FILE19「和登岩十郎 上」
「よぉ、何してんだ?」
一人ベンチに座る私に、その男は軽い口調で話し掛けてきた。その言葉を無視するようにそっぽを向いても、男は立ち去らずにそこへい続けた。
「アンタみたいなお嬢様が、こんな所にいて良いのか?」
「貴方には関係ない」
問うてきた男へ、突き放すように私がそう答えると、男は小さく嘆息した。
「家に帰らなくて良いのか?」
いい加減しつこい。そう思いながらも、男の言葉に答えるために口を開いている私がいた。
「私は……あそこにいたくないし、いるべきじゃない」
「……そうかい」
男は呟くような声音でそう答えると、私の隣へ座った。
「何で隣に座るんですか」
「ここは公園で、このベンチは公共のモンだ。アンタのモンじゃない……だろ?」
ニッと笑みを浮かべてそう答える男に、私は溜息を吐いた。
それから、どれくらいの時間が経っただろうか。黙ったまま座る私と、隣の男。赤の他人ではあったけど、何故か彼の隣は、居心地が悪くなかった。
やがてその沈黙を私が心地良く感じ始めた頃、男は口を開いた。
「家以外に行くあてがないのか?」
関係ない。男の言葉に私がそう答えると、再びその場に沈黙が訪れた。
男は何も言わず、ただ黙ったまま私の隣に座り続ける。その隣で私もまた、同じように黙ったまま座り続けている。時折長い自分の髪を指でつつきながら、そんな静かな時間を過ごしていた。
風が、吹いた。
私の髪を舞わせたその風に飛ばされぬよう、男はかぶっているソフト帽を右手で押さえた。
「俺はこの町で探偵をやってるんだが、今助手がいなくてな」
「……だから何?」
突然そんなことを言い始めた男に、私は訝しげな視線を向けた。
「行くあてがないなら……うちで助手、やらないか? 泊り込みでな」
思いがけない男の提案に、私は目を丸くした。
「給料はちゃんとあるしな……どうだ?」
その男の言葉に、確か私はその時――
「考えとく」
そう、答えたんだ。
由乃不在。その退屈さが、家綱をいつも以上にダラけさせていた。
由乃がいてもダラけているというのに、由乃がいないとなると尚のこと表情は緩くなり、何もせずデスクへ突っ伏している時間は長くなる。仕事がないせいだと言えばそれもそうなのだが、あまりにもダラけているその様子は、これまで幾つもの事件を解決してきた探偵には到底見えない。
ちなみに由乃は、新聞や生活用品を買うために出かけている。
「パチンコ行きてぇ……」
由乃がいればどつかれてしまうようなことを口にし、家綱は由乃のデスクへ視線を向けた。
あの中には、由乃が管理している事務所の金が入っている。事務所の維持費やら生活費やらが丁寧に管理されているあのデスクの中には、パチンコで何時間も遊ぶことが出来るような金が入っている。
「ちょっとくらい……なぁ」
そんなことを呟いて立ち上がり、由乃のデスクへ歩み寄っていく。
「ちょっと……だけ……」
そして引き出しを開けようとして手をかけた――その時だった。
トントンと軽く叩かれたドアの音に、家綱はまるで親に悪戯が見つかった時の子供のように肩をびくつかせた。
慌ててデスクから離れ、接客用のソファに座り込み、家綱は何事もなかったかのようにはいどうぞー、とドアの方へ声をかけた。
ガチャリとドアが開き、中へ入ってきたのはビシッとしたスーツに身を包んだ白髪の老人だった。
「七重家綱様でございますね?」
馬鹿丁寧な言葉使いに心の内で苦笑しつつも、家綱ははい、と答える。
「和登グループのものです」
「――!」
老人のその言葉に、家綱は表情を一変させた。
必要なものを必要なだけ買い、ボクはスーパーを出た。ここ最近報酬の多い事件ばかり解決してきてはいるものの、うちの生活が苦しいことには何ら変わりない。隙があればすぐにでも競馬やパチンコで金を撒き散らす家綱がいる限り、うちの生活は楽にならないと思う。切実に。
事務所の、ボク用のデスクの中には、ボクの管理している事務所のお金が入っている。もしかすると家綱は、ボクのいない間にそのお金を……。と、そこまで考えて、ボクはかぶりを振った。
いくら家綱でも、流石にそれはしないだろう。
そんなことを考えつつ、スーパーの駐車場を歩いている時だった。
「……ん?」
ボクの前に、高級そうな黒い車が一台止まった。まるで映画やドラマに出てくるかのような真っ黒な車で、車のことをよく知らないボクにでも高級なんだろうな、と感じさせる気品が、その車からは感じられた。
問題なのは、その車が高級かどうかじゃなくて、どうしてボクの前に止まったか、だけど。
ガチャリと助手席のドアが開き、中から一人の少女が現れ、ボクに対してペコリとお辞儀をした。
「な、何で……」
見覚えのあるその少女の顔に、知らず、ボクの声は震えていた。
「お久しぶりです」
ツインテールに結われた金髪。気品のある雰囲気。どこかのお嬢様中学校のものであろう、高級そうなブレザーの制服。そのデザインの制服は、数年前……かつてボクの着ていた制服と似ていた――否、同じだった。
「友愛……」
「お久しぶりです、お姉様」
ニコリと微笑み、妹はそう言った。
湯杉と名乗ったその老人が淡々と語ったその依頼内容に、家綱は戸惑いを隠せずにいた。
「お嬢様を……和登由乃を、我々へ引き渡してくれませんか?」
真摯な眼差しでそんなことを懇願する湯杉に、家綱は狼狽する。
「ちょ、ちょっと待ってくれ。アンタがいうお嬢様っつーのは、うちの助手……由乃のことだろ?」
家綱の言葉に、湯杉は深く頷いた。
「お嬢様が家を飛び出してから早二年……。お嬢様に帰ってきてほしいというのは、和登グループの総意でございます」
和登グループ。ここ罷波町に本社を置く、それなりに大きな財閥だ。全国的に見れば知名度はそれ程高くないものの、本社のあるこの罷波町では非常に知名度が高く、由乃が和登グループの社長である和登岩十郎の娘であることは、由乃と出会った時から家綱も知っていたことだが……
「でも何で今更……? アンタらんとこの後継者は、もう決まったハズだ」
由乃がここで助手をやるようになってから一年経った頃、和登グループの後継者が正式に由乃の妹である和登友愛に決まった、という記事が新聞に載っていたし、当時は事務所にテレビがなかったせいで見れなかったが、ニュースでも報道されていたハズだ。
「確かに、後継者は友愛様に決まりました」
「だったら何で今更由乃を――」
言いかけた家綱に、湯杉は訝しげな表情を見せた。
「家族に帰ってきてほしいと思うのが、そんなに不自然でしょうか?」
湯杉のその言葉に、家綱はハッとなったように言葉を失った。
家族に帰ってきてほしい。その思いはあまりにも当然過ぎて、家綱は何も言い返すことが出来ずにいた。
「それに、理由はそれだけではないのです」
罷波町の中心部にある噴水公園。そこにボクと友愛は来ていた。しばらく来ていなかったせいか、この公園の景色が随分と懐かしく感じる。
公園の中央にある噴水は、小さな虹を作り出しながら太陽に向かって水を噴射し続けている。何度見ても、この光景は綺麗だな、と目を奪われてしまう。
「こうしてお姉様と話をするのは、二年ぶりですね」
適当なベンチに腰掛け、友愛は感慨深げにそんなことを言った。
「……そうだね」
それに対して複雑な思いを抱きつつ、ボクは友愛の隣にゆっくりと腰掛けた。
「お姉様がいなくなってからの二年間……お父様は徹底的に私を後継者として育てました。今まで『保険』程度の扱いだった私への教育は、今までお姉様にしてきた教育と同じ……いえ、それ以上のレベルへ急変しました」
父が、ボクに今までしてきたこと。そのことを思い出せば、妹が……友愛がこの二年間、どれだけ苛烈な教育を施されていたかが手に取るように理解出来た――と同時に、ボクは彼女を身代わりにして、辛いことから逃げ出したんだという罪悪感を覚えた。
ボクは、逃げた。
後継者であることから、逃げた。
辛くて、苦しくて、不自由で、そこにボクの意思はなくて……そんな生活から、ボクは逃げ出した。
妹の友愛を、身代わりに。
「お姉様、そんな顔をしないで下さい」
ボクの心中を察したのか、友愛はうつむくボクの顔を覗き込むようにして微笑んだ。
「でも、ボクは……」
「良いんです。私は、望んで後継者になろうとしたんです。私、お姉様のことが羨ましくて仕方ありませんでしたから……」
――――どうして、お姉様ばかり!
幼い頃、そう言って涙を流していた友愛の表情が、ボクの脳裏を過った。
父は、ボクだけに愛をそそぐかのように教育を施した。ボクを、和登グループの後継者にするために、ボクへの教育に全力をそそいでいた。
その結果、友愛は放置される形になった。
彼女の世話をするのは全て使用人。教育は並程度。ボクより遥かに楽な生活ではあったものの、友愛はそこに親からの愛を一切感じていなかったのだろう。だから、彼女にとってボクは嫉妬の対象だった。
ボクは友愛のような生活を求め、友愛はボクのような生活を求めていた。
なんて、皮肉。
「ごめん、友愛」
「お姉様が謝ることなんてありません。誰も、悪くないんですから……」
そう答えて、友愛はそっとボクの髪に触れる。不意の行動に驚きを隠せないボクに、友愛は悪戯っぽく笑った。
「髪、切ったんですね……喋り方も変わりましたし」
「……うん」
二年前。家綱の元で助手をやるって決めた時、ボクはボク自身を徹底的に変えた。長かった髪を切って、喋り方を変えて……。まるで過去の自分を否定するかのように、ボクは過去と逆であろうとした。女の子っぽい格好もしなくなったし、大人しめだった性格も無理矢理変えた。
まあ、今の方がしっくりきてるんだけど。
「それに、前より何だか活き活きしています」
「……そうかな」
「そうです」
そんな会話をして、ボクらは顔を見合わせて笑った。
二年前なら、こんな会話は出来なかった。ボクは友愛に、友愛はボクに嫉妬していて、とてもじゃないけど二人仲良く――なんて関係ではなかった。
「友愛の方が、やっぱ後継者に向いてたのかもね」
「どうしてです?」
キョトンとした表情で問う友愛に、ボクは微笑んだ。
「活き活きしてるもん」
「そうですか?」
「そうだよ」
そのやり取りが、先程のやり取りとそっくりだということに気が付いて、ボクらはもう一度顔を見合わせて笑みをこぼした。
「……そういえば、何か用なの?」
そう問うた途端、確かにさっきまでそこにあった和やかな空気は一瞬にして消え去った。
「はい」
真剣な表情で、友愛はコクリと頷き、言葉を続けた。
「お姉様に、帰ってきてもらいたいのです」
友愛の言葉に、ボクは表情を一変させた。
「な、なんで今更!」
知らず、語気が荒くなった。
ボクが和登家を飛び出して二年……。父は、和登岩十郎はボクを捜そうともしなかった。確かに髪型や服装も変わって、見つけにくくはなっていたけど、和登グループならボクを簡単に見つけ出せるハズだ。なのに、ボクの元へ和登グループの人間が来たことは一度もない。それどころか、父はボクの代わりに平然と妹を後継者にした。
まるで、ボクがいなくても問題がないかのように。
帰りたくはなかった。でも、帰ってきてほしいと言われないのも辛かった。
矛盾。
「お父様が、お姉様を呼んでいます」
「だから何で今更なんだよ! お前らには、ボクはいらないハズだろっ!」
いつの間にか、ボクは友愛を怒鳴りつけていた。
「あ……」
寂しげにボクから目をそむける友愛に、ボクは小さくごめん、と呟いた。
友愛を怒鳴りつけても、何にもならないのに……。
「でもボクは……帰らないよ……。帰りたくない」
「そう……ですか」
悲しそうに一度目を閉じた後、友愛はボクへ真っ直ぐに顔を向け、閉じていた目を開いた。
「お父様が、もうじき亡くなる――それでもですか?」
友愛のその言葉に、ボクは言葉を失った。
――――お嬢様をこちらへ引き渡す気になりましたら、こちらへご連絡下さい。
そう言って、湯杉は家綱へ名刺を渡すと事務所を去って行った。
湯杉に渡された名刺をデスクの上に置き、家綱はそれを見つめつつ、深く溜息を吐いた。
「……俺が決めることじゃねえ」
そう呟き、家綱はもう一度溜息を吐いた。