FILE36「もう逃げない」
視界は、白で埋まっていた。
先程まで、ベッドの上に座っていたハズなのに、気が付けばこの空間の中にいた。夢にしては妙に意識がハッキリとしているため、最初は噂に聞く「明晰夢」というやつなのかとも考えた……が、この空間と雰囲気には覚えがある。
「まさか……」
呟き、家綱が振り返った先で、五人の男女が家綱の方を見つめていた。
「お前ら……」
葛葉、アントン、晴義、ロザリー、そして纏。己が人格である五人が、自分に対して悲しげな視線を送っている。それに気づいて、家綱がどうかしたのか? と問いかけようとした――その時だった。
金髪の青年、アントンが家綱へ駆け寄ると、その右拳を思い切り家綱の顔面へ叩き込んだ。
アントンの表情は、アントンの性格からは想像も出来ない程に怒りで醜く歪んでおり、家綱を殴り飛ばした後も、右腕はブルブルと震えていた。
「アントンっ!」
背後から聞こえる、葛葉の悲痛な声にも、アントンは耳を貸さない。右腕を震わせながら、ただ家綱が立ち上がるのを待っていた。
「テメエ何を……」
「家綱サン、見損ナイマシタ」
静かに、しかし確かな怒気の込められた声。
「貴方ガソンナヘタレ野郎ダッタナンテ思イマセンデシタ!」
「やめてアントンっ!」
今にも襲いかからん勢いで家綱へ罵声を浴びせるアントンを、葛葉が後ろから羽交い絞めにして止めるが、アントンは憤懣やるかたない、といった様子で家綱を睨みつけている。
「一体何がなんだってんだよ……」
悪態を吐きながら立ち上がった家綱に、次に向けられたのはロザリーの冷ややかな視線だった。
「私、今までこんな愚図に良いように使われていたかと思うと、虫唾が走りますわ」
歯に衣着せぬロザリーの物言い。意図せずして、家綱は眉をひそめていた。
「だからモテないんじゃないの?」
普段と変わらぬ軽口。そうとも取れなくはなかったが、晴義が今家綱に向けている視線は驚く程に冷たかった。
四面楚歌。
いつの間にやら、そう言っても過言ではないような状況が出来上がっていた。
「ねえ」
言いつつ、纏はゆっくりと家綱に歩み寄っていく。
「どうして、由乃ちゃんと離れたの?」
家綱の目を真っ直ぐに見据え、纏は問うた。が、家綱は答えにくそうに纏から視線をそらすだけだった。
「由乃ちゃんは貴方の……私達の大切な『家族』じゃなかったの?」
「こうすんのが……一番だった」
彼女を、危険に晒さないためには。
彼女を、守るためには。
こうするしかなかった。
「俺がいれば、由乃が危険に――――」
家綱がそう言いかけた――その時だった。
「おい、こっち見ろ」
後ろからグイッと。家綱は胸ぐらを掴まれた。抵抗するも、強い力で引っ張られ、家綱は強制的に後ろを振り向かせられた。
「お前……」
家綱の胸ぐらを掴んだのは、セドリックだった。
荒々しい風貌、逆立った赤い髪。今まで悲哀に満ちた怒りで歪んでいたその顔は、しばらく見ない内に多少優しく見えるようになった気はするが、やはり怒りで歪んでいた。その怒りが「いつもの怒り」と違うものである、ということに、家綱はセドリックの顔を見た瞬間に察した。
何か言おうと家綱が口を開きかけたが、その瞬間に家綱の顔面にセドリックの拳が叩き込まれた。
胸ぐらを掴まれているため、固定されている家綱の身体は、殴られて衝撃を受けてもあまり動かなかったが、その代わりに首から上が派手に後ろを振り向くような形で動かされた。
「何しやがる……!?」
口の中が切れたらしく、家綱の口の中では唾液と血液が混じっていた。家綱はソレを吐き捨てると、鋭くセドリックを睨みつける。
「この現状の……どこが一番だ……?」
由乃のことだと、すぐに家綱は理解した。
「俺が離れりゃ、アイツは絶対に安全なんだよ……! だから、離れんのが一番だろ……!」
そう言って、家綱は悲しげにうつむいて語を継いだ。
「もう……嫌なんだよ……失くしちまうのは……。アニキみてぇに、俺のせいで『家族』を失うのは……もう沢山なんだよ……!」
セドリックを制御し切れなかったせいで、自分を助けてくれた――居場所と名前を与えてくれた七重家光を失った。そんな風に、自分が原因で家族を失うのは……もう沢山だった。
「失わないためなら、何だって――」
家綱がそう言いかけた瞬間、再び家綱の顔面にセドリックの拳が食い込んだ。
「家綱君っ!」
悲痛な声を上げ、駆け寄ろうとした葛葉を、纏は何も言わずに制止した。
手を出すな。言外に纏は葛葉へそう告げていた。
「ふざけるな……」
セドリックは家綱の胸ぐらを掴み上げ、更に強く家綱を睨みつける。
「失わないためなら何だ……何でもするのか!?」
「ああやるよ! やってやるよ! アイツと離れることくらい、アイツを失わねえためなら辛くもなんともねえッ!」
家綱のその言葉に、セドリックは再び拳を振り上げた――が、そこで拳を止め、プルプルと震わせながらセドリックは耐えていた。
「逃げてんじゃねェッ!」
セドリックのその言葉に、家綱は表情を一変させた。
逃げ。
自分のしていることは逃げ……?
逃げ……かも知れない。否、逃げだ。
家綱自身、薄々と気づいていた。これは逃げだと。
それでも、それでも逃げ続けた。
恐れた。失うことを。
恐れた。後悔することを。
それなのに結局、また後悔することになっていた。本当にこれで良かったのか、彼女と離れたことは本当に彼女のためになっているのか。
答えが出せず、沈み続けた。
沈んだ底で、呼吸が出来なくて苦しいハズなのに、未だに浮かび上がろうとしない。ただただもがいて、この選択は正しかったのだと自分を無理矢理に正当化し続ける。
滑稽だ。
わかっては、いる。
今更誰かに言われなくたって、自分自身がよくわかっている。
すぐに家綱の表情は、自嘲めいたものに変わった。
「失いたくねぇなら……守りてぇならッ! テメエが傍にいてテメエの手で守りやがれッッ!」
ポカンと。家綱は口を開けたまま唖然とした。
そんな家綱の胸ぐらを放すと、セドリックは家綱へ背を向けた。
「俺が面白ぇと思ったのは……こんな窮屈で不自由な状態でも悪くねえと思ったのは、こんなヘタレ野郎と同じ身体で過ごす環境のことじゃねえ」
守る。
由乃を、守る。
それは決して、逃げることじゃない。
離れることなんかじゃ、ない。
――――何やってんだよ……俺……。
逃げてるだけだ。
恐れてるだけだ。
答えが出ない?
だから何だ。
「俺が欲しがってる答えは……逃げを正当化出来る理由だったんだな……」
そう呟いた家綱の前に、不意にアントンが歩み出る。
「家綱サン、サッキハスイマセンデシタ。デモ、私モセドリックト同ジ気持チデース」
ゆっくりと。アントンは右手を差し出した。
それが和解の握手を求めることだと気づき、家綱はその右手を強く握った。
「やれやれ……女の子をずっと独りぼっちにするなんて、考えられないね」
そう言って肩をすくめた晴義の目は、先程のような冷たい目ではなかった。
いつもの、憎まれ口だ。
「しっかりして下さいまし。まったく……こんな間抜けな探偵の帰りを待っているなんて、由乃も大変ですこと」
豪奢な扇子で自身を煽りつつ、ロザリーはすました表情でそんなことを言った。
「家綱君……」
そっと。葛葉が家綱の傍へ歩み寄る。
「行ってあげて」
懇願するような葛葉のその表情に、家綱は強く頷くことで答えた。
「やるべきことがあるでしょう? いつまでこんな所で油を売っているつもりなのかしら?」
「悪いな。だらしなくってよ」
笑みを浮かべつつそう答えた家綱を見、纏は微笑した。
「行かねえと、な」
急速に、落ちて行く。
まるで地面へ吸いつけられるかのように……。
いや、実際私達は重力で地面に吸いつけられてる。二足歩行で重力に逆らって生きている私達人間だけど、空中で重力に逆らえるような力を人間は持ってない。
このまま地面に落ちたら、死んじゃうんだろうな。
そう悟った途端、私の頭の中を一瞬で様々な映像が駆け巡った。
和登家のこと。
家綱と出会ったこと。
色んな事件のこと。
セドリックのこと。
リジェクターのこと。
家綱がいなくなってからの、こと。
走馬灯のように、っていうのがどういうことなのか理解した頃には、私の目には涙があふれていた。
最後に、一目だけでも良いから……会いたかったよ。
家綱……
「家綱……家綱……家綱家綱家綱……家綱ぁぁっ!」
力いっぱい、叫んだ。
もう死ぬのに。
意味なんてないのに。
見なくたってわかる。地面はもう、目前――――
背中から、温もりに触れた。
優しくて、暖かくて、力強くて、懐かしくて、でもどこかちょっと頼りない。
懐かしい匂いが鼻の中に広がって、信じられない程幸福感で満たされて。
地面へと一直線に落ちていたハズの私の身体は、優しく受け止められた。
「え……嘘……」
見上げた先には、ずっと探していたものがあった。
「よう、待たせたな」
あふれていた涙が、一気に弾けるようにして流れた。
だらしなくて、アホで、金遣いが荒くて、ギャンブル好きで、お人好しで、強くて……優しいアイツ。
「バカ……! 間抜け! ダメ人間! なんだよ今更っ!」
「……悪かった」
ソイツは、申し訳なさそうにそう答えた。
「私が……私がどんな想いだったか……!」
「すまねえ……」
謝るばかりで、言い訳を一つもしようとしない。
「色々……あったんだ……」
嗚咽混じりになりつつも、私は必死で言葉を紡いだ。
「家綱の代わりに……探偵を頑張って……たんだ……! 色んな事件も……解決したし、赤字だった事務所も……なんとか黒字にしたんだよ……? 背も、ちょっとだけ伸びたし……ほんのちょっとだけど、胸だって……大きくなった……前より女の子っぽくなって……それから……それから……っ!」
要領を得ない、ただの報告だった。
だけどソイツは、口を挟まずにずっと聴いていてくれていた。
感情があふれてあふれて、せき止められない。
色々、あったんだ。
アイツがいなくなってから、色々あったんだ。
アイツがいなくなって、ボクはずっと――――
「寂しかった……っ!」
申し訳なさそうに私を見た後、ソイツは少しだけ微笑んで見せた。
まるで、私を安心させようとしてるみたいに。
「すまねえな。もう、どこにも行かねえ。もう、逃げねえ」
ゆっくりと私を降ろして立たせると、ソイツはポンと私の頭の上に手を置いた。
「ただいま、由乃」
「お帰り……家綱」
やっと、会えた。