第十八話 : 明けの晴天に咆えろ
それは遠い記憶。
白い壁、白いベッド、白いシーツ。
真っ白な世界に染められたかのように、白くて儚い、小さな子供。
癖のない黒髪に包まれた小さな頭は窓の外に向けられていて、こちらに気づく様子もない。
青く茂る常緑樹、陽のあたる三人掛けのベンチ、はじける噴水の水飛沫、はしゃぐ声。
彩られた外の世界。
閉じ込められた子供は、飽きずにそれを眺めている。
「いいなぁ」
呟きは諦めにも似た感情を含んでいて、子供の孤独が如実に伝わってきた。
どんなに焦がれても、その中に自分は混ざれない。
手の届かない眩い世界は、子供の目にどれほど鮮やかに映っただろう。
どれほど残酷に映っただろう。
それは幼い自分から見ても、とても心が痛む光景だった。
だから深月は本を読み始めた。
本当は、家にいるよりも外で走り回る方が好きだった。
絵本で見る挿し絵よりも、直に見る景色の方が何倍も綺麗だと知っていたから。
でもそれは、共有することが出来ない。
それでは意味がないのだ。
色を届けてあげたい。
小さくて白くて、細くて儚い。
そんな子供にとりどりの色彩を、幸せをあげたい。
「だいじょうぶだよ」
寂しそうなその背中に、深月は語りかける。
「ここにいるよ。いつもそばにいるから」
だから、一緒に絵本を見よう。
紙芝居をしよう。
人形劇をしよう。
狭い病室は小さな劇場に早変わり、そこでは毎日、二人だけの上映会が始まる。
「だいじょうぶ」
繰り返す深月に、子供が小さな頭を傾けた。
振り返ったその顔は白く、でも頬には少しだけ赤みがさして。
「おねえちゃん」
涙に濡れた唇で呼ぶ、小さな弟。
「だいじょうぶ、だいじょうぶだから……」
ベッドの傍らに寄って、背中に手をまわして。
まだ短くて抱き締めることは出来ない腕で、懸命にお互いのシャツを握った。
「わたしたちは“ふたご”だから」
「いつまでも、いっしょ……」
ゆっくりと、深月は瞼を持ち上げた。
ぼんやりとはっきりしない視界は、目に優しいクリーム色の天井を映している。
「……病室、じゃ、ない……」
こて、と深月は右に転がる。
天井と同じ、クリーム色の壁。
「…………。」
反対側に転がる。
木目調の、小さな机が目に入る。
淡いパステルグリーンのカーテン越しに、明るい光が差し込んでいる。
きらきらと輝くその向こうには、時折雀サイズの小さな鳥が姿を現す。
(スズメかぁ……)
横になったままをその影を眺める。
耳を澄ませば鳴き声もちゃんと聞こえた。
可愛らしい合唱に、深月の顔は自然と綻ぶ。
すると。
コッ、コッ
窓ガラスを、小鳥がつつき始めた。
(何だろう……)
深月は誘われるように上体を起こした。
寝ぼけ眼を擦りながら大きなガラス窓に近づく。
ちっとも起きない頭のまま、勢いよくカーテンを開き、施錠を外した。
ガラス戸をゆっくり外側に開く。わずかな隙間から、何か小さいものが入ってきた。
視線をやると、寝台の上にちょこんととまった蒼い小鳥。
「可愛い……。幸せの……」
青い鳥、と言おうとした深月の、その後ろから物音がした。
「?」
深月はゆっくりと振り返り、首を傾げて窓辺に寄る。
「もしかしてお仲間?」
この蒼い小鳥の他にも、まだ鳥がいるのかと深月は窓から顔を出した。
ぴちちちち、と小鳥が囀る。
そして。
「起きたか」
夜空を模したような切れ長の双眸、背に流れる鴉の濡れ羽色の髪。
窓の外、正確には深月のいる部屋の壁にもたれるようにして、長身の青年が立っていた。
紫紺の眸が深月を捕える。
「――――!」
深月の意識は一気に覚醒した。
「ここここ、皇太子さま!」
昨日と違い甲冑も着ていなければ髪もすっきり纏められているが、その姿は間違いなく強引な俺様皇太子その人だ。
「ど、な、なぜここに?!」
(というかここはどこ?!)
辺りを忙しなく見まわす。
知らない部屋、知らないベッド、知らない机、蒼い小鳥。
(昨日は結局どうなったんだけ? ええと、ええと……)
まだ働きの悪い頭を自らゴンゴン叩くが一向に思いだせない。
「お風呂に行って、それで、えっと……――――わっ!」
拳に頭をのせたままうんうん唸った深月の、その右手を急に引かれた。
バランスを崩した身体がぐらりと外に傾ぐ。
(――――落ちるっ)
咄嗟に空いている左手で頭部を庇った深月の眸に、雲を浮かべた晴れ空が映った。
トサッ
「お前は本当に、俺を無視するのが好きだな」
耳元で響く、低音。
「そんなことは二度と許さない。いいな」
俺の花嫁――と、ライズが囁く。
低く艶があり常に蠱惑的なその声に、身体中の皮膚と言う皮膚が一枚残らずざわつく。
気づいた時には深月は既に、ライズの腕の中に居た。
「――こ、皇太子さま、放してくださいッ」
ばしばしと腕を叩くと、深月の身体がふわりと浮いた。
「……あれ?」
その体制はまさしく「高い高い」だ。
「相変わらず、我が花嫁はじゃじゃ馬だな。――くッ。ははっ!」
ライズが声を上げて笑う、その姿に深月はきょとんと眼を丸めた。
いきなり訪ねてきて窓から引きずり出された挙句、そのままハグかと思いきや高い高いの状態で大笑いされる。
(なんだろうこれ……)
これではまるきり玩具、もしくはペット扱いだ。
「あの、皇太子さま……」
「お前は本当に、“神国の月姫”と呼ばれた王女なのか?」
「え……っ」
ぎくり、と身を強張らせる深月を、ひとしきり笑い終えたライズが抱きなおす。
ライズとの距離が瞬く間に詰まる。
深月の正面、わずかに低い位置に鋭利な美貌があった。
「!」
(ちちち近い! 顔が、距離が、っていうか腕が~~~~~~っ)
ライズの腕は片方は深月の腰に、もう片方はお尻の下に。
体勢は三・四歳までの子供がされるような「抱っこ」に変更された。
「おろしてください!」
「嫌だ」
ライズがにやりと笑う。
「い――嫌?! いや、嫌とかじゃなくてですね」
「元気そうだな」
「元気とかでもなくてですね。え、ええと、そもそもここは神殿ですよね? なぜ皇太子さまがここに?」
神殿とは、皇族とは言え他国の人間が簡単に入れる場所なのか。
答えは間違いなく「否」だろう。
昨日のアークの様子からして、そう簡単に許可されるとは思えない。
何せ廊下で出くわしたその瞬間から、警戒を露わにしていたのだから。
だとしたら答えはひとつ、“侵入”だろう。
「様子を見に来たに決まっているだろう。何せいきなり約束を反故されたからな」
「え? ……あっ」
(忘れてたーーーーー!!)
「その反応……まさか一晩で忘れたとは言わないな?」
「覚えてます覚えてますっ! 晩御飯ですね、ええと……」
片隅にもないくらい頭から弾き出していた約束に、深月は胸の前でぶんぶんと両手を振る。
(え? どうしよう? どうしたらいい? 何て誤魔化せば)
「言うのか? 忘れていたと」
「まさか! そんなこと、口が裂けても言えません!」
深月は堂々と返す。が。
「……それはもう、白状していると言わないか?」
「いいえ、そんなことないですよ?」
ええと、ええとと深月は必死に考えを巡らせた。
ライズは相変わらず意地悪く笑いながら、腕に捉えた少女を眺める。
「では朝ごはんでどうでしょう! ね? とびきりおいしいご飯を用意しますから!」
腕振るいますから、と深月は自らの二の腕を叩いた。
昨夜、友弥と入れ替わってしまった後のことは今の深月には分からない。
誰がどう切り抜けてくれたのかさっぱりだ。
だからそこを突っ込まれないようにと、深月は埋め合わせを提案する。
(どうかこれでカンベンを!!)
頼む~頼む~と冷たい汗を掻きながら深月は念じた。
「腕を振るう、か……」
ライズは視線を落として呟いた。
どうやらそれは独り言のようで、何かを考え込むようにライズは黙り込んでしまう。
深月は困惑した。
(と、とりあえずおろしてもらえないかな)
この、抱っこされた状態というのがどうにも落ち着かない。
しかしそんな深月の心境お構いなしで、ライズの腕はぴくりともしない。
(重くないのかな。私そんなに軽い方じゃないんだけど)
158cmの深月は、太ってはいないが痩せてもいない。
何せ無類のお米好き、そんな深月を軽々と抱き上げるライズは中々に逞しい。
(って、そうじゃなくて)
「皇太子さま」
「いいだろう」
やっと顔を上げたライズは、口端を緩く吊り上げて笑った。
「それで手を打とう」
「ホントですか?!」
「花嫁と朝を過ごすのも悪くない。それも毎日な」
「そうでしょうそうでしょうきっと楽しい――――って、毎日!?」
「無論だ」
しれっと言い放ち、ライズは深月をぐいと抱き寄せる。が、深月は腕を突っぱねてそれを拒む。
「毎日、とは言ってません!」
「今日限り、とも言っていない」
「なっ!」
(なんて屁理屈!)
「まぁそれはいいとして」
深月の反応を面白そうに眺めていたライズは、よいしょっとでも言いそうな態で深月を抱え直す。
そうして頭からつま先までまじまじと眺める。
「まずは身支度だな。その夜着は随分と薄い。……寒くはないのか」
「え? 別に寒くはないですけど」
今日は天気もいいですしね、と呑気な返事を返す深月に、ライズは「そうか」と頷き。
「しかし、肌が透けているぞ」
「え? ――――ぎょわっ!」
そこで初めて自分の格好に注目した深月は、着ていたものが薄手の単衣だと知って前を掻き合わせた。
ライズの言うとおり、下のチューブトップのようなものが透けて見えている。
「なっ、そっ、え、い、いつから」
「何なら最初から思っていた。いくら夏とはいえ朝は若干冷える。だから体調を崩すんだな、と」
「き、気づいてたのならその時に言ってください! なんで今」
「最後まで言わない方がよかったか」
「それはもっとだめです! あああもうっ、おろしてくださいッ」
「嫌だ」
「嫌だじゃないですーーー!!」
恥ずかしさがピークに達した深月は、相手の身分も自分の立場も一切忘れて叫んだ。
「お前は俺のものだろう? 花嫁殿。ではどうしようが俺の勝手だ」
「勝手じゃありません花嫁じゃありません! だいたい私は――」
うっかり口を滑らせそうになった深月の、その言葉は続かない。
続けさせまいとするタイミングで、第三の声が割って入った。
「おはようございます、皇太子殿下」
背後で生まれたその声に、深月は竦み上がった。
背にかかったその声はまるで氷そのもの――と言えるような、可愛いものでは到底ない。
触れたら間違いなく傷を負う、ドライアイスの如く冷え冷えとした声音。
「それと、王女殿下も」
形良い唇が紡ぎだすに相応しい美声は万が一にも触れてはいけない空気を醸し出して。
ぎぎぎぎぎ、とからくり人形のような動きで顔だけ振り返った深月が目にしたのは、太陽神のごとく眩い麗しの神官長。
「あ、アークさ……」
「このようなところで、いかがなさいましたか?」
その顔はまさに仏、といった慈愛に満ちていて――――。
(こ、こここ怖ーーーーーーーっ)
姿勢良く背筋を伸ばして深月の後ろに立ったアークは、菩薩の笑顔で般若を表現していた。