第十三話 : バスタイム
「……………」
神殿の入り口に控えていたアークは、しばらくして現れた深月を見て唖然とした。
皇太子の腕の中、しかも赤ん坊のように抱かれている。
信じられない光景に何度も瞬きを繰り返すが、現実はそのままだった。
「俺の大事な花嫁だ」
皇太子は深月を地面に下ろす。
「丁重に扱えよ」
「えっと、殿下」
「ライズだ。……また後で」
そう言って、皇太子は踵を返した。
遠ざかっていくその背を見つめたまま、アークは深月に問う。
「…………何があった」
「…………晩御飯の約束をさせられました」
美味しい菓子をやろう、と言われた。
それはレスティアの特産品で、ここリラムでは滅多に口に出来ないのだそうだ。
「べっ、別にお菓子に釣られたわけじゃないんだからっ」
「――菓子?」
(しまった聞かれた!)
「いいいえ何でも! 菓子? あ、きょ、今日は喉の調子がおかしいな〜」
あー、あー、と発声をし出した深月は、背後から頭を鷲掴みされた。
「それに釣られたのか?」
ズゴゴゴゴ……と凄むアークの顔は、綺麗な分だけ迫力を増している。
(こっわー!!)
「いや、あの、その」
「釣られたんだな?」
孫悟空の緊箍児よろしく、ぎりぎりと頭を締め付けられる。
「いだだだだだっ! アークさん、本気」
「正直に言え」
ギリギリギリギリ。
「あだだだだだだだだ! すみませんすみませんっ、釣られましたぁ」
白状すると締め付けは弱くなったが、解放まではされない。
(まさかこのままでお風呂に直行?!)
それはちょっと情けなくて涙が出そうだ。
「あれ」
救いを求めて視線を動かした深月は、神殿の柱からこちらを窺う小さな少女に気がついた。
「アークさんアークさん」
「何だ」
「あの子、さっきからずーっとこっちを見てます。アークさんにご用なのでは?」
ピッと指を差すとその先を見たアークは「ああ」と深月の頭を放した。
「彼女はユハ。王女付きの侍女だ」
「あの子が?」
「正確には彼女ともう一人。紹介しよう」
来なさい、とアークは神殿の階に足をかけた。
それに続こうとした深月は、はたと足を止める。
「ほんとにいいんですか、私みたいのが神殿に入っても」
「かまわない。今はミヅキが王女だ。」
「…………」
(それは今すぐ止めた方が王女さまの為ですよ)
とは思うものの、さっきの件で余計に汗をかいた深月は黙って階を登り始めた。
(ふわあぁぁぁ)
神殿は石造りでどこもかしこも白い。
そんなイメージを持っていた深月は、現物との違いに言葉を失った。
神殿内はびっしりと、床や柱、階段に至るまで複雑な文様で埋め尽くされていた。
床を直接削っていたり、とりどりの色で描かれていたり、ほかにもタピストリーや鉱石のようなものを置いたりとその方法は様々だ。
そしてそのどれもが、大きくとられた明かり取りの窓から差し込む光で輝いている。
「すごい。綺麗ですね」
きょろきょろと辺りを眺めては「豪華」やら「絢爛」やらとはしゃぐ深月。
「神殿って、もっとシーン、って感じだと思ってました。柱とか、ただの石柱なのかなって」
何だか得した気分、と浮かれる深月に、先を歩くアークは振り返らないままに言った。
「そうするには、神気が足りぬ」
「え?」
夢中になるあまりおいてけぼり状態だった深月は、慌ててアークに駆け寄る。
「今、何て言ったんですか?」
「なんでもない。それより前を見て歩け。……掛け布がずれているぞ」
「あわわっ、すみません」
本日何度目かわからない謝罪を口にして、深月は大人しく“浄め場”へと足を進めた。
「お待ちしておりました、異界よりの来訪者」
「われらは光を司る巫女姫の侍従。最高神官長より、御身をお預かり致します」
神殿の最奥にたどり着いた深月を迎えたのは、そろいの衣裳に身を包んだ二人の少女だった。
一人は銀鼠色の髪を両サイドで結んだ、気の強そうな少女。
もう一人は神殿の入り口にいた、栗色のくせ毛を肩口で揺らす小さい少女だ。
「異界からの来訪者って……」
「事情を話している。この二人は王女とともに育った、私たちの知己でもある」
「なるほど」
(つまりは親友ってことね)
ふんふん、と頷く深月の前にツインテールの少女が進み出た。
「私はセレーンと申します」
「私はユハ、貴女様のお力になれれば幸いです」
後に続いた栗色の髪の少女は、にっこりと笑った。
(可愛い~)
猫のようなしなやかさを感じるツンとしたセレーン。
小動物そのものの天然系ユハ。
十三、十四歳くらいだろうか、タイプの違う可愛らしい少女たちに深月の頬は緩んだ。
(癒されるわー)
ほえほえ笑っていると、後ろからアークに肘でつつかれる。
「初めまして、深月と言います。えーと、これからよろしくお願いします」
我に返って慌てて頭を下げた深月に、セレーンとユハも丁寧にお辞儀を返した。
「では、後はよろしく頼む」
言うなり背を向けるアークに、深月は思わずその袖を掴んだ。
「どこ行くんですか、アークさん?」
「私は戻る」
「えっ! そんな、一緒に来て下さいよ」
「無茶を言うな。後で部屋に行くから、早く禊を済ませてこい」
ではな、と今度こそアークは行ってしまった。
途端に心細くなった深月の、その背をそっと支えてくれる温かい手。
振り返ると、小動物な少女――ユハが微笑んでいた。
「大丈夫ですよ、ミヅキ様。私たちがおります。さ、参りましょう」
その笑顔と言葉に勇気づけられ、深月はゆっくりと奥の部屋へと入って行った。
「お着物や装飾品はこちらの籠にお入れください」
セレーンが差し出したのは深月がすっぽり入りそうな大きな籐の籠。
その中に入っていた真っ白な布を、セレーンが胸の前で広げる。
「こちらの衣をお召しになってください。浄め場には、ほかには何も持ち込めませんので」
それは上質な絹で織られた、肌襦袢のような形をしたものだ。
「よろしければ、お手伝い致しましょうか?」
「あ、ううん、大丈夫です」
ユハの申し出を、しかし深月は断った。
さすがに初対面で裸を見られるのは恥ずかしい。
「畏まりました。では私たちは一度下がらせて頂きます」
「お召し替えが終わりましたらまた、お声をお掛けください」
ユハとセレーンは揃って頭を下げると、衝立の向こうへと消えた。
脱衣所のような部屋に残された深月は、とりあえず一人になれたことにほっとする。
「服きて入るのかー。…………………。」
(まさか今から滝壺修行とか言わないでしょうね)
白装束にも見える衣に深月は不安になった。
八百万の神々が坐すと言われる日本。
その日本に於いて修行の一環として行われるかの滝行は、激しく落下する水に打たれることによって雑念を払い精神統一、身も心も清めるという。
最初は苦しいその行為も、次第に身体に馴染む。まるで自然と一体化したかのようなその感覚は人によっては病みつきになるらしい。
「いや無理だし!」
深月は叫ぶ。
「確かに私には邪念というか願望というかそういうの多いけど……。嫌でもそれは除夜の鐘が毎年払ってくれるわけで」
今の状態で身を切るような冷たさに打たれたら深月は死んでしまう。
(心が!)
ぶるっと身震いした深月だが、アークの「風呂」という単語を思い出し潔くセーラー服のスカーフを解いた。
着物の前を合わせ脱いだものを丁寧に畳んで籠に入れ、深月は最後に腕時計に手をかけた。
「四時十分……」
それは奇しくも、この世界で目覚めた時と同じような時間だった。
「もしかして……」
(このままお風呂に行くのはまずいんじゃないかな)
もしも今、友弥と入れ替わってしまったら。
それはまずい。非常に、まずい。
「ていうか、あれはさすがに夢、だよね?」
深月はひとりごちる。
入れ替わりについては実は、深月は友弥と話していない。
起きたことがあまりにも非現実的で、深月はあれは夢の一部と思い込むことにしたのだ。
妄想と何かがコラボレーションした、深月の恥ずかしい夢なのだと。
友弥も何も言わなかったので、それでいいと思っていた。
けれどもし、あれが現実に起きたことだったら。
夜の間だけ、二人の中身が入れ替わる。
それが異世界に紛れ込んだ二人の、副作用のようなものだとしたら。
『運命は廻り始めた』
脳裏に蘇る幼い声。
『あなたもまた、純然たる光』
それはどこかで聞いた声だと深月は思った。
(でもどこで?)
思い出せない。場所も、いつ聞いたのかさえも。
「こっち? それとも向こうで? そもそも」
「――――ミヅキ様?」
セレーンの声に深月の思考は霧散した。
「やはりお手伝い致しましょうか?」
「ううん、もう終わります」
(あれは夢。夢よ)
深月はささっと腕時計を外した。
「わぁ、ひろーい」
案内されたのは予想通りの滝壺――――などではなく、大浴場もかくやという大きな円形のお風呂だった。
普通と違うのは円の真ん中あたり、天井からきらきらと、温かそうなお湯が流れていることだろうか。
「まさかの、天井から滝……」
「中央の湯柱までお進みください。神の加護故に、身が清められます」
セレーンの言葉に深月は目を丸くする。
「えっ? ……まさか長時間あれに打たれなきゃいけないとか……」
(お湯でもヤダ!)
「長時間?」
瞬間怯え出した深月にユハが小さく首を傾げる。そしてそれはそのまま問いの答えを表していた。
「…………。何でもないです。えっと、石鹸とかは」
「必要ありません。全て、湯柱が清められます」
セレーンの言葉に深月は驚き目を見開いた。
「すごい。なんて便利なの」
「私たちは外でお待ちしていますので、どうぞお寛ぎください」
「ごゆるりと」
言って、二人は部屋へと戻って行く。
だだっ広い浴室―もとい浄め場に一人になった深月は。
「――――やほーい!」
大喜びで浴槽に足を入れ、湯柱に突撃するのだった。
「はー、いいお湯」
ばばんばばんばんばん、と歌いながら、深月は浴槽に足を伸ばす。
「ほんとにピカピカ。驚くな~」
湯柱を浴びた瞬間に、埃や汗でも汚れた深月の髪、そして肌がつるつるになった。
まるでエステにでも行ったような仕上がりだ。
(まぁ、行ったことないんだけど)
「でもこれで、お布団に入ったら何もかも忘れてぐっすり眠れそう」
幸せー、と伸びをした深月は、それからゆっくり、膝を抱えた。
「トモ、無事かな……」
押し込めていた感情が、温まった身体から溢れてくる。
いろんなことがありすぎて頭がついて行かない。ついて行かないのに、誰も待ってはくれない。
「夢ならここで覚めてくれないかな」
ぶくぶくぶく、と深月はお湯に沈む。
(会いたいよ、トモ)
眼裏に優しい幼馴染みの姿が浮かんだ。
『深月』
名前を呼ぶ穏やかな声を思い出し、深月はくしゃりと顔を歪めた。
刹那。
――――――リィン。
頭の中に、澄んだ音が響き渡る。
ざばぁっと浴槽から顔を上げた途端、視界がぶれる。
この感覚には覚えがある。
つい先ほど、深月が自ら夢だったと否定したそれだ。
(やっぱり……)
深月の大きな瞳が潤む。
「あれも現実かーーーーーーーっ!!」
叫んで、深月は意識を手放した。