第十話 : 人違いです
誰かが、愛おしげに名前を呼んでいる。
何度も何度も。
繰り返されるその名前は、まるで大事な宝物のよう。
(だれ……)
温かいものが頬に落ちる。
温かいものが頬を包む。
誰かを求めるその声はとても痛々しくて、深月はゆっくりと手を伸ばした。
「泣かないで……」
小さな子供をあやすように、深月は微笑む。
「大丈夫だから」
柔らかな感触が手に当たり、深月はゆるゆると瞼を持ち上げた。
「え……っと」
意識が浮上した瞬間、深月の頭は真っ白になった。
深月が触れているのは、白く滑らかな頬。
見ず知らずの他人の顔。
空を映した様な虹彩と、陽の光を凝縮したような眩い金色の髪。
美の女神の寵愛を一身に受けたような、光り輝く美青年が深月を見下ろしている。
(びびび美形ーーーーーーー!!)
深月は慌てて手を下ろした。
(何この人何この人だれこの人ー?!)
己の意思とは関係なく、顔が熱くなる。
深月は慌てて起き上がり、ソファの背に隠れた。
そんな深月に美青年は―――目を瞠って固まっている。
「……あのー」
「――イリーゼ……」
「ではないです」
きっぱりと答えた深月は、またそれかとがっくり項垂れる。
(どいつもこいつも人違い……。私と誰を間違えてるのよ〜)
『――俺の花嫁』
黒い青年のセリフを思い出し、一連のことを思い出して――深月はがばりと顔を上げた。
「あの! イリーゼさんてもしかして、銀色の髪と緑の目をした人ですか?!」
私にそっくりな、と深月はまくし立てる。
「確かにイリーゼは銀の髪に深緑の眸だが」
「知ってます! その人、昨日川で助けて」
(……あ)
続けようとしたが、その先は出てこなかった。
確かに、深月は彼女を助けた。
あのままでは死ぬまで行かなくとも、風邪を引いたりもしかしたら溺れてしまうかもしれなかったから。
だから運んで、着替えさせて、温めたのだ。
なのに。
「……それで?」
美青年が先を促す。
ソファの背に手をかけて、真剣に深月を見つめている。
(きっと、本当に大切な人なんだ)
深月にとっての、友弥と同じように。
(だったらなおさら言えないよ……)
じわりと熱くなる瞼に、深月はぎゅっと唇を噛む。
(だめだ)
これ以上は泣いてしまう。
泣いてしまったら本当に、もう二度と友弥に会えないような気がした。
なのに。
「もしや……死んだのか?」
その言葉はとても直接的で、深月の心をぐりっと抉った。
「二人……は」
ぱたぱた、と、熱い滴がソファを濡らす。
一度決壊してしまったら、もうどうにもならなかった。
「二人?」
そう、二人。彼女は友弥まで連れて行ってしまった。
ひらりと踊る袴の裾。短い銀髪、見開かれた友弥の、碧色の眸――――。
その眸にもう自分は映らない。
「二人、です。イリーゼさん、と、も、もう一人は…。」
断崖に消えた明るい髪に、もう二度と触れられない。
死んだなんて信じたくない。生きているのだと信じていたい。
「私の大事なひとと一緒に、イリーゼさんは、崖から飛び降りました――――」
絞り出した声は酷く掠れて、最後の方は聞き取れたかわからない。
それでも言葉にしてしまえば、それはどうにもならない現実として深月に突き刺さった。
(トモ……っ)
心も身体もとても痛くて、このままバラバラになってしまいそうだ。
「そうか……」
気遣わし気に肩にそっと触れられる。
でもそれすらも今はとても煩わしい。
深月は瞼をぎゅっと瞑った。
「では大丈夫だな」
「はい、そうなんです。もう大丈夫……。て、ちょお!」
深月は美青年を振り仰いだ。
「今話聞いてました?!」
「聞いていたが」
美青年は「この距離なんだから」とでも言いたげに眉を潜める。
「いやいやいやいや、聞いてないでしょ! ……ハッ、もしやあなた、日本語が通じない人ですか?」
「“ニホンゴ”が何を指すのかはわからないが、今の話は理解出来た」
「じゃあ何で、そんなことが言えるんですか!」
悲しみも苦しさも、苛立ちで包んで全て投げつける。
「飛び降りたって、言ってるじゃないですか…ッ」
「そう、飛び降りた。落ちたではなく。……イリーゼが自らそうしたのだろう?」
「……へ?」
(何その確認、何の確認?)
児童公園のジャングルジムからとか、これはそんな小規模の話ではないのだ。
飛んだとしても落ちたことには変わりはない。
ぽかんと口を開けた深月に美青年は、小さく息を吐いて告げた。
「彼女はこの国の王女だ。神力を使えるし、それに鳥を連れている」
「鳥? 鳥って、スズメとか鳩とか?」
日本でもっともポピュラーな鳥を挙げた深月だったが、美青年はお気に召さなかったらしい。
「聖獣にきまっているだろう。あれを連れていれば、崖から飛んだとて問題はない」
(え、じゃあ)
深月の涙がぴたりと止まる。
「無事だ。もちろんきみの“大事なひと”も」
「よっ」
(良かった~~~~~~~っ)
深月は脱力して、ぺたりと床に座り込んだ。
友弥は生きている。
それがわかっただけで、心はすっと軽くなる。
深月はごしごしと顔を擦り、頬についた涙を拭って――――固まった。
目の前に、きれいな顔が迫っている。
「?!」
「…………」
何を思ったのか、麗しの美青年が隣に膝をつき、顎を捕えて深月を上向かせる。
金髪碧眼は美形の代名詞としてよく使用されるが、こうして見るとその理由がよくわかる。
皆がみんなそうではないだろうが、目の前の青年は今まで見たことがないほどに類を見ない美しさだ。
(そう言えばあの黒い人も美形だった。……明らかに俺様系だったけど)
切れ長の眸とあの長身で、さぞやモテることだろう。
(いやいや、トモだって十分かっこいいですよ? まさに現代の王子様!)
いやしかし、と深月は思う。
(双子の私が言うのも何だけど、颯希だって中々のものです。私は知っている、バレンタインの輝かしい功績を)
きっと颯希は見た目云々ではなく性格が男前なのだ。
(こう考えると最近の私の周りはイケメン揃いだな~)
これが今流行りの“逆ハー”だろうか……。
深月がこんなどうでもいいことを考え出したのは、ひとえに美人に至近距離で見つめられるという状況に耐える為だ。
気を抜くと思い切り突き飛ばして頭を打ちかねない。
(それは危険だわ。下手したら傷害事件よ)
ソファの角というのは、尖っていて意外と固いのだ。
などと思っているうちにくりっ、くりっと顔を右に左に動かされた。
何回もそうしてから、美青年がまたじ……っと深月を注視し。
「よし」
「よし?」
「今日からきみには、この城で暮らしてもらう」
「――――へ?」
(お城?)
どう見ても普通の部屋に見えるが。
「まずはしきたりと規約を覚えて、出来たら作法と、帝王学も学んで欲しい」
「し? き? ……帝王学?」
理解が追い付かない深月を置いて、美青年は生真面目な顔で言った。
「今日からきみは身代わりだ」
「――――身代わり!?」
「そう、身代わり。王女殿下が戻るまでの」
まるでそれがごく当り前であるかのように、美青年は言い切った。
(何この人、私の意見とか、ハイとかイイエの選択肢とか……。そういうこと全く考えてない)
そして今更ながらに深月は気付く。
美青年の態度は最初から何となく上からだったと。
(社長クラスとかではなくもっとこう、ちっちゃい感じの)
言うなればその息子、良いとこのおぼっちゃまくらいの偉そうさだ。
(黒い方も偉そうだった。あっちは王様かってくらい偉そうだった)
ではそもそも、美形とは偉そうな生き物なのか。
それはものすごく残念だ。
(もしかして、顔が良かったら何でも聞いてもらえるとか思ってる? それは大きな勘違いだよ。だって)
友弥は、深月に偉そうに命令したりしない。絶対に、しない。
ならばやはり。
顎に掛けられた指を深月は乱暴に払った。そして。
「――――私のイケメン枠は、一人で十分なのよーーーー!!」
勢いよく立ちあがり、深月はビシッと美青年を指さした。
「――――――――は?」
またしても呆気にとられた青年に、深月はますますふんぞり返る。
「ちょーっと美人だからって、誰も彼も『はいそうですか』って言うと思ったら大間違いよ。すっごく間違い。いーい? 私そんなに暇じゃないの」
わかる? と顎を逸らす深月。
「女子高生の夏休みは意外と忙しいの。宿題は鬼のようにあるし、稽古だってほぼ毎日。海に花火にお祭りに、イベントだって盛りだくさんなんだから」
そう、夏休みは進展と発展の大チャンスなのだ。
「王女様の身代わり? ご冗談を。ここがどこだか知らないけど、私は家に帰ります」
さようなら、と言い捨てて深月は美青年の脇をすり抜ける。
(――――決まった)
颯爽と歩きだした深月はガチャリと扉を開けて。
「帰れるのか?」
美青年の問いかけに、深月は扉を閉めてすごすごソファへと後退した。
◇
深月は編集者の母と絵本作家の父の間に、双子の弟とともに生まれた。
小さい頃は童話やおとぎ話が大好きで、特に父の描く絵本は格別だった。
喋るうさぎや空を飛ぶ馬、美味しいお菓子を作る小人はとびきり可愛く、歌を歌えばモップが踊り出す。
お姫様に王子様、恐ろしい怪物に、それと戦う強い騎士。
王様は威厳たっぷりで、その横に並ぶお妃様は綺麗でとても優しい。
そんな世界に憧れてやまなかった。
『 秘密の木を登れば、そこはとっても愉快で不思議な世界に繋がっている。』
そんな一文に、深月は夢を見た。
いつかきっと、自分もそんな世界に行くのだと。
そう、思っていた。
(思ってはいたけど……)
深月はぐったりとソファにもたれた。
嫌な予感はしていたのだ。
事故に合って目覚めた時――正確には森を抜けたあたりから。
(あの景色は、どう頑張っても日本には見えなかった。出会った人たちはみんなおかしな格好をしていた)
そのうちの一人である顔だけは良い(深月認定)美青年に、深月は思い切って尋ねる。
「ここはどこですか?」
「リラムだ」
「りらむ?」
聞いたこともない。
(どうか、間違っても異世界とか言われませんように)
神力とか聖獣とか聞こえた気がしなくもないがそこは無視を決め込みたい。
日本でなくてもいいから、と胸元で両手を擦り合わせる深月に、美青年が眉宇を潜める。
「リラムを知らないのか?どこの田舎者だ」
「先進国日本の首都東京の花も恥じらう女子高生です」
田舎者と言われた深月は一息に言い切った。
確かに日本は小さな島国だが、そこには豊かな文明とトップクラスの技術が詰まっている。
世界で、少なくとも報道がなされるような国ではさすがに、誰もが知っているメジャーな国だと深月は思っていた。
だから。
「ニホン? トウキョウ? 知らないな」
(ああ……やっぱり)
そして美青年は、決定的な言葉を口にした。
「ここは神興国リラム。このルーウィン全世界を支える、光の末裔の坐す国だ」
――――――――と。