国。当時からその勢力を誇っていた彼の国の、皇子だ」
「……えっ」
深月は思わず声を上げた。
「じゃあ、皇太子さま、が、闇の?」
「いいや、違う。確かにレスティアの皇子は、同時に皇子の位も継いでいたが、それも遠い過去――――随分昔の話だ」
「どういうことですか?」
「闇の皇子は、またしても“過ち”を繰り返した」
『過ちを、繰り返そう』
「―――――」
アークの声に誰かの声が重なり、深月は息を呑む。
「当時のレスティアの皇子は対である光の巫女に興味を持ち、単身で国を出てリラムを訪なった。そうして、光と闇は再び出会った」
『初めまして。君が“ひかり”だね』
また、声がする。
その声は遥か遠くから。
耳ではなく、深月の脳に直接響くかのように聞こえる。
(誰……?)
「闇であるレスティアの皇子は、光である巫女に強く惹かれた。幾度も幾度も、巫女の元へ通った」
『会いたかった』
再び響くそれに、深月は頭が痺れるような感覚に陥る。
『俺の“片割れ”』
愛おしげに呼ばれた、その瞬間。声に応えるかのように、深月の中に別の意識が流れ込んできた。
(……そう。そうして、何度も言葉を交わしたのだわ……)
緑深い森、囀る鳥たち、晴れ渡る空。
それに反するかのように黒いあの人。
幾度も幾度も、彼は会いに来る。
自分に、会いに、来る。
「闇の皇子は度々、塔から巫女を連れ出した」
(そう、あの人は、私を連れ出してくれた)
『こんなところに籠っていては、身体に良くない』
そう言って、外に出してくれた。
光溢れる世界へと。
焦がれてやまない地上へと。
「そして皇子は」
(そして私は)
「想いに狂った」
世界など知ったことかと、全てを捨てても構わないと、彼は言った。
「その……後は」
唇がわななく。
声が震えて、視界が滲む。
これは誰の感情なのか、深月は悲しくて、苦しくて堪らない。
「彼の皇子は巫女を奪い集落から姿を消した。世界は再び平穏を失うかと思われたが、その前に審判が下った」
(そう。だってあの時)
「光の巫女は戻ってきた。自力で、塔のある集落へと。そして」
(私は)
「自ら命を絶った」