月下氷人
Sans toi, les émotions d'aujourd'hui ne seraient que la peau morte des émotions d'autrefois.
君がいないと ぼくの心はからっぽ 愛の抜け殻になる。
『アメリ』 イポリト・ベルナール
『あめふり』の作者 ao様に捧げる。
サイトーサトルは武器職人だ。長年、やる気のない師匠から、とても指導とは呼べないウヤムヤな指導を受けたせいで、彼もまたやる気のない武器職人になった。腕は悪くないが、良くもない。サトルの造る武器は人気がない。やる気のない彼の指先からほとばしるウヤムヤさが、そっくりそのまま転写されたウヤムヤな性能の武器しか造らないからだ。彼の代表作である『ウヤムヤの衣』は、衣の使用者が受けたどんな攻撃もたちまちウヤムヤにして受け流し、使用者の傷を軽減ないし無効化する。だが、衣の性能が発現するかどうかすらもウヤムヤだ。『ウヤムヤの衣』は、フリーマーケットのとき、物好きな魔女に買い叩かれて持って行かれたので、手元には残っていない。
アマミヤアキラはサトルの友達だ。サトルが呼んでもいないのに、毎日のようにサトルのアパートにやってきては、頼んでもいないのに、サトルの部屋の掃除や、洗濯や、食事の準備と後片づけなんかの家事全般をやってくれる。なんだかとっても便利な友達だ。アキラと友達になったのはどんなきっかけだったのか。ウヤムヤなサトルの記憶の中からはすっかりウヤムヤになっている。アキラは最近になって、ウヤムヤなサトルに代わり、サトルの家計収支管理まで始めた。いつの間にかサトル名義の銀行口座をつくり、サトルが造ったウヤムヤな性能の武器の売上を、色々とやりくりして、コツコツと貯金をしているようだ。今までは収入があってもウヤムヤのうちに、気がついたらなくなっていたのが、ハッキリと通帳の数字として残るようになった。アキラは毎月サトルに、通帳を開いて、幾つかの数字に指を差して、今月はこれだけ使って、これだけ貯まった。来月はこれだけ貯める予定だ、と報告してくる。サトルは、すごいねぇ、と言ってアキラを褒めてやる。アキラは飼い犬みたいな笑顔をしてみせる。そんなアキラの月例報告をサトルは正直なところ、どうでもいいや、と思っている。
ある日サトルは新しい武器を作り上げた。銃だ。手のひらにすっぽりと収まるくらいの、小さな自動拳銃の形をしている。引き金と撃鉄は付いているが、排莢機構と弾倉は付いてない。弾丸を撃ち出すための銃ではないのだ。
「弾丸じゃなければ、これって、なにを撃ち出す銃なの?」
アキラの細い手首が重量のある銃に押されて筋張っている。サトルは顎の無精髭を撫でながら頷いた。
「愛だ」
「はぁっ!? 愛?」
「おう。愛だ。トリガーを引くと、銃のグリップから使用者の体温が吸い取られて、ほんのちょっとだけだから一瞬ヒヤッとするくらいだけどなぁ、その熱が銃内部の【ヒルドラレンズ】に伝播する。【ヒルドラレンズ】は一定量の熱を受けると、不可視のラヴビームを放出するんだ。ビームは銃口から発射される仕組みをとってる。んで、ビームを照射された対象は、たちまちのうちに、銃の製作者である俺へのめくるめく劣情に心焦がされるのよ。俺との面識を持たない他人でもな。まぁ、姫様や魔女みたく、めちゃくちゃ強い加護で精神を護っているような連中には、ちょっと難しいけど」
アキラは顔をしかめると、サトルに向かって銃を乱暴に放り投げた。サトルは慌てて両手を突き出し、銃を掴みとる。
「あぶねぇ! 壊れたらどーすんだべ」
「全然武器じゃないじゃん! 武器じゃないじゃん! 惚れ薬みたいな、そんな道具を造ったりして、何がしたいんだよ! 世界中の女の子のハートを射抜きたいわけ?」
「んだよ。興味ねぇよ、そんなの」
「全然意味が分かんないんだけど」
「だろうなぁ」
「バカじゃないの? バカじゃないの、サトル!」
「なんなのよ、お前。最後まで聞けよ。別に惚れ薬を作ろうってハラじゃあ、ねぇんだよ。この武器はまだ完成していない。いいか、この銃のラブビームでハートを撃ち抜かれた奴は、猫も杓子も、俺を愛してしまうわけだ」
「それさっきも聞いたし」
「で、だ。俺を愛した奴が死んでしまうような、超☆強力な呪いを俺自身にかけるんだっ!」
「はぁっ!?」
「銃の性能と対象に及ぶ効果を別々に置くわけだな。我ながら素晴らしい発想だ」
「ばっ、バカじゃないの……。メチャクチャだよ、そんなの……」
「メチャクチャでもねぇよ。この前、魔女に聞いたら、愛情に死の呪いを付加するのは割と簡単にできるんだってさ。なぁんて言ったかな、あの、たまにフリーマーケットに来てくれる魔女は。ええっと、さ、さ、さわ、なんとかさん?」
「本気で言ってんの? サトルさぁ、それ本気で言ってんの?」
「本気じゃなきゃ、こんな銃、造るかよ。へへっ、すっげぇぜこりゃあ」
「そんなことしたら、一生誰も、サトルを愛せないじゃん! それでいいの? 誰からも愛されないなんて、さみしすぎると思わないの?」
「え? いや、でも、凄いでしょ? この銃さえあれば、ほとんどの相手に勝てちゃうんだぜ?」
「別にサトル自身に呪いを掛けなくったって、いいじゃないか! 例えば、そのへんの野良猫とか、野良犬とか、ボクらの知らない、赤の他人だって、何だっていいじゃん! なんで自分にそんな、おかしな呪いを掛けようとするんだよ……!」
「お前さぁ、なに言ってんの? 武器職人がさぁ、自分の造った武器に責任取らなくってどうすんの? 犬とか猫とか、やれなくはないけどさぁ、お前、自分でひどい事言ってるって判ってるのか?」
「ひどいのはサトルだよッ! ボッ、ボクは、サトルのことを」
アキラは言葉の勢いに任せて、サトルに向かってぐっと上体を突き出した。近づいてくるアキラの、怒りに満ちた真っ赤な顔と、正体の判らない迫力に気圧されて、サトルはたじろいで仰け反った。
アキラは、サトルの耳が痛くなるほどの大声で叫んだ。
「ボクは、サトルのこと、愛しているんだからッ!」
「……ぁあ〜、そうっすか」
「ええェッ!?」今度はアキラが弾かれたように仰け反った。西川師匠ばりに飛び出した目玉で、サトルを凝視する。
「なにその反応!? なにその反応ッ!! なんなの!? ちょっ、なんなの!?」
「いやいやいや、嬉しいけどさ……」
サトルはアキラとの間に両手を突き出し、アキラに手のひらを向けながらフラフラと左右に振って、拒絶を表してみせる。
「うん、まぁ、正直なところ、俺もお前が、きっと俺のこと好きなんだろうとは思っていたんだけどさぁ。頼んでもいねぇのに、毎日毎日、飯作ってくれたり、掃除に洗濯してくれるし、金の勘定もしてくれるしさぁ。けどさぁ」
「けど? けど、なんだっていうんだよ!」
「いやぁホント、ゴメンなんだけど、俺、男に興味ないしさぁ。お前の気持ちは嬉しいけどね。でも、やっぱりゲイはちょっと、ブベラッ!?」
アキラの右フックがサトルの顔面を打ちぬいた。サトルの首が勢い良く弾かれて、彼は畳の上に倒れこんだ。紹介し忘れていたが、アキラは【スピード・スター】だ。【スピード・スター】とは、身体と精神を限りなく高速化させることに快感を得る類の能力者だ。アキラの右フックを目視で回避することは、プロボクサーでも困難だ。ましてや一介の武器職人でしかないサトルに、よけられるはずがなかった。
サトルは平衡感覚を失って畳の上になよなよと嫌倒れた。殴られた左頬を押さえながら、水底から波立つ水面を見上げた時のようなドロドロの視界ごしに、アキラを見上げる。サトルの瞳は、昭和を連想する少女漫画の潤みを含んでいた。
「て、てめぇ! いきなりなにをするんですかッ!?」
「ふざけんな、バカッ! 殴られて当然だ!」
サトルの頭が整理されないうちに、目の前の光景は、なんだかよく分からない方向へ進んでいる。サトルを殴ったはずのアキラが、なぜだかボロボロと涙を流し始めた。
「えっ? えっ? ちょっと待ってください。なぜ泣いているのですか?」
アキラはスタジオジブリを連想させる、小ぶりのミカンほどの水塊を、瞳からドバドバと落としはじめた。酒と涙にめっぽう弱いサトルは、泣きじゃっくりを噛み殺しつつ自分を睨みつけてくるアキラに何も言えず、ただ呆然と見つめる。涙越しに、アキラの瞳孔が暗闇の野良猫みたく大きく膨らんでいて、その奥では煉獄から掬い取ってきた炎がメラメラと立ち上っている。
「このクソ野郎!」
「ちょっ、なんなのよ! いきなり殴ってきたうえに、クソ野郎よばわりは、お前、いくらなんでも、おかしいだろ! 『ノーベル温和で賞』を受賞した俺でも、さすがに怒りますよ!」
「なにがノーベル賞だよッ! 殴られて当然なんだから!」
「ゴチンッ」
「ガブゥッ!? ま、またぶったね?! 師匠にもぶたれたことないのにっ! サドッ気のある元カノにしか、ぶたれたことないのにッ! この野郎!」
怒りに任せて、サトルは勢いよくアキラに飛びかかった。
ちなみに、サトルは中肉中背だ。特にこれといった運動もしていない。暇な日には、近所の釣り堀で釣り糸を垂らし、隣り合った定年過ぎのじじいと天気の話やリュウマチの話や、リュウマチに効く温泉やリハビリの話を、もう何千回聞いたか分からない同じ内容のそれらを、ウヤムヤに聞き流す日々を送っている。食事も、毎食に茶碗一杯の米と味噌と少しの野菜を食べるくらいだ。サトルの体格は別段、何の特徴もない。
対するアキラはといえば、サトルと比べるまでもなく、ほとんどマッチ棒か、あるいは友達の家で酒を飲んでいるときに出てくる、するめソーメンを思わせるくらい弱々しい体格だ。
であるからして、体格差を加味して考えれば、サトルがアキラを組み伏せるのは、随分容易なことのように思われる。しかし、アキラは前述のとおり【スピード・スター】である。アキラの能力をもってすれば、飛び掛ってきたサトルの身を退け、掴み掛かりにくるサトルの両手を避け、サトルの背後に回り込んで両脚を払い、倒れたサトルの腹の上に飛び乗って、マウントポジションを得ることは、造作もなかった。
「すいませんでした」
たった数秒の格闘の果て、アキラの尻に敷かれたサトルはゼイゼイと情けない息遣いで、鼻先で合掌しながら早々と謝罪をした。アキラの呼吸はサトルと違い、少しも乱れていなかったが、涙のせいでグジグジと湿った音を含んでいる。
アキラは自分のトレーナーの裾に手を掛けると、頭の上までぐいっと一気に引き上げて、脱ぎ始めた。
「ちょっ! なにしてんの!?」
こいつ、俺のケツを殺ろうとしているッ!
男子の貞操の危機的状況を想定したサトルは、合掌を解除し、脱ぎ捨てられようとしているアキラのトレーナーの裾を引っ張り戻そうとした。ここでもやはりアキラの素早さが優先されて、サトルの思惑どおりにはいかなかった。サトルの手が届く前に、アキラはトレーナーを背後に放り投げていた。
上半身の露になったアキラ。いや、露ではない。アキラの胸元は灰色の布切れで覆い隠されていた。サトルは見慣れないアキラの下着を目にして、アレッ? これって、もしかして。もしかすると、そうだ! これは、これはアレだ!
大胸筋矯正サポーターだ!
アキラは腕を振り上げると、不可視の速度で振り下ろし、革のようにしなる手のひらをサトルの頬へと、したたかに叩きつけた。パーティークラッカーと同じ音色が部屋中に鳴り響いた。
「そんなもん、着るかよ!」
「エ、エスパー!?」
アキラはサトルの手首を掴むと、熊のような恐ろしい力で引き寄せ、自分の胸に押し当てた。サトルの手のひらには男性諸君の大好物であるところの、固い突起物の感触が伝わってくる。アキラの顔面がたちまち上気した。
「ボクは、女だよ!」
「えぇー。ちょっと待ってよ……」
「女だよ。分かる、でしょ?」
「いやぁ……悪ぃんだが、肋骨の感触しか分からゴボォッ!」
アキラの鉄拳がサトルのみぞおちに深く突き刺さる。
サトルは胃の粘膜が剥がれ落ちる激痛と、こみ上げる吐き気に、半泣きで悲鳴を上げた。
「勘弁してくれ! 俺ァ、ダメなんだ! 騎乗位にトラウマがあるんだよッ!」
「いやだ。どかない」
アキラは、片手でサトルの手首を捕らえたまま、もう片方の手で自分のカーゴパンツを器用に脱ぎ始めた。トレーナーを脱ぎ捨てるのとほぼ変わらない速度で、アキラは下半身を丸出しにした。いや、丸出しではない。スポーツブラとお揃いの、灰色のショーツを着けている。
アキラはサトルの手を引っ張ると、今度は自分の股ぐらに突っ込んだ。
「おおお、お前なぁ……」
「どうだよ」アキラが勝ち誇ったような顔をして見せた。サトルの脳裏には、悪いことに、トラウマの記憶がさらに鮮明に蘇ってきた。
しかしながら、突っ込まれたサトルの手のひらには、アキラの股ぐらが指の腹を柔らかく押し返してくる肉感。素敵な感触にサトルが気を取られたのは確かだった。そして決定的なことといえば、アキラの股ぐらには男特有のおいなりさんがくっついていなかった。明らかな事実を前にして、だがサトルはまだ信じ切れずにいた。本当にタマタマがくっついていないのか? どこかに隠してるんじゃないの? そう考えて、サトルは色々な部分をまさぐってみた。アキラの股間を揉みほぐす効果を生む。「うっ」アキラが一瞬、背中を丸めた。タマタマはどこにも付いていない。アキラの頬から湯気が立っている。
「これでわかっただろ?」
「あぁ、もう、分かったから。充分だから、頼む、どいてくれ」
サトルの言葉に、悲しそうにうつむいたアキラは、サトルの上からどくどころか、そのままサトルの胸の上に倒れこんできた。悲鳴を上げたサトルの首筋に、アキラは唇を吸い付かせる。
「なんなんですかっ! イヤです、やめてください! 嫌ッ!」
「本当は、ボクだって、こんなんじゃなくって、ちゃんとしたかった。サトルを押し倒したりなんかしないで、逆に押し倒されたかったよ。下着だって、こんな、子どもっぽい変なのじゃなくって、もっとカワイイの着て。雰囲気だって……」
「わかった! そりゃあ尤もだ! いつか、ちゃんとしてやるから! 俺の気持ちが落ち着いたら、ちゃんとしてやるから」
「そんなのうそだね。きっと、サトルは、今ボクがこうしなくっちゃ、今後絶対に、ボクを、抱いてくれないよ。きっとそうだ」
「お前のものさしで俺を語るんじゃなぐむむむむッ!」
アキラは両手でサトルの顔を押さえつけると、強引にサトルの唇を吸った。サトルは喉の奥で怒鳴りながら抗議をするが、アキラはそんなの知ったこっちゃないと言わんばかりの、吸引力の変わらないただ一つの純粋な気持ちでキスを続けた。固く閉ざされたサトルの唇を押し開きながら侵入してくるアキラの舌先が、サトルの前歯を執拗にねぶった。
どれほどの時間、続いていたのか分からない。やっとアキラのキスから解放されたサトルが大きな息継ぎで胸を上下させる。胸の上のアキラの身体が息継ぎをする度に揺れている。アキラの鉄拳で切れたサトルの唇から漏れる血が、アキラの唇を赤く濡らしていた。
アキラは嘘のないまっすぐな目で、サトルに言った。
「サトル、愛してる」
「ちくしょう」アキラの告白に、サトルは溜息を付いた。
「ったくよぉ。これなんてエロゲーだよ」
「違うよ。ライトノベルだよ」
一体何がどうなってんだ。
夕闇の薄暗い部屋の中で、俺は両手で顔を押さえ込んだ。
アキラ? アキラなら俺の隣で寝てるよ。全裸で。
結局俺は、アキラを抱いてしまった。一線を越えちまった。
何でこんなことになっちまったんだか、全然分からない。分かることって言やぁ、俺にアキラの気持ちを退けるだけの勇気がなかったってことだけだ。いや、違う。そんな大層な原因じゃねぇ。据え膳食わぬは男の恥って言葉が、俺の意思をグラグラさせやがったんだ。男の本能が俺の理性を崩したんだ。きっとそうだ。……いや、そうなのかな? くそ、分かんねぇ! やっぱり、据え膳なんちゃらに、俺は、負けたんだ。そうとしか説明がつかねぇ。
っていうか、なんだ? 説明がつかないって、俺は一体何に説明をつけようってんだ? なんでこんな事を悩まなくっちゃならないんだ? 最初に、アキラに押し倒されたときは、ホモセックスに恐怖していた。だけど、アキラが女だってハッキリした後も、なにか得体の知れない恐怖が俺の心を満たしていた。今は、そんな気持ちは微塵も残ってはいない。どうしてなし崩しにヤッちまったかなぁってのは、残尿感みたいな気持ち悪さで心のなかに残っているけど。アキラに恐怖を感じる心は無くなっている。騎乗位のトラウマが尾を引いてただけのことか? ……もしかして、トラウマなんかじゃなくって、魔女の呪いだったんじゃねぇのか? オンナの子を好きにならないってな、ひでぇ呪い。元カノなら、それくらいやってのけそうだ。
俺の元カノは魔女だ。ひどい女だった。
当時の俺は、クソッタレのクソ童貞だった。あいつは、ちょっとした退屈まぎれに俺を引っ掛けて、遊んだだけだったんだろうな。当時の俺に、なにか男としての、いや、人としての魅力があったとは、到底思いつかない。
魔女と付き合う前、童貞だった頃の俺は、今とは比べ物にならないくらい性的にギラギラしてた。街ですれ違ったデカパイちゃんは間違いなく凝視したし、パツパツのジーンズを履いた女の尻から盛り上がるパンティーラインを見つけりゃ、意味もなく後ろをついて行ったりしてた。それがどうだ。魔女と別れてからは、すっかり気が失せた。いい女を見かけても、数秒後には頭の中からきれいサッパリ、消えちまうようになった。性欲が無くなったわけじゃなかったけどな、オナニーはたまにしてたし。
たぶん。いや、きっとアキラのおかげだ。アキラが俺をぶん殴って押し倒してくれたおかげで、俺は魔女の呪いから解放されたんだ。
俺は隣に眠るアキラの顔を眺めた。男だと思っていた時には気がつかなかったが、細い眉に、長い睫毛に、小さい鼻っ柱だし、可愛らしい口元をしてる。女だって知った途端にアキラが可愛らしく見えてくる、俺の心変わりの軽薄さよ。
愛。愛。愛してる。俺はアキラを抱いている時も、愛してるとは言わなかった。アキラは俺のことを愛してるって、何度も呟いてたな。その度に背中の毛がゾワゾワして、たまらなく逃げ出したい気分だった。愛してる。覚悟して言うような言葉じゃねぇけど、アキラに面と向かって言ってみようだなんて、想像しただけで、首の筋がピクピクしてくる。
しかしだ。1年も前からアキラが俺のことを好きだったなんてな。魔女の呪いのせいだったとしても、アキラをずっと男だと思ってたことは、今度謝ろう。今度、いつかな。こいつも、もっと早く言ってくれりゃいいのにな。自分は女で、俺のことを愛してるって。くそッ。なんだ、この、キモイ考えは。
愛ねぇ。愛。うん? なんだ、ちょっと待てよ。なんか引っかかるな。愛。こりゃあ、ひょっとすると使えるかも。
そうだ、愛だ! 誰かを愛するって力に攻撃性を乗せりゃあ、武器になるじゃねぇか!
俺は掛け布団をアキラに押しやると立ち上がり、武器製作工房に向かった。工房って言っても、俺んちはそのへんにある賃貸アパートだ。俺の工房は、自室の押入れの中にある。押入れの中敷きをブチ破いて広さを取り、中に作業台やら工具やら材料の入った小物入れやらスタンドライトやらを運び込んだだけのことだ。中敷きの破壊は敷金対象になるだろうけど、やっちまった後に気がついたから、仕方ねぇ。俺はそこで武器を造っている。狭くて、落ち着くんだ。夏場はサウナみてぇにクソ暑ぃから、使わねぇけどな。クーラーなんて持ってねえ。
「サトルぅ、サトルぅ。どうしたんだよ?」
頭の中のアイディアを固め、材料を揃えて、いざ製作開始って時に、身体にシーツを巻きつけたアキラが工房の入り口までやってきた。俺はアキラを肩越しにチラリと見て、すぐにまた作業台と向かい合った。
「起こしちまったか? 悪いな。スッゲー武器のアイディアが閃いたからよぉ、早速造っちまうんだよ。お前は寝てろ」
アキラは、ふわぁと大きなあくびをした。
「ううん。ボクも起きてるよ。サトルと一緒にいる」
「おおう、そうか」
かわいいやつめ。
「んなんか言った?」
「いいや。そんじゃ始めるべ」
アキラは製作中に細々した作業を手伝ったり、軽食のサンドイッチを作って食わせたりしてくれた。俺たちは20時間ほど掛けて、武器を完成させた。完成の後、とりあえず疲れた身体を横にして、俺とアキラは半日ほど眠った。
「サトルさぁ、どうして騎乗位をあんなに嫌がってるの? トラウマって言ってたよね」
「ああ。昔、付き合ってた女がよぉ、騎乗位が好きでな。ただ好きなだけ、ってんなら何でもないんだけど。異常だったんだよ。騎乗位で俺の上に乗っかかりながら、俺の首を両手で、思いっきり締めてきやがるのよ。窒息プレイだ。頼んでもいねぇのによぅ。男の首を締めながらヤルのが、いいんだとさ。そんなプレイに、ついていけるかよ。俺はマゾじゃねぇんだ」
「うへぇ……サトルって、変人と付き合ってたんだね。あっ、ごめん」
「まぁ事実、変な女だったからなぁ」
俺達は冷蔵庫のものが無くなったんで、買出しに出掛けた。
俺が造りあげたのは刃渡り15センチほどの刃物だ。市販のナイフを元にして造った。刀身は加工の影響で水色に輝き、氷から削り出したような外見をしている。
スーパーへ向かう道すがら、俺の武器を手の中でクルクル回転させながら、アキラが俺に聞いてきた。
「でさぁ、この武器って、どんなのなの?」
「これは、ナイフだ。相手に外傷を負わせる。元々のサバイバルナイフと切れ味は変わらない」
「えぇ? 色付けただけ? なんか特別の効果があるんでしょ?」
「あるよ。追加効果は、このナイフで『斬られた人と同等の外傷を、その人が最も愛する異性にも与える』ってやつだ。どうだべ、すげぇだろ」
「え? なんだって? どういうこと?」
「だからぁ。……お前、俺のことが好きか?」
「な、なんだよ。やぶからぼうに。もちろんすきだよ」
「あ、愛してる?」
「あいしてるよっ」
「お、おおう。そうか。じゃあ、例えばお前がそのナイフで、心臓を一突きにされるとしよう」
「なっ! ひどいよ、そんなの!」
「うわっ、まっ!? 待てよっ! たっ、例えの話じゃねぇか」
「例えでも、そんなこと、言わないでよ!」
「わ、分かった。分かったから、怒んなよ、ったく。じゃあ、そのナイフでお前の指をちょっと切ったとするだろ」
「うん。それならいい。それで?」
「そしたら、俺の指も、同じところが、同じふうに切れる」
「そうなの?」
言い終えると、アキラは革の鞘から刀身を引き抜いた。嫌な予感に、俺はアキラの行動を止めようとしたが、さすがにアキラの素早さには追いつけなかった。アキラは引き出したナイフの刀身を自分の親指の腹に押し当てると、ためらいなく引き切った。
「づあっ!?」
俺の親指に痛みが走る。鋭い切れ込みの入った皮膚から、赤い血がプツプツと玉になって出てくると、たちまち流れ始めた。自分の指と俺の指を見比べながら、アキラが歓声を上げた。
「うわぁ、本当だ!」
「おっまえ、なぁ。なんなのよ! いきなり、やめてよ! 俺ぁ、痛いの嫌いなんだよっ!」
「すっごい! 本当に切れた! 本当にきれたよっ!」
「当たり前だ! お、おい。なんだその目付きは。おいまさか」
アキラは俺に向かってニヤリと笑いかけると、ナイフの切っ先を俺に向けた。
「じゃあさ、もしサトルを切って、それと同じ傷がボクにも表れたってことになれば……サトル!」
「あ、アキラ?」
アキラはナイフを握る手を素早く振り上げ、俺に向かって突進してきた!
「ままままま、待ってぇぇ!」
「なぁんてね。冗談だよ」
両腕で顔を覆っていた俺のみぞおちに、軽い衝撃が走った。アキラがナイフを持っていないほうの手で、殴ったんだ。
アキラは微笑んでいた。それは、ちょっと寂しげなようにも見えた。
「サトルを斬りつけるなんて、出来るわけないじゃん」
「あ、あっそう。……一昨日は思いっきりぶん殴ったくせに」
「あれは、あれだよ。これはこれ。それにさ、もしサトルを斬りつけて、ボクに同じ傷が出来なかったらって考えたら……」
アキラはナイフの刀身をしまいこみ、俺に柄を差し出した。俺はアキラの顔を見ながら受け取る。アキラは視線を落としたまま、俺と目を合わせようとしない。
「そんなの、悲しいしさぁ。えへっ」
俺は舌打ちした。
アキラから受け取ったナイフを再び抜いた俺は、目をまん丸に見開いているアキラの前で、本当は痛いから、嫌なんだぜ……。でも、アキラに伝えるために、人差し指の先っぽを、ほんのちょこっとだけ、ちょっとだけ血が出るくらいだけ、切った。
「ああっ!?」
アキラが驚きの声を上げた。アキラの人差し指の先にも、俺のと同じくらいちっちゃな、切り傷ができた。
アキラは顔を上げて、潤んだ目で俺をじっと見上げてきた。
そういう目付きは、やめてくれ。
でも、言わなくっちゃならない。
俺は舌先で口内をじっくりと舐めまわし、 噛んだりどもったりしないように注意しながら、じっと待っているアキラに向かって、ゆっくりと口を開いた。
「アキラ」
「はい」
「俺は、お前を、愛してる」
「サトルっ!」
「うおあっ!? アブねぇ!」
アキラは俺の言葉が完全に終わる前に、俺に向かって飛びついてきた。俺は手にしていたナイフが、突進してきたアキラを傷つけないように、とっさにバンザイした。アキラの腕が俺の首に巻きつき、アキラの頭頂部が俺の顎先に打ち付けられた!
「ゴバッ! っぷぁああ!?」
俺は悲鳴を上げた。アキラが飛び掛ってきた衝撃で、バンザイした手から思わずナイフを放り出してしまった! そのとき偶然、歩道にいた俺達の横を軽トラックが通りすぎた。俺が放り出したナイフは、吸い込まれるように軽トラックの荷台へ乗り込んだ!
「ああーっ! 俺の、傑作の、【曽根崎心中】がッ!」
「サトル! サトルッ! 大好きだよ、ボクも大好きだよッ!」
「いいからッ、後でいくらでも抱いてやるからッ、お前のダッシュ力で、早くあの軽トラからナイフを回収してこいッ!」
「嬉しい! 愛してるよ! サトル! もう離さないッ!」
「うおおおおぉぉぉ! 軽トラアアァァッ!」
【月下氷人】
【月下氷人】は、武器職人の斉藤悟が作成した【魔剣】。元々は市販のシースナイフであるが、斉藤悟の武器加工により特殊な能力を持つ【魔剣】に造り変えられた。
月下氷人の刃渡りは15センチほど。刀身部分はアクアマリンに似た半透明の青色をしている。刀身部以外は金属製の鍔と、強化プラスチック製のグリップで構成される。グリップには滑り止めの革が巻きつけられている。
【神剣・鎧袖一触】、【神剣・小春日和】と並び称される、斉藤悟の傑作の一つ。全部で三口作成されたが、存在の確認できるものは二口である。行方の分からない一口に関して、作成者の斉藤悟は「ひょんな出来事で失くした」と語るに留めている。
【能力】
【月下氷人】の切れ味は加工前のナイフと変わらない。【月下氷人】が【魔剣】の異名を取る所以は、攻撃した対象の愛情ベクトルを解析し、対象の最も愛する異性に、対象が受けたものと同じ外傷を瞬時に与える性能にある。
例)
【月下氷人】の攻撃を受ける対象として『アダム』を設定する。
『アダム』の愛する異性として『イブ』を設定する。
【月下氷人】で『アダム』の身体を斬りつける。
『アダム』が【月下氷人】に因る外傷を負うのとほぼ同時刻に、『イブ』の身体に『アダム』が負ったものと同様の外傷が発現する。
補足)
【月下氷人】の性能は『アダム』と『イブ』相互間の距離の遠近に依存せず、発現する。
『イブ』が『アダム』を愛していなくても、『アダム』が『イブ』を愛している前提があれば、【月下氷人】の能力は『イブ』に対して発現する。
『イブ』が『アダム』と全く面識を持たなくても、攻撃される対象の『アダム』が『イブ』を認知し、愛している前提があれば、『イブ』には【月下氷人】の能力が発現する。
懸案事項)
【月下氷人】で攻撃された対象の愛情ベクトルの強度が、どの程度の度数を超えた時点で【月下氷人】の能力が発現するのかは、定かではない。作成者である斉藤悟自身が「そもそも愛情の大小を測る単位がないので判らない」と述べている。斉藤悟の言葉から、【月下氷人】の性能が発現するか否かは、【月下氷人】自体が何らかの意図を持って分別していると推測される。そのため【月下氷人】には、作成者である斉藤悟や使用者とは全く別の、独立した意思があると考えられている。作成者である斉藤悟は【月下氷人】に独立した意思があるという説を否定している。しかし、その根拠は明らかにしていない。
その他)
【月下氷人】の性能は、攻撃された対象の愛情ベクトルが異性に向いている時にだけ発現する。つまり、同性愛者や、動物愛者、対物性愛者に対しては、通常のナイフとしての攻撃性しか発揮しない。これに対して作成者の斉藤悟は「作った自分が異性愛者だから」と述べ、【月下氷人】の能力の限度を認めている。
作成された【月下氷人】のうち一口を所有する魔女は、武器の性能を用いた恋占いの館を営んでいる。恋占いの館は、下は小学生から、上は還暦を過ぎた熟年まで、幅広い年齢層の女性に人気がある。
名称の由来)
名称の由来は以下のとおり。
「お前……。間違いなく俺の最高傑作になった【曽根崎心中】が、たった半日でどこか知らない世界に旅立っちまったじゃねぇか……」
「だから、ゴメンってば。さっきから謝ってるじゃん。ていうかさぁ、なにそのダサい名前?」
「はぁ!? 俺の素晴らしいネーミングセンスに、ケチつけんの? アキラの分際で!」
「なっなんだよ、分際って。だって、ダサいよ。どうせなら横文字にしなよ。だいたい、なにその、そ……なんちゃら心中って」
「知らねぇのか? ガキの頃社会史で習っただろ! 浄瑠璃だよ、浄瑠璃! 禁止令が出たくらいスッゲェやつだぜ?」
「知らないよ。憶えてない。やっぱ横文字にしようよ。例えば、さぁ」
「例えば、なによ」
「ハート・アタッカーとか、ハート・ブレイカーとか。なんか、ハート的な」
「おま、正気かよ。今更そんなネーミングセンス、小学生だって持ってねぇぞ!」
「な、なんだよ! いいじゃん! そねなんとかみたいな、ワケ分かんないヘンな名前よりも、ずっといいよ! かっこいいよ! サトルこそジジイみたいな、変なセンスじゃん!」
「アキラ! 俺はいいとして、お前、近松先生の悪口だけは、許せねぇぞ! この洗濯板クラスのド貧乳が!」
「せっ、洗濯……サトルッ!」
「ガブゥッ! す、すいませんでした」
「んー、じゃあさー、ボクがサトルの好きっぽいのを考えてあげるよ。うん。そうだ! これなんていいんじゃないの?」
「はやっ。本当に考えてんの?」
「うるさいなぁ、ボクのインスピレーションは光速なんだよ」
「なによ。ジャンク・オブ・ザ・ハートとでも?」
「ああ、それいいんじゃないの? それでいいよ」
「なんだよ。言えよ」
「うん。【月下氷人】ってのは? 縁結びの神様だよ」
「ああ。おお。【月下氷人】ねぇ。いいじゃない。それにしよう」
「軽っ!」
「よし、決まりだ」