第十二話 : お風呂に行こう
コンコン、と扉が叩かれた。
深月はびくりと身を震わせ、さっとアークの後ろに隠れる。
「何だ」
「禊の準備が整いました。姫様にはどうぞ、浄め場に参られますよう」
アークの問いに答えたのは、女性の声だった。
「そうか、ありがとう。王女殿下は私がお連れするから、浄め場に控えてくれ」
「畏まりました」
コツコツ、と足音が遠ざかる。
「きよめば、ってなんですか」
アークの背からにょっと顔を出して、深月は恐る恐る尋ねた。
「わかりやすく言うと風呂だ」
「ほんとにわかりやすいですね」
説明ありがとうございました、と深月はソファに戻ろうとして。
「ぐえっ」
アークに首根っこを、正確に言うとセーラー服の襟を掴まれた。
「話を聞いていたか? お前は今から風呂だ」
「えっ。でも私、着替えとか持ってないです」
ボストンバッグも、今やどこにあるかわからない。
「それぐらい用意する」
「えっ! いいですよ、全力でご遠慮申し上げます」
襟を掴まれたまま深月はばたばたと足を動かす。
「何か思い違いをしていないかアホ娘。誰が、『私が』用意すると言った」
「ん? というと」
「侍女が揃えるに決まっているだろう」
アークは心底うんざりした、という声を上げて深月を解放した。
「なら最初っからそう言ってくださいよ。でも良かった、それならぜひお借りします」
実は朝から歩き回って、結構な汗をかいていたのだ。
では、と早速扉に向かった深月は――
「ぐえっ」
またしても、アークに首根っこを掴まれたのだった。
◇
「……だれもいませんか」
「いるに決まっているだろう。いいから黙って歩け。顔を上げるな」
あれからしばらく。
深月は頭に大きな布を被り、長い黒髪ごと顔を隠して回廊を歩いている。
アーク曰く。
「王女がその姿で戻ったとなると色々問題だ」
とか。
浄め場とやらは神殿内にあるとかで、誰ともすれ違わずに行くのは不可能。
なので深月は、なるべく目立たないようにアークの後をついて行った。
(あいたたた……。腰が)
努力のあまり老婆のような格好で進んでいた深月は腰をとん、とんと叩く。
「この角を曲がれば外に出る、その先が神殿だ」
「えっ! ほんとですか?」
わーいと両手を上げて喜んだ深月は――――万歳の格好で凍りついた。
そこには騎士の恰好をした黒い人物。
「久しいな、俺の花嫁」
「……ライズ殿下」
(でたーーーー!!)
よく響く低音ボイスに、深月は脱兎のごとく逃げ出した。
が、すぐに腕を掴まれアークの背後に隠される。
「これは殿下、この様な場所にお越しとは如何なご用件でしょう」
「お前に用はない。下がれ」
「恐れながら殿下、王女はこれから清めに入られます。面会はその後、正式に」
「黙れ。お前如きが出過ぎるな」
「―――なっ!」
あまりの言いように深月は反論しようと口を開きーー
「もがっ」
後ろ手に塞がれた。
「黙っていろ」
アークが声を潜める。
「むご」
「斬られたいのか」
その一言で深月は完全に黙った。
(忘れてた……)
このひと人斬りだったんだ、と再び身を隠す。
「恐れながら。これから行うのは神聖なる儀式です」
「国交に差し支えるぞ」
「これは神事です。ルーウィンの為、引いては御身の為」
虐帝と言われる皇太子に、しかしアークは一歩も引かない。
(本気で守ってくれてるんだ……)
アホ娘だ何だと言われた深月だが、この時ばかりはじんと来た。
「なんと仰られても、私はこの場を動きません」
(アークさん、意外と男らしい……)
うる、と涙ぐみそうになる深月。
「そうか」
皇太子は腰に手をやる。
「ならば死ね」
「皇太子さいこーっ!」
カチャリと鳴った皇太子の剣、その柄を狙い、深月はアークの背後から飛び出した。
刀身が鞘から覗く直前で柄尻を押さえつける。
「………………」
「…………………………」
アークが背後で絶句している。
「私、ちょうど皇太子さまとお話ししたかったんです! う嬉しいなー」
思いっきり棒読み、わざとらしさ全開の深月に、皇太子は皮肉気に唇を歪めた。
「ほう」
「と、いうことで、アークは先に行ってください」
「……しかし」
「大丈夫ですから! ここからは一人で行けますわッ」
大丈夫大丈夫と繰り返す深月に、アークはきつく唇を噛み締める。
「……あまり遅くなりませんよう」
感情を押し殺した声。当然だ。
これは彼の本意ではないのだから。
(でも)
「わかりました。ではアーク、また後ほど」
「はい」
顔が見えないくらい深く俯いたアークが、曲がり角の向こうへと消えていく。
その背には、様々なものを堪えている様子がありありと浮かんでいた。
(これは後でお説教だな)
何だかとっても腑に落ちないが仕方がない。
深月はアークに死んでなんか欲しくはないのだ。
今頼れるのは彼だけで、アホだ何だと言いながらちゃんと面倒を見てくれようとしている。
(現にさっきだって庇ってくれた。ちょっと気は短いけど)
アークはきっと誠実で、なによりお人よしなのだろう。
いつまでも角を見つめる深月を、しかし皇太子は容認しなかった。
「おい」
肌が粟立つような低音と、凄まじい視線を感じる。
「あ、私ったら忘れ物を……」
深月は勢い良く回れ右をした。が。
「待て」
眼前に逞しい腕が伸び、進路を塞がれる。
(ですよねー)
「俺と話がしたいのだろう、花嫁殿」
そのまま深月は壁に追い詰められた。
「久方ぶりだな、俺の花嫁」
「え、ええと……」
(作戦失敗ッ。 どどどどうしよう)
壁に両手をついた皇太子、その間に挟まれた深月は必死で頭を働かせていた。
皇太子の腕は逞しく、その体躯は高い身長と相まって大きくとても抜け出せそうにない。
「話がしたいのだろう?」
愉悦を滲ませたその声は、深月の本心など見抜いていたことを如実に語っている。
「は、話?」
(通じるんですか?!)
なんたって彼は気まぐれな人斬りだ。と、アークは言っていた。
その話が真実であれば、話すどころではない。
(それにいかにも俺様系だもの~)
なるべく目を合わさないよう俯き気味に除き見るが、相手の身長が高すぎて表情までは知ることは出来ない。
ならばせめてと、深月は斜め下に顔を逸らした。
その拍子に、不揃いの髪が肩口から零れる。
そして。
(――――ひょぇっ)
顔のすぐ脇に流れた髪を皇太子が掬い、そのまま弄び始めた。
「嬉しいことだ。俺と話そうなど大陸、否、世界中を探してもいはしないだろう。――――花嫁を除いて」
「あっ」
皇太子は空いているほうの手で深月の頭の大布を取り払った。
長い黒髪がふわりと舞い、深月の肩にさらさらと降りる。
その様子を皇太子は目を細めて見やり、ゆっくりと深月に視線を戻した。
「気分はどうだ?」
「え?」
「闇色に染まった気分だ。元は銀色だったのだろう?」
「いえ、あ……」
(この場合、どう答えるべきだろう)
深月は生粋の日本人だ。
生まれてからずっと、カラーコンタクトどころか髪を染めたこともない。
なにせ黒髪は【大和撫子】の象徴とも言えるものなのだから。
「見事な銀糸の髪に美しい深緑の眸。月神の祝福を一身に受けた“神国の月姫”。そう、呼ばれていたのだろう?」
「そ、れは」
深月の脳裏に、最後に見た王女の姿が蘇る。
皇太子の言うように、確かに王女はとても綺麗な眸と髪を持っていた。
もしかしたら彼女のチャームポイントだったかもしれない。
でもそれは、深月ではない。
だから深月は、深月が思ったことをそのまま口にした。
「髪の色など何色でも構いません。目も同じです」
皇太子が瞠目する。
「外見なんて飾りですし」
これは昨夜、友弥と入れ替わった時に思い知った。
人は見た目だけでなく、表情、仕草、考え方など色々なことを含めて相手を好きになる。
相手も自分も、持って生まれ持ったものはあくまでその人の一部でしかないのだ。
「人は姿かたちより、その内にある心に惹かれるので――」
ダンッ
王女らしく聞こえるよう言葉を選ぶ深月を遮るように、皇太子が壁を殴りつけた。
離れている背中までその振動を感じ、深月は冷や汗とともに言葉を飲み込む。
皇太子はもう片方の手も壁について深月を閉じ込めると、その眸を覗き込んだ。
「では俺はどうだ? この色で生まれ堕ち、実父に忌み嫌われ、人々から恐れられるこの姿は」
歪められたその顔は残虐で美しく、そして殺気を帯びていた。
震えあがらずにはいられない残忍さで深月を見下ろしている。
しかし深月は怯えなかった。
五歳にして弟に“綺麗なジャ〇アン”と言わしめた深月の度胸は、並大抵ではない。
何もかもに逆らえるほど強くはない。が、今はまっすぐに相手を見据えることができる。
「綺麗だと思いますよ」
深月は微笑う。
皇太子の低い声は、その表情とは逆に痛みと悲しみでいっぱいだ。
殺したいほど憎いのは、きっと深月ではないはずだ。
それを肯定するように、皇太子は無表情で固まっている。
「綺麗? この色が?」
「はい。艶々の髪も、夜色の瞳も。とても綺麗」
至近距離で見たそれは間違いなく「綺麗」だと深月は感じた。
「誇っていいんじゃないですかね」
「……そうか」
「そうですよ。それに皇太子さま、すごく美形ですし」
「…………そうか」
「背も高いしですしね。あとは雰囲気を柔らかくしたらきっとモテると思いますよ」
あともうひと頑張りです、と拳を握る深月。
そんな深月に皇太子は目を細め、顔を背け、それからまた戻し―――。
「――――一人でいい」
「え?」
上体をかがめた皇太子は、深月の耳元で低く囁いた。
「お前だけで、いい」
ぞくり、と背筋が震える。
「俺の花嫁」
「――ぅひゃあっ」
耳朶を舐められ、深月は悲鳴を上げた。
「こ、ここ皇太子さま?! 何を」
「ライズでいい」
深月の顎をそっと持ち上げ、熱っぽい瞳で見つめながら皇太子は言う。
「お前は俺の、妻になるのだから――」
互いの唇が近づき、ゆっくりと重なる。
――――――――その直前。
ぐきゅううぅぅぅぅぅ
深月のお腹が盛大に鳴った。
「――――っ」
(にゅあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!)
瞬時にお腹を抱えて深月はその場に蹲る。
(恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしいっ)
顔に熱が集まる。
(はっ、そういえば朝から何も食べてない)
だから空腹は当然といえば当然だ。
(きっとさっき、お茶を飲んだからだわっ。だから腸が活発化したのよ)
理由をつけて泣きたいような気持を押さえながら、でも、とも思う。
(お陰でキスはされずに済んだ)
そ……と皇太子を見上げる深月。そんな深月を皇太子は。
「ック。ククっ」
――壁にもたれて腹を抱え、笑いを堪えていた。
「もういっそ笑ってください!?」
勢いよく立ちあがり、深月は皇太子に食ってかかった。
確かに唇は守れた深月だが、代わりに大事な何かを失ってしまった気がする。
「いや、悪い」
「ほんとに思ってます?」
「生憎食べるものは持っていない」
「そっちじゃありません!!」
顔を真っ赤に染め上げた深月はダンと床を踏みしめる。
が、女らしからぬその行動に深月ははっとし、ささっとスカートの裾を直した。
「俺の花嫁はずいぶんと気が強い」
「あっ」
(そうだった、このひと……)
皇太子は、深月を王女だと思っているのだ。
(大丈夫かな。王女の評判とか、落ちたりしないかな)
きっと接触が長引けば長引くほど、それはもう斜面を転がるかのように落ちるかもしれない。
(それはまずい気がする)
だったらどうすればいいのか。答えは一つだ。深月はほんと咳払う。
「殿下、私そろそろ神殿に行かなければなりなせん。長くお引き留めして申し訳ありませんでした」
では、と頭を下げた深月だが、それでは終われなかった。
「ご案内するとしよう」
「いえ、だいじょう――ひょっ」
丁重にお断りしようとした深月は、皇太子に抱えられた。
それもお姫様だっこ――――ではなく。
「なんで米俵抱き?」
いわゆる縦抱きだ。
「不満なら横抱きに変えるが?」
「いえそうではなくて。下ろしてくだ」
「断る」
断られた。それもきっぱりだ。取り付く島もないほどに。
「空腹なのだろう? 無駄に体力を消費せずとも、運んでやる」
皇太子はにやりと笑い、言葉通り神殿に向かって歩きだした。




