表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
この作品には 〔ガールズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

本当の私は偽りの私

作者: 雪本 深白

 一般的に人の怒りの持続時間は5分だと言われている。

 いわゆる怒声を上げたり、暴力行為に及んだりするのはこの段階。

 それが過ぎた後は30分間の静かな内面的な怒り、いらだちのようなものに移行する。

 この段階を乗り切れば、大抵の人間の場合、話を聴ける状態になる。交渉術の基本、らしい。

 私はそんなことを考えながら、時計を見つつ、タイミングを図っている。

「だから地毛だって言ってるじゃないですか!」

 廊下から怒声が響く。

「どう見ても地毛には見えないから言ってるんでしょう! 染めるまで教室には入れません。まったく最近の若い子はすぐ髪を染めたりして、親からもらった身体を何だと思ってるんです」

「まさにこの髪質が親から受け継いだものなんですけどねぇ、偏見だらけの教師って嫌ですねー」

「なんですか! その口調は!」

 だが、二人の論争は止まらない。お互いの怒りの炎が収まる前に絶えず、ガソリンを投下し続けているのだ。

「あなたね、水泳で実績を出してるからって調子に乗り過ぎではないの?」

「調子になんて乗ってません! どっかの誰かが勝手に曲解してるだけじゃないですか!」

 せめて5分間の怒りの段階は乗り切ってから間に入りたかったのだけど、仕方がない。私は重い腰を上げる。なんで隣のクラスで解決すべき問題の仲裁をしなくてはならないのかという疑問はあるのだけど、これも腐れ縁と思うしか無い。

 事情を知っているクラスメイトの数人が、憐れむような視線を向けてくる。私はそれに苦笑いで返すと、怒声飛び交う廊下に飛び込んでいった。

「はい、恋海こう。そこまで」

 今にも飛びかかりそうな姿勢を取っている少女を後ろから抱きしめるようにして抑える。

 ふよん、とした胸の感触が伝わる。なんだか前より少し大きくなったような気がする。

 般若のような形相を浮かべていた恋海は私の顔を見るなり、表情を一変させ、ばつの悪そうな顔を見せる。

「で、でも、けい

「でも、じゃない。ちょっとおとなしくしなって」

「はい……」

「えっと……あなたは?」

 口論の真っ最中だった新任教師は先ほどまであれほど荒れ狂っていた恋海が急に落ち着いたのが不思議でたまらないのだろう。あっけにとられた表情をしている。

「隣のクラスの姫路ひめじ 景です。この髪のことなんですが」

 私は抱きかかえた恋海の髪を軽く引っ張る。

 脱色していてウェーブのかかった髪。たぶん、事情を知らない人が見れば春休み中に間違った方向に自己主張をしようとした生徒が髪型から変化させようとして失敗した結果にしか見えないと思う。

「彼女、向坂さきさかはご存知の通り、水泳部に所属しています。水泳というスポーツは長く続けていると塩素の関係で稀に髪の色が脱色したりすることがあるんですよ。さらに誤解するのも無理も無いのですが、彼女は元々天然パーマ気味というか、髪が元々こんな感じなんです」

「でも、生徒手帳だと」

 恋海から没収したのであろう、生徒手帳の証明写真のページを開いてみせる。その中には黒髪でストレートヘアーっぽい感じになっている恋海が退屈そうな顔で写っていた。

「あぁ、その頃はまだ水泳をやっていなかったんです。髪型に関してはストレートパーマをあてていたので、むしろ、彼女にするとこの状態こそが自然なんですよ」

 この説明も何回繰り返したことか。そろそろ自分で説明出来るようになって欲しい。

「そ、そうなの?」

「詳しいお話は水泳部の顧問である菊池先生に伺ってください。彼女は向坂が入学した時から事情を知っていますし、変色していく過程も見守ってきた方ですから」

 説明を終えると都合の良いタイミングでチャイムが鳴った。正確には出る前からこのタイミングを図っていた。

「予冷も鳴りましたし、これで失礼します。ほら、恋海」

 まだ食って掛かりそうな態度を見せている恋海をもう一度だけ軽く諫めると、私は頭を下げて、その場を後にした。



 帰り道、恋海は肩を落としたまま声を発しない。

 まさかとは思うが、怒られたことを気にしているのだろうか。

「恋海? どうしたの?」

「ん、うん。あーあ、なんか今更だけど景はすごいよね」

「すごくないよ。恋海のがずっとすごい」

 普通、教師相手にあそこまで反論しない。もちろん、悪い意味で。

「景に言われてもお世辞にしか聞こえない。景、小学校のころからなんでもできるし」

「なんでもは出来ないって。出来ることが出来るだけだよ」

「それ、なんにも出来ない私に対するイヤミ?」

「違うよ。それに恋海は水泳があるじゃないか」

「でも、それだけだもん」

 露骨に拗ねたような表情をする。

 確かに恋海は平均的に見た場合、あまり器用とは言いがたい。というより何をやらせてもダメな部類に入る。勉強は下から数えたほうが早い、球技をやらせれば大半はルールを知らず、マトモにボールを受けれない。家庭科をやらせれば怪我や事故を多発させるという具合だ。万事こんな感じだから、本人も様々なことに関して劣等感を覚えやすい。

 しかし、その分、恋海の才覚は特化している。たとえば水泳がそうだ。

 本人は卑下するが、彼女の水泳選手としての立場は『それだけ』とは言いがたい。

 女子水泳では最長距離を誇る800m自由形の選手というだけでも珍しいのに、始めてから長く見積もっても4ヶ月程度しか経っていない中1の時点で市大会優勝とくれば、まず目立たたないはずがない。

 県大会ではフライングで失格こそしたものの、そのデビューの鮮烈さと経験値不足に由来する悲劇的な幕切れは多くの人の間で話題になった。それこそ、この辺りで水泳をやっている人間では彼女を知らないものはいない。

 人魚姫マーメイド。彼女の愛くるしい容姿と合わさって、いつしかそんな異名が一部でついていた。

 問題はそれだけのことをやっていても、本人は全く自信がないということだ。

 その自信の無さの二言には『でも、景は』と続く。

 どうも私と比較しては落ち込んでいるらしい。

 確かに私も同じように陸上で中一から結果を出している。夏の県大会では一年ながら二位という好成績だった。

 だが、私と恋海では年季が違う。

 私は小学生の時からずっと本格的な陸上を続けているが、恋海は中学になって初めて本格的に挑戦した水泳でいきなり結果を出した。

 どちらがすごいかと言えば、後者を推すのは当然だろう。

 嫉妬さえ、覚える、才能。

 万事を小器用にこなしているだけの私など遥かに凌駕する極端なセンス。

 恋海は間違いなく、私よりすごい。

「ねー、景。聞いてる?」

「……あぁ、ごめん。聞いてなかった。何?」

「だから、明日部活休みだから遊び行こうって話。前、景が行こうって言ってたお店行こうよ」

 先ほどの悲しそうな顔はドコへやら、一転して明るい表情を見せる。

 この切替の早さも恋海の良さだと思う。

「あぁ、いいよ」

「やった」

 恋海は小さくガッツポーズして喜ぶ。その素直な仕草に思わず、笑みが零れた。

 彼女は自覚がないだけで、いいところをいっぱい持っている。

 



 翌日。10時を過ぎても待ち合わせ場所に恋海は現れなかった。

 恋海が遅刻するのは珍しいことではない。

 よく寝坊するし、時間にもルーズだ。

 ただ、連絡も無いのは珍しいのでメールを入れてみる。

 数分後、返信が帰ってきた。思ったより早い。

『ごめん。行けなくなった。あとで話したい』

 あまりにも簡単なメールに苦笑する。おそらく何か急な予定が入ったか、予定があったのを忘れていたのだろう。

 どちらも恋海にはよくあることだ。

『わかった。あとっていつ?』

『夕方くらい』

 私は『わかった』と返信して、恋海の大好きなケーキでも買っていくことにした。


 *

 

 私と恋海は同じマンションの違う階に住んでいる。

 私が二階で恋海は十階。

 普通ならトレーニングも兼ねて二人で階段を駆け上がるのだが、今日はケーキを持っているのでエレベーターを使う。

 エレベーターは苦手だ。なんとなく、このまま閉じ込められて二度と出られないような気がする。

 そのことを恋海に話したら、『景にも怖いものあるんだー』と笑っていた。彼女の中での私はどうも美化されすぎている気がしないでもない。

 チン。という機械音が鳴って、ドアが開く。私はそそくさと出ると、恋海の住む部屋のインターホンを押して、すぐドアを開く。

「恋海ー、いる? ケーキ買ってきたよー」

 普通ならば、マナー違反だが、小学生の頃から行き来しているせいか、すっかりこうした声掛けが習慣になってしまっている。

 しかし、いつもならどこにいてもあるはずの返事がない。

「恋海?」

 私は靴を脱いで、勝手に上がった。玄関から一番近くにある恋海の部屋のドアをノックして、返事も待たず開く。

 案の定、ベッドの上で丸くなって眠っていた。鍵をかけろといいたいところだが、多分、両親がいると安心してそのまま眠っていたのだろう。この辺の不用心さもそろそろなんとかしたほうが良いと思う。

 私はいつものように軽く頬を叩いて起こそうとして、手を止めた。

 恋海の目尻には涙の痕があった。

 何か、あったのか。

「ん、景……」

 恋海が眼を覚ました。緩慢な動きで身体を起こす。

「おはよう」

 私は務めて何事にも気付いてない風な声を出す。こうして平静を取り繕うのは得意だ。

「ケーキ、買ってきたよ」

 私は出来るだけ優しい微笑みを作る。

「景っ……」

 そう言って恋海は私に抱きついてきた。

「何か、あったの?」

 何もないわけがない。どこか冷めた自分に白々しさを感じながらそう尋ねた。



「青海女子から誘われてる」

 ケーキ二つと紅茶二杯を平らげて落ち着いた恋海はボソリとそう言った。青海女子は中高一貫の進学校としても有名な水泳の強豪校だ。

「前々から来ないかって誘われてたんだけど、今日は顧問の先生みたいなのが直接訪ねてきた」

「へぇ、良かったじゃん」

 内心で私は動揺を隠しきれない。

 有名なのは知っていたが正直、そこまですごい選手だったのは知らなかった。

「とうさんも、かあさんも、なんか、乗り気。すっごい喜んでた」

 まだ完全には覚醒しきってないのか、もそもそとした歯切れの悪い口調で喋る。

「そうなんだ。で、行くの?」

「うん、明日に」

 間髪入れず、そう答えた。

 予想もしてない答えに私は戸惑った。

 これはいい話だ。同じ県内だし、青海女子は今住んでいるところからそんなに距離も離れていない。

 もちろん、全寮制の学校だから自宅通学というわけにはいかないだろうけど、休みの日に遊んだりすることは出来るだろう。

 しかし、明日というのは急に思えた。

「急、だね」

 動揺した私はそういうのが精一杯だった。

「うん、転校っていうか見学みたいな感じかな。ホント言うと、私はあんまり行く気ないんだけど、それならなおさら一度見た方がいいってことでお試しみたいな感じで一週間だけ行って寮で生活してみることになった。というか私の知らないうちになってた」

 恋海はフォークを弄びながら、不機嫌そうに唇を尖らせた。

 恋海は決して気の弱いほうでもなければ、口が立たないほうでもない。

 その恋海が押し切られるということは、相手もかなり積極的に口説いたのだろう。おそらく恋海が反論しづらい両親のほうを。

 推測だが、あの涙の痕はおそらく、その際の口論によるものだろう。恋海は結構、激情家だ。さぞかし荒れ狂ったに違いない。

「じゃあ、もし恋海の気が変われば、そのまま転校、という形になるのかな。みんな、驚きそう」

「ん、かもね」

 言葉の歯切れが悪い。あまり乗り気ではないというのは本心のようだ。それでもはっきりと断らないのは心のどこかに魅力を感じているのかも知れない。

「景は……どう、おもう?」

「どうって……恋海の好きにすればいいと思うよ」

 それは本心だ。確かに寂しさもあるが、恋海にとっては水泳に集中出来る良い環境だし、うちの水泳部はあまりレベルが高いとはいえない。より高いレベルで練習すれば、もっと大きな成長が期待出来る。

 それこそ、私程度では届かない高み、誰も届かない速さ。名実ともに人魚姫にふさわしい存在になれる。

 二人の間に沈黙が流れた。カチカチと時計の針の音だけが部屋に響く。

 恋海は深呼吸をして、口を開いた。

「そっか……じゃあ、好きにするね」

 恋海はそれまで伏せていた真っ直ぐな潤んだ瞳を私に向けた。

「私ね、景が好き。友達じゃなくて、それ以上としてあなたが、好き」

 ゆっくりと、はっきりとした発音で紡ぐ。紛れも無い愛の言霊。

「だから、ずっと景の側にいたい……ダメ?」

「それは……」

 思いがけぬ告白に私は言葉をつまらせる。まさか恋海がそんなことを考えているとは思わなかった。

「景がいいって言えば、私は景の側にいる。青海女子には行かない。絶対に、何があっても、全力で断る」

「それは私が行くなって言えば行かないってこと?」

 恋海はコクリと首を縦に振った。

「私は水泳と景しかない。でも水泳と景なら、景がいればいい」

 私がもし、男だったら、良いと言えたのかもしれない。

 でも、私達は女の子同士で、そのことは多分、恋海も理解している。理解した上で一線を越えようとしている

 冗談ではなく、本気で。私を、私だけを求めている。

 恋海は真っ赤になりながらも、視線を私から外さない。逃げるな。決死の覚悟が伝わるような態度だった。

「本気だから。狂ってるかも知れないけど、本気だから、だから、返事、待ってるから」

 それはあまりにも濁りのないひと言だった。

 

 *

 

『返事、待ってるから』

 深夜。ベッドに寝転がっていても、恋海の声がリフレインする。

 私も恋海のことは好きだ。恋愛対象かはともかく、いつまでも私の側にいて欲しい、と思う程度には可愛い。

 手のかかる、水泳しか出来ない私だけの恋海。

 眼を閉じると過去の情景が浮かんでくる。

 水泳に出会う前、何も出来なくて、私の後を追いかけるだけの恋海。

 何かにつけて私に甘えてきて、どんなことでも私に話してくれる隠し事の無い無垢な恋海。

 愚かであればあるほど、その存在が愛おしい。

 だが、本当にそれだけの理由で彼女を縛り付けていいのだろうか。

 私が望めば彼女は私の側に友人としているだろう。

 それこそ永遠に。

 けれど、それが本当に彼女にとって幸せなのだろうか?

 私を追いかけて、くっついて、そんな他者に依存した幸福に意味があるとは考えられなかった。

 もし、私がエゴイストの男ならば、そんな依存した幸福を恋海に強要したかもしれない。

 しかし、現実には、私達は同性で、縛り付けるには私の支配欲は弱かった。

 矛盾するようだが、恋海には私の側に居て欲しいと思う一方で、もっと自由で広大なフィールドで活躍して欲しいというのも私の本心だ。

 水泳と私しか無いなんて狭い価値観で生きるのはあまりにも人間として窮屈だと思えたのだ。

 もっと色んな物を知って、いろんな喜びを知ってほしい。

 そのためには、多分、私は彼女の側にいちゃいけない。

 私がいることで彼女の価値観はどんどん狭くなっているように思う。私から離れる時期が来たのかも知れない。

 でも、側にいて欲しい。

 いくら考えても堂々巡りで答えは出ない。

 考えるのが嫌になって、天井を仰いだ。

 見上げた天井には切れかかった蛍光灯。白っぽい薄明かり。最後に変えたのはいつだっけ。まったく思い出せない。

 ぼんやりとそんなことを考えながら、私は意を決して、恋海にメールする。

 指が、震えていた。自分の選択肢が合っている保証なんてない。けれど、前に進むしか、無いと思った。

『明日、出発前に駅で会おう』

 そう打って、すぐに携帯の電源を落としてから、眠りについた。

 

 *

 

 昨夜はあまり眠れなかった。

 眠いはずなのに妙に頭がクリアで、あくびすらでないのが不気味だった。

 結局、私は考えるだけ考えて、正直、まだ迷っていた。

 休日の朝の駅はあまり人通りがない。休みくらい、皆のんびりとした朝を過ごしたいのだろう。

 駅のホームで恋海を待ち合わせることにしたのは、別の場所で会うよりも、出発ぎりぎりのタイミングのほうがお互いに後腐れが無いと思ったからだ。

 打算的な自分が少し嫌になった。

 時間より少しだけ遅れてきた恋海は制服には不釣り合いな大きなキャリーバッグを引きずっていた。

 恋海は決して大柄な方ではない。身長は平均より少し低めだし、体格もそれほど大きいという印象はない。この身体のドコに800mという長い距離を平然と泳げる体力が眠っているのか不思議で仕方がなかった。

「ごめん、景。待った?」

 少しだけ不安の混じった笑顔。弱々しく見える一方で、はっきりと意思の強い瞳を持っている。

「いや、そうでもないよ」

 お互いに言葉に詰まって、無言で見つめ合う。話すきっかけが掴みづらい。だが、進まなければ終わらない。私は意を決して口を開いた。

「恋海、その、昨日のことなんだけど」

「うん」

「ごめん、恋海。私は……そういう対象として、恋海のこと見れない」

 見る見るうちに彼女の顔に絶望のような色が浮かんでいく。

 その哀れさに、つい手を差し伸べたくなって、ぎりぎりのところで踏みとどまる。

 もし、ここで私が感情を出したら、恋海は私と一緒に居ようとする。私の動揺に気づかないほど、恋海は鈍くない。

 耐えろ、私。彼女に悟られるな。気づかれたら、終わりだ。

 彼女のように世界で戦える人間が、私みたいにつまらない人間と一緒に生きる未来を選ぶなんてあってはならない。

 たとえそれが、恋海にとって残酷なことであったとしても。

 私は、この子を抱きしめるわけにはいかない。

 だから出来るだけなんでもない風をしろ。得意だろう、そういうの。いつもそうして生きてきたんだから。心のなかで自分を叱責し続ける。

「恋海は可愛いと思うよ。でも、それは妹みたいなものでさ。その、恋愛対象とかっていうのとはちょっと……」

 恋海の瞳から、はらりと大粒の涙が零れた。

「いいよ、わかってる。景は景だから、仕方ないよ。うん、仕方ない」

 一度流れたらもうとまらない。ポロポロと大粒の涙を流しながらも、恋海は理由になっていない理由で納得しようとする。

 明らかに失望しているくしゃくしゃの笑顔がたまらなく、痛い。

「ありがとう、景。私、あなたを好きになれて、ほんとによかった、です」

 恋海は声を震わせながら、涙を拭い、私に近づくと唇を重ねた。

 触れる程度に、そっと。一呼吸にも満たないであろう時間。私達は初めて合わさった。

 初めてのキスは、塩素の匂いと血の味がした。

 これが恋海の、味。ずっと側にいたのに、知ることのなかった感触。

「ごめんね、気持ち悪かったよね。でも、これだけだから、これで忘れるから、もう、多分、二度と会うことはないから」

 恋海はそう言って、私から離れる。

「さよなら、景」

 恋海は私に背を向けて、大きなキャリーバッグを引きずりながら、改札をくぐった。

 塩素で脱色したくせっ毛を揺らしながら、背中がゆっくりと視界から遠ざかっていく。

 その間、恋海は決して振り返りはしなかった。

 これで良かったのだ。

 私は恋海と反対方向に歩いていく。

 あてもなく少し歩いて、雑踏から離れた場所にある公園の手近なベンチに腰をかける。

 舞い散る桜を払いのけながら、恋海の声を反芻する。あまりにも聞き慣れた甘い声。

 必死で努力している顔。綺麗ではないけれど、いつも私の側にくっついて、私の側にいようと頑張り続けた姿。

 そんな恋海だから、私も私でいられたのか。

 私は結局、そんな彼女の期待に応えたくて、冷静で中立な『姫路 景』であろうとしていた。

 誰かが必要としてくれているから、その期待に応えようとして人は努力するのだ。

 そんな当たり前のことに気付いて、私は声を殺して、泣いた。

 失って気付いた。あまりにも大切なこと。

――さよなら、恋海。私の初恋の人。私も、あなたが好きだった。

 この日が、私が向坂恋海と会った最後の日となった。

 

 END

久々の執筆ということで、本編よりも書くのが楽しいあとがきの時間です。


最近、百合漫画ばかり読んでいるせいか、油断すると脳がそちらの方向に飛んでいきます。百合姫楽しいです。

読んでいるうちにイケメン女子と女子力高い女子の組み合わせっていいよねということに気付いたので、自分でも書き始めたんですが、なかなか難しい。


恋海みたいな感じは今まで書いたことがないタイプのキャラだったので、四苦八苦しながら書きました。

おかげで当初とは全然違うキャラに(苦笑)

もっと女子力高いワガママな感じにしたかった。

気づけばなんかよくわかんない子になってましたね。


景ももっと葛藤させたり、困惑させたりしたかったです。


……という感じで未練もあるので、もしかしたらIFルートというか、景が恋海を求めた場合とか、それとも全く別の世界での二人の話を書くかも知れません。


それではここまでお読みくださった皆様、ありがとうございます。

ご感想、ご指摘等はこちらでもmixiでもどちらでもお待ちしています。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[一言] せ、切ないです…!この別れ以降出会う事はなかったというのも悲しいですね。この結末もしんみりしていて良いのですが、やっぱり2人が幸せになれるIFルートも見てみたいと思います。機会がありましたら…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ