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七式探偵七重家綱  作者: シクル
第一部
20/38

FILE20「和登岩十郎 下」

 ボクが事務所に戻ると、家綱は自分のデスクに座り込んだまま、珍しく真剣な表情で何かを考えていた。いつもならダルそうに突っ伏しているというのに……。

 ふと、接客用の机の上に、空になったコーヒーのカップが置いてあることに気が付いた。カップに触れると、まだ少し温かくて、つい先程まで中にコーヒーがいれてあったことがわかる。

「……誰かきてたの?」

 ボクの問いに家綱は、すぐには答えなかった。

 しばらく逡巡しているような表情を見せた後、家綱は依頼人だ、と小さく答えた。

「依頼人? 何か依頼があったの?」

「ああ……。湯杉って男から、な」

 湯杉。聞き覚えのあるその名前にボクが顔をしかめると、家綱はまるでヒントでも与えるかのように、和登グループ、と呟いた。

「湯杉ってあの……執事の湯杉さん……?」

 幼い頃随分と世話になった老人の顔が脳裏を過った。

「和登グループの湯杉ってじいさんがな。多額の報酬を払うってよ」

「……そうなんだ。どんな仕事?」

 わかっているのに。

 今日この日、このタイミングで、和登グループの人間が何を頼むかなんて。

 それでも、ボクは問うた。

「お嬢様を……和登由乃を和登グループへ返してくれってさ」

 予想通りのその答えに、ボクはそうなんだ、としか返さなかった。

 しばし、その場に沈黙が訪れる。外は徐々に日が落ちつつあるのか、真っ赤な夕日の光が、窓から事務所の中に差し込んだ。

 真っ赤に染まる事務所の中、ボクは静寂を破って口を開いた。

「それで、どうするの?」

「さあな」

 家綱の言葉は、ボクが想像したどれとも違う、随分とアバウトなものだった。引き止めるわけでも、湯杉さんの所へ行けというわけでもなかった。

「そ……っか」

 気が付くと、ボクが視線を向けているのは家綱じゃなくて、足元の床だった。

「お前が決めろ」

 俺が決めることじゃない。そう、家綱は小さく付け足した。

 家綱のその言葉を最後に、再びその場に沈黙が訪れた。お互い口を開かないまま、静かに時間だけがゆっくりと過ぎていく……。でもその沈黙に、昔のような心地良さは感じなかった。

「家綱……」

 沈黙を破ったのは、またしてもボクだった。

「今日さ……妹に……友愛にあったんだ」

 うつむいたまま話すボクに、家綱は何も答えない。

「ボクが逃げ出して、そのせいで後継者としてボクより辛い目にあってたっていうのに、友愛はボクをちっとも恨んじゃいなかったんだ……。多分、ボクは今から戻っても、今更後継者としては育ててもらえないよ」

「……そうか」

 短い返答ではあったけれど、決してそれが素っ気ないものではないことは、家綱の声音から理解出来た。

「もう和登家あそこは、前みたいに逃げ出したくなるような場所じゃ、なくなってるみたい」

「……そう、か」

 同じ、返答。

「ボク、どうすれば良いのかな……?」

 うつむいたままそう問うてみるけど、家綱は何も答えない。ボクは顔を上げることが出来ないまま、言葉を続けた。

「そろそろ、戻るべきなのかな……元の、生活に」

 ビックリする程大きな家で、この事務所じゃ考えられないような贅沢な暮らし。恵まれた環境、望めば大抵のものは手に入る……そんな、生活に。

 ボクがあの家を出たのは、後継者として育てられるのが辛かったから。なりたくもないもののために、辛い思いをするのが、嫌だったから。

 今ボクがあの家に戻っても、もう辛いことは強いられない。それどころか、今よりずっと楽で裕福な暮らしと、前より仲良くなれそうな妹と、昔みたいにまた優しくしてくれるに違いない、湯杉さんや使用人の皆が待っているだけだ。

 ボクは、和登家に戻るべきなのかも知れない。

 そんな思いが脳裏を過った――その瞬間だった。

「ん……?」

 事務所にある古い電話が、けたたましく着信音を鳴らし始めた。電話の元へ駆け寄ろうとするボクを片手で制止し、家綱はゆったりとした動作で電話の方へ向かい、受話器を取った。

「……もしもし」

 静かに応答した後――家綱は表情を変えた。

「……はい、わかりました……はい、伝えておきます」

 そしてどこか沈んだ声音でそう言って、家綱は静かに受話器を戻した。

「……誰から?」

「湯杉さんからだ」

「湯杉さんから……?」

 ボクが訝しげな表情を見せると、家綱は答えにくそうに視線をボクから逸らした。けど、数秒後にはボクへ再び視線を戻し、真っ直ぐにボクの顔を見据えた。


「和登岩十郎……お前の父親が、最後にお前に会いたがっているらしい」


 その言葉に対して動揺を隠せないボクとは裏腹に、家綱は落ち着いた様子でデスクへ戻った。

「最後にって……最後にって何だよ……」

「容態が急変したらしい。今は意識を失ってるらしいが、意識を失う前に必死にお前を……由乃を呼んでいたらしい。もしお前が父親に会うつもりなら、罷波駅に来いってよ。湯杉さんが車で待ってる」

 まるで雷にうたれたかのような衝撃に、ボクは驚くことすらままならないまま、ただ唖然とした表情で突っ立っていた。

 どんな顔をすれば良いのかわからない。

 どんな言葉を言えば良いのかわからない。

 何を考えれば良いのかわからない。

 真っ白になりつつある頭は、思考すら手放そうとしていた。

「急過ぎるよ……わけわかんないよ……!」

 家綱は何も言わず、ただ黙ったままボクへ視線を向けていた。

「ボクは……ボクはお父さんのこと……全然、好きじゃなかった……むしろ嫌いなくらいだったよ! 急に死ぬなんて言われても……」

 ボクは、どうすれば。そう言おうとしたけれど、震える唇はうまく言葉を紡いではくれなかった。

 そんな中、静かに家綱は口を開いた。

「それで、お前はどうするんだ……?」

 どうすれば良いのかわからない。いても立ってもいられないハズなのに、ボクの足はどうしてか、この事務所を出ようとしなかった。

 答えないボクに、家綱は問いを重ねることも、決定を促す言葉をかけることもしなかった。ただ黙って、静かに待っている……それだけだった。

 今日何度目ともわからない沈黙。そんなことをしている間にも、お父さんが死にかけているのかと思うといても立ってもいられない。そのハズなのに、ボクの中には迷いがあった。

 ボクはお父さんが嫌いで、それで――

 いや、違う。そうじゃない。

 そうじゃないんだ。

 理由はそうじゃない。

 わかってる。わかってるハズなのに、ボクはわからないフリをしているだけだ。

 ボクは――

「俺にはな」

 不意に、家綱が口を開いた。

「肉親がいねえ。一応人間みてぇな姿をしちゃいるが、実際はふざけた研究の結果で生まれたバケモンだ。だから、家族が死ぬ時の心境なんか、これっぽっちもわからねえ」

 けどな。そう付け足し、家綱はボクが言葉を挟むよりも早く語を継いだ。

「家族が死んだ時ってのは、俺にとっちゃアニキが死んだ時くらい悲しいモンなんだと思う。俺みたいなのが何言ってんだって思うだろうけどな、俺にとってのアニキは、きっと『家族』くらい大切だったハズなんだ。いや、アニキだけじゃねえ……お前も――由乃もな」

「ボクが……?」

 うつむいたままそう問うたボクに、家綱はああ、とだけ答えた。

「もしお前が今にも死にそうで、もし今すぐにでも俺に会いたいって言ってくれてんなら、俺は迷わず行く。他の何を犠牲にしてでもだ。肉親の……家族のいない俺が言うのもなんだし、間違ってるかも知れねえけどな……『家族』って、そういうモンじゃないかって、俺は思ってる」

 家族……。ボクの、家族。

 脳裏を過るのは、友愛や、湯杉さん、お世話になった使用人の皆、ボクが小さい時に死んじゃったお母さん、厳しかったお父さん、そして――家綱。血は繋がってないけど、ボクにとっても家綱は……家族だ。

 わかってる。

 ボクがお父さんの所に行こうとしないのは、お父さんが嫌いだからなんかじゃない。

 ボクは、怖いんだ。

 ここを離れて、お父さんの所に行って、そのまま――和登家に戻って、家綱と『家族』じゃなくなっちゃうのが、怖いんだ。

 和登家に戻っても、家綱に会うことはいつでも出来る。毎日だって会える。町内だから。通いさえすれば、今まで通り助手だってやれる。でも――今みたいにはきっと出来ないんだ。今みたいな関係には、きっと戻れなくなる。ボクの日常から、少しずつ家綱は薄れて……消えて、なくなっちゃう。

 いつかは確実にそうなる。それはボクだってわかってる。それが遅いか早いか、それだけの話。だけど――


 ボクは、家綱の傍から離れたくなかったんだ。


 このままだと、離れてしまいそうで。

 結んでいた糸が、解けてしまう気がして。

 遠く――――なっちゃいそうで。

「ボクが行ったら、もうここには戻ってこられないかも知れない」

 家に、戻りたい。

 その気持ちも、本当で。

「ボクは今まで、家族から逃げたくてここにいたんだ」

 家綱の傍に、今まで通りいたい。

 その気持ちにも、偽りはなくて。

「でもボクは……ホントは……帰りたかったんだ。七重探偵事務所ココが嫌なんじゃない。むしろ大好きだ。だけど、ボクは……」

 家族も、大好きなんだ。

 辛くて逃げた。だけどあそこは……ボクが生まれ育ったあの場所は、本当は、大好きなんだ。

「行きたいん……だろ?」

 家綱の問いに、ボクは答えなかった。ただ顔を上げて、家綱の方を見ることしか出来ずにいた。

 家綱はそっとソフト帽を手に取ると、天井を見上げつつ、右手で持ったままソフト帽を顔にかぶせた。

「行け……よ」

 途切れ途切れになっている家綱の声は、泣いているようにも聞こえた。

「家綱、泣いてるの?」

「……うるせえ。さっさと……行けよ」

 ソフト帽で顔を隠したまま、家綱は素っ気なくしているかのようにそう答えた。

「ごめん、家綱」

 ありがとう。

 そう言い残して、ボクは事務所を飛び出した。



 ただがむしゃらに、走り続けた。

 湯杉さんが待ってる、罷波駅まで。

 何度も誰かにぶつかりかけながらも、ボクはただひたすらに走り続けた。

 気が付けば、ボクの頬はびしょびしょに濡れていた。滲んで、前がよく見えない。

 それは別れを惜しむ涙だったのか、それとも父を想っての涙だったのか。ボクにも、よくわからなかった。

「お父さん……っお父さん……っ!」

 いつの間にか、嗚咽混じりに喉からあふれていた言葉は、「お父さん」だった。

「お嬢様!」

 駅では、家綱の言った通り湯杉さんが待っていた。友愛が乗っていたのと同じような、黒い車から慌てて飛び出すと、湯杉さんはボクの方へ駆け寄ってきた。

「湯杉さん……! お父さんは……お父さんはっ!」

 まるで叫ぶようにそう言ったボクを落ち着かせようとする湯杉さんの手は、震えていた。





 沈みつつある赤い日が窓から差し、事務所の中を真っ赤に染めている。赤に満ちたその場所で、家綱は静かに頬を濡らしていた。

 静寂に包まれた世界。

 涙で滲んだ視界は、黒いソフト帽によって塞がれたままだった。

「じゃあ……な、由乃……」

 涙交じりのその声は、やがて静寂に飲み込まれて、誰にも届くことなく、消えた。





 ボクがその病室に辿り着いた時には、既に全てが終わっていた。

 病室からは人が払われており、部屋の中にいるのはボクと、湯杉さんと、友愛、そして――


 顔に白い布のかけられた、動かぬ父親だけだった。


 もう沢山泣いた後なのか、友愛の顔には涙の後が残っていて、彼女はもう涙を流していなかった。

 湯杉さんは、涙を隠すようにしてボクの隣で顔をそむけ、そしてボクは――膝から、その場へ崩れた。

「何で……嘘でしょ……ねえ、何かの冗談でしょ……嘘だって、言ってよ……ねえ」

 友愛と、湯杉さん。二人の顔を交互に見比べても、答えはなかった。

「ボクは……ボクはまだ、何も……!」

 何も、出来ていない。

「お姉様に、お父様からの……遺言が、あります……」

 今にも泣き出しそうな、奮えた声で、友愛はポケットから一枚のメモ用紙を取り出しつつそう言った。

「『お前には、すまないことをした。最期に謝りたかった』」

 何だよそれ。

 謝るって何だよ。

 ホントに、ホントに謝らなくちゃいけないのは――ボクなのに。

「『だが、お前を愛していた。お前も友愛も、本当に大切な……』……っ大切な……『娘だった』……!」

 嗚咽混じりになる友愛の声に耳を傾けながら、ボクは涙を流した。

「『不器用で、すまない』……あんな……っ『あんな形でしか』……っ『表現』……できっ……『出来なくて』……『すまない』……」

「お父さん……っお父さん!」

 気が付けばボクはお父さんに駆け寄って、必死に身体を揺さぶっていた。

 起きるハズがないのに。

 わかっているのに。

 その冷たい身体は、もう動かないって、わかっているのに。

「『これからは』……っ『お前の』……お前の……! 『好きなように』……『しなさい』……『お前が家出してから』……『捜さなかったのは』……っ『ずっとお前を縛り付けていた』……『ことを』っ……『悔やんでいたからだ』……」

 生んで、育てて、たったそれだけでも大き過ぎる恩なのに。

 これだけ想ってもらっていてボクは……ボクは何も……

「『由乃』……ゆ……ゆっ……『友愛』……っ……! 『愛』……『して』っ……『いる』……っ」


 ボクは何一つ、返すことが出来なかった。


 自分のワガママばかりを押し通して、迷惑ばかりかけていた。

 お父さんのやり方は、間違っていたかも知れない。ボクにとっては、逃げ出したくなる程苦痛だった。だけど、だけどそれでも……ボクを愛していてくれたことに、変わりはなかったんだ。

 悔しい。

 何も出来なかった。

 何一つ返せなかった。

 最後に、最期に顔を見せてあげることさえ、出来なかった。


 今更悔やんだって意味がないのに、悔しくて悔しくて、仕方がなかった。





 いつものドアを、いつものように開ける。そこから見える景色の中で、アイツはいつも通りデスクについていて、ボクに気が付くと、アイツは目を丸くして驚いた。

 涙の跡が残ったその顔で、アイツはボクを凝視していた。

「ボクは、お父さんの遺言通り、ボクのしたいようにすることにするよ」

 その言葉を聞いて、アイツの表情に少しだけ影がさした。察したんだと思う。

「向こうの方が、良いんじゃねえか?」

 デスクに右ひじをついて、右手で顔を覆いながら、アイツはボクにそう問うた。

「そうだね。ここは給料安い上に中々くれないし、誰かさんのいびきはうるさくて夜は寝つきにくいし、おまけにその誰かさんはサボり癖がついてて、見張ってないとちゃんとしないときてる」

 だけど。

「だけどボクはココにいたい。家綱はボクの家族で、ボクは家綱の家族だ」

 勿論、友愛や湯杉さんだって、家族だよ。でも家綱も、ボクの家族なんだ。

「家族から逃げるためにココにいるんじゃない。ボクは、ボクがココにいたいと思ったからココにいることにする」

 これからは、お前の好きなようにしなさい。

 縛り付けて、好きなように……自由にすることを許さなかった父からの、最初で最後の許可。

 甘えた考えかも知れない。

 本来なら、父のために跡を継ぐとか、そういうことをするべきなんだろうなって、自分でも思う。

 でもボクは、ボクのしたいことをする。父からの最後の許可プレゼントを、大切にする。

 きっとボクはいつか、和登家に戻る。それはいつになるのかわからないけど、いつかきっと。だから、だからそれまでは――ボクの好きなようにする。

「駄目かな?」

 そう問うたボクの方へ、家綱アイツは視線を向けなかった。

「良いんじゃねえか?」

 けど、右手で顔を覆ったまま、家綱はそう答えた。

「おかえり……由乃」

 そう言った家綱に、ボクは精一杯笑って見せた。それは、顔を右手で覆っている家綱には、見えてなかったんだろうけど。

「ただいま、家綱」



 ボクの家は、二つある。

 家族も、二つある。

 どちらにも「ただいま」って言えるなんて、すごく素敵なことだと思うんだ。

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