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家族全員に騙されて生殺しの妻をやらされていた私、植物人間に偽装した夫が深夜に義姉と密会しているのを目撃してしま

作者: 熾星
掲載日:2026/09/02


 夫の九条拓真が交通事故に遭い、重い意識障害と診断されてから、彼が身につけている健康管理用のスマートバンドの歩数は、毎日ずっとゼロだった。


 ところが最近、奇妙なことに気づいた。


 毎晩午前二時になると、その数字が決まって二百歩だけ増えるのだ。


 義母の九条雅子は、バンドが壊れているだけだと言った。義弟の九条悠斗は、夜中に身体の向きを変えた時の振動を歩数として拾っているのだろうと説明した。


 実の父である榊原正臣まで、私を諭した。


「澪、この半年ずっと疲れてるんだ。そんな数字ばかり見て、自分を追い詰めるな」


 私は何も言わなかった。


 ある夜、午前一時に拓真のスマートバンドを外し、家のロボット掃除機に取りつけた。


 翌朝、歩数は一万歩を超えていた。


 雅子と悠斗がその数字を見た瞬間、二人の顔色が変わった。


 その反応を見逃す前に、父が突然、私の頬を平手打ちした。


「いつまでこんなことをするつもりだ!」


「拓真はあんな状態なんだぞ。話すことすらできない人間を、これ以上どうして苦しめる!」


 耳の奥で音が弾けた。


 私は頬を押さえながら、それでも笑った。


 なぜなら数時間前、私は見ていたからだ。


 半年近くベッドから起き上がれないはずの夫が、真夜中に身体を起こした。


 部屋の裏口を開け、庭の飛び石を渡り、そのまま離れへ向かって歩いていった。


 亡くなった兄の妻――九条沙耶が暮らしている離れまで。


 その距離を、私は自分の足で数えた。


 ちょうど二百歩だった。



1



 父の平手打ちはかなり強く、左頬はすぐに熱を持った。


 けれど雅子も悠斗も、私の顔など見ていなかった。二人の視線は、悠斗がゴミ箱へ投げ込んだスマートバンドに向けられたままだった。


 私は口の中に広がった血の味を飲み込み、唇の端を拭った。


「お父さんの言う通りかもしれない」


「最近ずっと疲れてるから、変なことを考えるようになったのかも」


「拓真があれだけの事故に遭ったのに、夜中に自分で歩けるわけないよね」


 雅子の肩から、目に見えて力が抜けた。


 悠斗もすぐにゴミ箱からスマートバンドを拾い上げる。


「義姉さん、だから前から言ってたでしょう。これ、たぶん壊れてるんですよ」


「兄貴は今、義姉さんに頼りきりなんです。義姉さんまで倒れたら、本当に家が回らなくなる」


 私は俯いたまま何も答えなかった。


 今ここで拓真の嘘を暴いても意味はない。


 知りたいのは、この家でいったい何人が、あの男の芝居に付き合っているのかだった。


 私が納得したように見えたのだろう。


 父も少し口調を和らげた。


「澪。お前がこの半年つらかったのは、父さんだって分かってる」


「でも結婚した以上、こういう時だけ簡単に夫婦をやめるわけにはいかないだろう」


「拓真だって、事故の前はお前によくしてくれた。意識が戻ったら、きっと今までのことを全部覚えていてくれる」


 私は目を伏せた。


 以前なら、こんな言葉を聞けばまた頑張ろうと思っただろう。


 拓真が事故に遭ってから、私は九条ホールディングスの取締役兼CFOとしての日常業務の多くを部下へ任せ、家での介護を優先してきた。それでも役員として重要案件だけは確認しながら、自分の口座から看護やリハビリ、自費診療の費用まで支払い続けた。


 父はそのたびに、「あと少しだから」と言った。


 今なら分かる。


 彼らが必要としていたのは、私の献身ではない。


 私のお金だった。


 昼間、私はいつものように拓真の身体を温かいタオルで拭いた。


 腕から手首へタオルを滑らせた時、彼の人差し指がほんのわずかに曲がった。


 続いて、一滴の涙が目尻から枕へ流れ落ちる。


 ソファでスマートフォンを見ていた雅子が、すぐに駆け寄ってきた。


「拓真!」


「聞こえてるの? お母さんの声、分かる?」


 何度も息子の手を握って呼びかけたあと、今度は私の腕をつかむ。


「澪、見たでしょう?」


「拓真にはちゃんと感覚が残ってるのよ。きっと、この半年ずっと誰がそばにいたかも分かってる」


「こんな時に見捨てたりしないでね。今あなたまで離れたら、この子はどうなるの?」


 私はベッドの上の男を見た。


 毎晩二時に二百歩歩いていると知らなければ、あの涙を「妻の献身に心が反応した」とでも思ったかもしれない。


 けれど今は、ただ滑稽だった。


 あれは感動の涙などではない。


 私に触れられたことへの嫌悪を、必死で隠しきれなかっただけなのかもしれない。


 その時、部屋のドアが開いた。


 九条沙耶がスープの入った器を持って入ってきた。


 彼女は拓真の亡兄、圭介の妻だ。圭介が二年前に病気で亡くなったあとも九条家を出ず、今も庭の反対側にある離れで暮らしている。


 沙耶の後ろには、なぜか父までいた。


 父は彼女が器を持っているのを見るなり、すぐに受け取った。


「沙耶さん、こういうことは家政婦に任せればいいと言ったでしょう」


「身体が丈夫な方でもないんだから、無理をする必要はない」


 それから私を見る。


「澪、少しは沙耶さんを見習ったらどうだ」


「義姉である沙耶さんでさえ拓真を心配しているのに、妻のお前はいつも会社のことばかりだ」


 私は父には答えなかった。


 沙耶だけを見た。


 彼女は穏やかに笑った。


「榊原さん、澪を責めないでください」


「昔から、こういう世話はあまり得意じゃないんです」


「拓真のことは、圭介が生きていた頃から家族みたいに見てきましたから。圭介がいない今、私が少しくらい弟の面倒を見るのは当然です」


 そう言ってベッドの横に腰を下ろす。


 筋力低下を防ぐためだと言いながら、手のひらで拓真の腿をゆっくり揉み始めた。


 けれど、その手は少しずつ上へ移動していった。


 拓真の喉仏が動く。


 半年も寝たきりを演じているくせに。


 まだ完璧な「無反応」にはなれないらしい。


 私は二歩ほど下がった。


「沙耶さんがそこまで上手に世話してくれるなら、今日はお願いするね」


「会社で確認しなきゃいけない案件が二つあるから、私は行く」


 雅子が口を開くより先に、父が顔をしかめた。


「また会社か」


「夫がこんな状態なのに、まだ仕事の方が大事なのか?」


 私はバッグを手にした。


「私は九条ホールディングスの取締役兼CFOだよ」


「拓真だけじゃなく会社まで寝たきりになったら、誰が後始末するの?」


 それ以上は聞かず、家を出た。


 けれど会社には向かわなかった。


 一度車で外へ出たあと、時間をずらして家の裏側から戻った。


 拓真の書斎はずっと施錠されている。


 事故前から他人に自分の物を触られるのを嫌っていたし、事故後は雅子も「今さら入る必要はない」と繰り返していた。


 私は書斎の耐火金庫の暗証番号をいくつか試した。


 結婚記念日。


 拓真の誕生日。


 会社の設立日。


 すべて違った。


 最後に、沙耶の誕生日を入力した。


 金庫が開いた。


 中に入っていたのは、昏睡状態になる前の思い出の品などではなかった。


 株式の処分計画、不動産担保融資に関する調査資料、複数の資産管理会社の書類、財産管理に関する委任契約の草案。


 一枚ずつ確認していく。


 行き着く名前は、ほとんど同じだった。


 九条沙耶。


 拓真が「意識を取り戻した」あと、自分の保有資産の一部を、沙耶が関わる資産管理会社へ順次移す計画まで残されていた。


 つまり、事故のあとに思いついた計画ではない。


 最初から考えていたのだ。


 意識のない人間を演じる。


 私に介護費用を負担させる。


 私の罪悪感と同情心を利用して、母が残してくれた財産まで差し出させる。


 最後に、本当に価値のあるものだけを別の女へ渡す。


 私は必要な書類をすべて撮影し、元の場所へ戻した。


 その夜、私は主寝室ではなく別室で眠ることにした。


 午前一時四十分、部屋の灯りを消す。


 一時五十八分、庭の防犯カメラが動きを検知した。


 午前二時。


 拓真が過ごしている介護用の部屋の裏口が開いた。


 事故当初は本当に重い意識障害があり、数週間はほとんど反応もなかった拓真は、その後徐々に意識を取り戻していた。それでも家族は病院から自宅へ戻すと、夜間は家族中心の見守りに切り替え、訪問看護や介護スタッフも決まった時間にしか入らない体制に変えていた。


 だから午前二時なら、誰にも見つからずに動ける。


 本来ならまだ継続的な介助が必要な男が、壁に手をついて立ち上がった。


 事故と長期臥床で足元は多少不安定だった。


 それでも歩ける。


 慣れた様子で庭の飛び石を渡り、沙耶の離れへ入っていった。


 しばらくすると、離れの玄関カメラにも映像が残った。


 手には、小さな薬の袋を持っていた。


 翌日、書斎で撮影したクレジットカードの利用明細を確認していると、久我原市内の産婦人科の名称があった。


 その近くには、妊婦向けの葉酸サプリメントや検査費用らしい支払いも並んでいる。


 日付をたどる。


 妊娠三か月。


 私は画面を見たまま、しばらく動けなかった。


 その夜も、拓真は離れへ向かった。


 玄関前で沙耶が薬を受け取ろうとせず、顔をしかめていた。


「毎日こればっかり。もう飲むのも嫌」


 拓真は声を落として宥める。


「医者も最初の三か月が大事だって言ってただろ」


「あと少し我慢しろよ」


 沙耶が拓真へ寄りかかった。


「それで、いつまでこの芝居続けるの?」


 拓真は彼女の髪を撫でた。


「もうすぐ終わる」


「俺が“奇跡的に回復した”ことにすれば、澪は楓ヶ丘の家を出す」


「そのあと中を直して、お前はあそこでゆっくり過ごせばいい」


 沙耶が笑う。


「本当にくれると思う?」


「くれるよ」


 拓真は迷いもしなかった。


「榊原澪の一番の弱点は、情に流されることだから」


「俺がベッドの上で何滴か涙を流せば、あいつは命だって差し出す」


「家と手元の資産が片づいたら、弁護士に離婚も進めさせる」


 私は暗い部屋の中で、ゆっくり画面を閉じた。


 楓ヶ丘の旧邸。


 母が私に残してくれた家だ。


 土地を含めた現在の評価額は、およそ一億二千万円。


 母を失ったあと、唯一「完全に私だけのもの」として残った場所だった。


 拓真が半年もベッドの上で芝居を続けられた理由が、ようやく分かった。


 そして実の父が、なぜここまで九条家に肩入れしているのかも。



2



 翌朝。


 拓真の車椅子がダイニングテーブルのそばに置かれていた。


 雅子によれば、日中は家族の話し声や生活音に触れさせた方が刺激になると、以前医師に言われたらしい。


 私は味噌汁を飲みながら、何も言わなかった。


 父が咳払いをする。


「澪、ちょうど相談したいことがある」


 私は顔を上げた。


「圭介の命日も近いだろう」


「沙耶さんは最近あまり眠れていないそうだ。静かな環境で休んだ方がいいと医者にも言われたらしい」


 次に何を言うのか分かった。


「楓ヶ丘の家、ずっと空いたままだろう?」


「庭も広いし、静かで環境もいい」


「しばらく沙耶さんに使わせたらどうだ」


 父は少し間を置いた。


「いっそのこと、名義も沙耶さんへ移したらいい」


「若くして夫を亡くして、それでも九条家に残って家族を支えてきたんだ。圭介への供養だと思えばいい」


 私は箸を置いた。


「無理」


 一瞬で食卓が静まった。


「楓ヶ丘は、お母さんが私に残した家だから」


「誰にも渡さない」


 父の顔色が変わった。


「お前の母親が亡くなって何年たったと思ってる」


「誰も住んでいない家を持っていて何になる」


「沙耶さんは夫を亡くして二年だぞ。それくらいしてやってもいいだろう」


 私は父を見る。


「お父さんだって家を持ってるよね」


「久我原市内にマンションが二つあるでしょう?」


「そんなに沙耶さんが心配なら、どちらか自分のをあげれば?」


 父の顔が赤くなった。


 テーブルを強く叩く。


「親に向かって何だ、その言い方は!」


 再び手を上げようとした瞬間だった。


 車椅子の拓真が突然大きく震えた。


 雅子が悲鳴を上げて駆け寄った。


 悠斗もすぐに車椅子を押さえる。


 簡易モニターが続けて警告音を鳴らした。


 沙耶も拓真の肩を抱いた。


「拓真、しっかりして!」


 そして私を振り返る。


「澪、こんな状態の人の前で、そこまで言い争う必要があるの?」


「拓真は自分で何も言い返せないのよ!」


 雅子も声を荒らげる。


「出ていって!」


「九条家に、こんな冷たい嫁が来るなんて思わなかった!」


 父まで、失望したような顔で私を見ている。


 私は拓真の震える瞼を見た。


 随分うまくなった。


 最初に涙を流した頃より、演技に余裕がある。


 私はバッグを持って家を出た。


 午前中、久我原総合医療センターへ向かった。


 拓真の事故後、私は実際に介護を担う配偶者として、病院所定の手続きを通じ、これまで家族へ説明されていた診療記録や検査資料の写しを申請した。


 その中で、脳波検査と刺激に対する反応記録が目に留まった。


 記録には、外部刺激に対して一定の反応が繰り返し確認されていたこと、そして臨床上の様子と一部検査結果に一致しない点があることが記されている。


 さらに、事故当初は本当に重い状態だったものの、数週間後から反応の変化が見られていた。


 ところが九条家はその後、病院中心のリハビリから外れ、知人の紹介だという民間のリハビリチームへ切り替えていた。


 そこで追跡が途切れている。


 病院を出ると、私は以前から知っている企業調査会社の担当者へ連絡した。


 午後、暗号化されたデータが届く。


 拓真の事故一か月前から、九条ホールディングスの資金が複数回に分けて関係会社へ流れていた。


 そのうち一社の実務連絡担当者は、九条沙耶。


 さらに楓ヶ丘旧邸を担保とした融資について、事前調査を進めていた形跡まで残っている。


 資料にある私の署名は、私が書いたものではなかった。


 誰かが、私の不動産を処分するための委任状まで偽造しようとしている。


 夕方に戻ると、リビングの主照明が消えていた。


 床に雅子が座っている。


 私を見るなり、這うように近づき、脚へ抱きついた。


「澪、お願い」


「拓真を助けて」


 テーブルには大量の資料が置かれていた。


 雅子は泣きながら説明した。


「今お願いしている民間のリハビリ施設が、海外の神経リハビリチームと連携できるって言うの」


「拓真みたいなケースでも、回復の可能性があるそうよ」


「でも自費で一通り受けると、千五百万円近くかかるの」


 資料を私へ押し出す。


「九条家の現金は今、会社にほとんど入ってる」


「楓ヶ丘を担保にした融資に協力してくれれば、資金を用意できるの」


「澪。拓真の命なのよ」


 父も後ろから言った。


「署名してやれ」


「家一軒と夫の命、どちらが大切かくらい分かるだろう」


 私は資料へ目を落とした。


 表向きは、不動産担保融資に関する審査資料。


 しかし、その中には抵当権設定や登記に関する委任資料まで混じっていた。


 彼らは、私がここで一度意思を示せば、あとは司法書士を通して正式な登記まで押し切れると思っている。


 私はゆっくり顔を上げた。


 拓真は介護用ベッドに横たわっている。


 沙耶はソファの後ろ。


 悠斗は壁際に立ち、何気ない顔をしながら指先だけを落ち着きなく動かしていた。


 私はわざと目を赤くした。


「本当に、治る可能性があるの?」


 雅子は何度も頷いた。


「あるわ」


「あなたが助けてくれれば、きっと」


 私はペンを手にした。


 指先をわずかに震わせる。


「分かった」


「必要な資料は、私の弁護士にも確認してもらう」


「正式な担保設定の時には、私も協力する」


 その言葉を聞いた瞬間。


 全員の顔がわずかに緩んだ。


 もちろん、私は何一つ譲っていなかった。


 家へ戻る前に、すでに自分の弁護士と司法書士へ相談していた。


 彼らには、楓ヶ丘旧邸について過去に提出された不審な融資資料や、偽造された可能性のある委任状をすべて調べてもらっている。


 私は抵当権設定契約にも、登記委任状にも署名していない。


 この場で行ったのは、資料を受け取ったことを確認する程度の署名だけだった。


 彼らが私を囲み、家を差し出すよう迫ったやり取りも、すべて録音してある。



3



 私が「協力する」と言っただけで、沙耶はすっかり楓ヶ丘が自分のものになった気でいた。


 翌日の午後には荷物を運び込み、庭の写真をInstagramへ投稿した。


【少し環境を変えて、ゆっくり休みます。心配してくださった皆さん、ありがとうございます】


 父はすぐに「いいね」を押した。


 雅子も、身体を大切にするようコメントしていた。


 もちろん、不動産の名義は一ミリも動いていない。


 正式な抵当権設定すら済んでいない。


 それでも彼らは、私がすでに折れたと思い込み、残りはただの手続きだと考えていた。


 その貪欲さが、かえって都合よかった。


 数日後。


 私たちの結婚記念日。


 九条家が用意していた「奇跡」は、その日に起きた。


 自宅の介護用ベッドで、拓真がまず指を動かした。


 雅子は予定していたかのようにスマートフォンを構える。


 やがて拓真はゆっくり目を開けた。


「澪……」


 掠れた声で私の名を呼ぶ。


 私の手を握り、涙まで流した。


「やっと……またお前を見られた」


「この半年、本当にありがとう」


 その一部始終が、動画に残された。


 九条家はすぐに「半年にわたる重度意識障害から奇跡的に回復した」と発表した。


 数日後、拓真は退院。


 九条ホールディングスは、ホテル内の会議室で小規模な記者会見を開いた。


 拓真の“回復動画”まで流される。


 記者の一人が尋ねた。


「九条社長、半年ぶりに意識を取り戻された今、奥様に一番伝えたいことは何でしょうか」


 拓真は赤くした目で私を見た。


「澪がいなければ、俺はここまで戻れませんでした」


「俺のために、母親から残された家まで担保に出そうとしてくれた」


「澪は、俺の人生で一番大切な人です」


 そして、さらに続けた。


「正式に経営へ復帰したら、九条ホールディングスの中核子会社の株式二十パーセントを澪へ譲渡するつもりです」


 会場から驚きの声が上がる。


 妻の献身に報いる夫。


 外から見れば、感動的な話だった。


 私は笑いそうになった。


 彼らが私に渡そうとしているのは、株式ではない。


 もっと綺麗に飾った鎖だ。


 記者会見が終わったあと。


 拓真はホテルの控室で椅子に座り、悠斗に数枚の書類を持ってこさせた。


「澪。株を渡すこと自体は当然だと思ってる」


「でも俺はまだ完全に身体が戻ってない」


「取締役会だって、お前がいきなり二十パーセント分の議決権まで直接握るとなれば、警戒する人間もいる」


 拓真は沙耶を見る。


「沙耶は昔、外資系証券会社のM&A部門で働いてた」


「株式そのものは澪の名義にする」


「ただ、当面の議決権行使と管理の一部は、沙耶に委任しておけばいいと思ってる」


 沙耶もすぐに微笑んだ。


「私は一時的に手伝うだけ」


「拓真が本当に復帰できたら、いつまでも関わるつもりはないわ」


 拓真が私の手を握る。


「澪にこれ以上負担をかけたくないんだ」


「沙耶だって圭介を亡くして、一人で頑張ってきた」


「家族のためだと思って、分かってくれないか?」


 名義は私。


 実際の議決権は沙耶。


 綺麗な言葉を並べながら、支配だけを別の女へ移す。


 私は吐き気を堪えながら、拓真の手を握り返した。


「分かった」


「拓真がそう決めたなら、私は従う」


「まだ身体も戻りきってないんだから、こんなことで無理しないで」


 拓真の目に喜びが浮かんだ。


 沙耶も満足そうに笑った。


 退院翌日。


 九条家は久我原市内の高級ホテルで、盛大な快気祝いを開いた。


 重要取引先、金融機関関係者、取締役、古くからの知人まで集まっている。


 沙耶は高価なジュエリーを身につけ、入口で客を迎えていた。


 知らない人が見れば、彼女こそ九条家の妻に見えただろう。


 私は会場の隅に座り、グラスを傾けた。


 もっと盛り上がればいい。


 高く登れば登るほど。


 落ちた時の音は大きくなる。



4



 宴も半ばを過ぎた頃。


 父が私側の親族代表として壇上へ上がった。


 上機嫌だった。


 私の方は一度も見ない。


「本日は九条家にとって、本当に喜ばしい日です」


「長く家族を見てきた者として、一番最初に感謝を伝えたい相手がいます」


 父は少し間を置く。


「それは、私の娘ではありません」


 会場に小さなどよめきが起きた。


 父は沙耶を見る。


「九条沙耶さんです」


「この半年、沙耶さんは自分も夫を亡くした悲しみを抱えながら、それでも拓真君と九条家を支え続けてきました」


「本当に大変な時に、仕事や金のことばかり考える人間もいる」


「けれど沙耶さんは、家族を第一に考えた」


 何人もの視線が私へ向いた。


 父は満足そうに続ける。


「そして今日は、もう一つおめでたい話があります」


 沙耶のお腹へ視線を落とした。


「沙耶さんは妊娠しています」


「現在、三か月です」


 今度は本格的にざわついた。


 夫の圭介は二年前に亡くなっている。


 当然の反応だった。


 父はすぐに説明を続ける。


「誤解しないでください」


「圭介君は闘病中、生殖細胞を保存していました」


「本人の書面による意思も残されていたため、沙耶さんはその後、海外の生殖医療機関を通じ、保存されていた精子を使って体外受精を受けたそうです」


「亡くなった夫との子供を残したいという、彼女の強い思いがあったのでしょう」


 会場のあちこちで、驚き混じりの声が聞こえた。


「海外で受けたのか」


 誰かが小さく呟く。


 雅子はもう涙を流していた。


 拓真はゆっくり椅子から立ち上がった。


 半年の臥床で足元はまだ不安定だ。


 それでも沙耶の前まで歩き、人前で彼女を抱きしめた。


「義姉さん」


「本当にありがとう」


「兄さんも、きっと喜んでる」


 沙耶も拓真の肩へ顔を寄せる。


「圭介の子供を残せるなら、それだけでいいの」


 拍手が起こった。


 私は会場の隅から眺めていた。


 本当の父親が、妊娠中の愛人を抱きしめながら、「亡き兄の子供を産んでくれてありがとう」と感謝している。


 ここまで来ると、途中で止めるのが惜しいほどの芝居だった。


 拓真がマイクを受け取った。


「義姉が九条家のためにしてくれたことへ、俺も何か返したいと思っています」


「そこで、澪へ譲渡する予定だった株式については、名義上の権利は澪に残しますが、当面の議決権行使と管理権限を沙耶へ委ねるつもりです」


「また、楓ヶ丘旧邸についても、沙耶とこれから生まれる子供が安心して暮らせるように使ってもらいたい」


 拍手する人までいた。


 一人の年配女性が私のところへ来る。


「榊原さん、気を悪くしない方がいいわよ」


「沙耶さんだって、ここまで九条家のためにしてるんだから」


「あなたは若いし、お子さんもいないでしょう? 資産なんてまた増やせばいいのよ」


「こんなところで揉めたら、かえってあなたの印象が悪くなるわ」


 私はグラスを少し揺らした。


 何も答えなかった。


 壇上では、拓真側の弁護士が書類の入ったファイルを開いている。


 拓真が私へ優しく笑った。


「澪。ありがとう」


「楓ヶ丘がどうなっても、議決権を誰が管理しても、俺たちが夫婦であることは変わらない」


「これからも、きっと大丈夫だ」


 それが、その夜彼が私へ向けた最後のまともな愛の言葉になった。


 弁護士は、楓ヶ丘旧邸に関する書類を読み上げようとした。


 しかし一枚目を見たところで、動きが止まった。


 顔色が変わる。


 拓真が眉を寄せた。


「どうした?」


 弁護士が顔を上げる。


「九条さん……」


「榊原澪さんは、楓ヶ丘旧邸について、抵当権設定契約を締結していません」


 拓真の笑顔が固まった。


「何?」


 弁護士は書類を確認し直す。


「不動産登記に関する委任状にも、榊原さん本人の署名はありません」


「榊原さんは、楓ヶ丘旧邸を九条沙耶さんへ譲渡することにも、当該不動産を担保として融資を実行することにも、正式には同意していません」


 一瞬で宴会場が静まり返った。


 次の瞬間。


 壇上後方の大型スクリーンが点灯した。


 映し出されたのは、私たちの家の介護部屋の裏口と庭。


 画面の隅には午前二時と表示されている。


 本来なら自力歩行できないはずだった拓真が、ドアを開けて出てくる。


 庭を渡る。


 二百歩先の離れへ入る。


 一晩。


 二晩。


 さらに十数日分。


 同じ映像が続く。


 次に流れたのは、庭と離れの玄関付近で記録された会話音声だった。


「澪が楓ヶ丘を出せば、土地ごと担保にして資金を作れる」


「手元の資産まで整理できたら、そのあと離婚させればいい」


 沙耶の声。


「疑わないの?」


 拓真が笑う。


「簡単だよ」


「俺がベッドで何滴か涙を流せば、澪は何でも出す」


 会場には、スピーカーから流れる声しか聞こえなくなった。


 拓真は壇上で立ち尽くしていた。


 顔から血の気が消えていた。



5



 二秒後。


 会場中の声が一気に戻った。


 さっきまで拓真を「愛妻家」だと褒めていた人たちが、今度は冷たい目を向けている。


 スマートフォンを取り出す者もいた。


 会社の取締役へ「代表が仮病だったことを知っていたのか」と問いただす声まで聞こえる。


 拓真の顔色が、白から青へ変わった。


「消せ!」


 突然、操作卓へ向かって走り出す。


「今すぐ消せ!」


 けれど半年間まともに歩いていなかった影響は残っていた。


 事故による脚の損傷もある。


 二、三歩走ったところで膝が崩れ、舞台脇へ倒れ込んだ。


 会場からざわめきが起こる。


 沙耶も顔を青ざめさせて後ずさった。


 ヒールがシャンパンタワーへぶつかり、グラスが床に落ちて割れる。


 私はグラスを手にしたまま、会場中央へ歩いた。


「九条拓真」


「本当にすごいね」


「半年も自力では動けない人間を演じながら、毎晩二時にはきっちり二百歩の“リハビリ”を続けてたんだから」


「今日ここにいる皆さんにも見てもらわないと、もったいないでしょう?」


 拓真が床から私を睨み上げた。


「榊原澪!」


「勝手に撮った映像なんか証拠にならない!」


「全部偽物だ!」


「今はAIで何だって作れる! 俺を潰すために捏造したんだろ!」


 私は言い争わなかった。


 壇上の弁護士を見る。


「映像が信用できないなら、次の資料をお願いします」


 弁護士は手元の書類を見つめた。


「榊原澪さんの代理人弁護士、および司法書士が調査した結果です」


「楓ヶ丘旧邸について、三か月前から不動産担保融資のための資料が準備されていました」


「その中には、榊原澪さん名義の委任状や、本人が署名したとされる同意書が含まれています」


 拓真が顔を上げる。


 弁護士は続けた。


「しかし榊原さん本人への確認の結果、これらの署名は本人によるものではないことが確認されています」


「予定されていた融資額は八千万円」


「融資資金の受取先として指定されていたのは、九条拓真さんの関係者が実質的に管理する資産管理会社です」


 雅子が立ち上がった。


「そんなはずない!」


「澪が拓真の治療のために、家を担保にするって言ったのよ!」


 弁護士の表情が硬くなる。


「榊原さんは、正式な抵当権設定契約にも、登記委任状にも署名していません」


「むしろ偽造された可能性のある私文書や、不正な融資申請について、すでに警察へ相談しています」


「また、別の融資契約については、九条拓真さん自身が連帯保証人となっています」


「したがって楓ヶ丘旧邸に対する担保設定が無効となっても、八千万円の債務そのものが榊原さんへ移るわけではありません」


 拓真の顔が完全に変わった。


 彼は最後には、私の家を売れば借金を処理できると思っていた。


 けれど自分で結んだ保証契約からは、逃げられない。


 父が弁護士のところへ駆け寄った。


「何をしたんだ!」


 資料を奪うように手にし、何枚か読んでから私を睨む。


「澪!」


「こんなことをしたら拓真が終わるぞ!」


「八千万だぞ!」


 私は実の父を見た。


 ここまで来ても。


 彼が最初に心配するのは、私ではなかった。


「お父さん」


「そこまで九条家が壊れるのが怖いのは、沙耶さんに何か握られてるからでしょう?」


 父の顔から血の気が引いた。


 私は別のファイルを取り出した。


 母が生前設計した家族信託に関する資料。


 私は主要な受益者だった。


 父は母の死後も、一部の家族資産管理に関する古い書類や印鑑関係の資料へ触れられる立場にあった。


 その立場を利用し、過去二年間で三千万円以上を、本来私のために管理されるべき信託財産から不正に流用していた。


 金は、自分の投資会社の損失補填に使われている。


 私は一枚の取引記録を掲げた。


「お父さんは、沙耶さんが好きだから庇ってたんじゃない」


「怖かっただけ」


「沙耶さんは外資系証券会社のM&A部門で働いていた。財務デューデリジェンスにも慣れてる」


「だから、お父さんが信託財産を自分の会社に流していたことにも気づいた」


 父の唇が震えた。


「偽造した書類まで見つけられた」


「その証拠を使って、楓ヶ丘を手放すよう私を説得しろって脅された」


「だから私が冷たい娘だって、周りに言い続けた」


「拓真と沙耶さんの関係がおかしいと気づいていても、何も言えなかった」


「従わなければ、自分のことを全部ばらされるから」


 父は床に散らばった書類を見つめたまま、何も言えなかった。


 身体が大きく揺れる。


 近くのホテルスタッフに支えられ、どうにか倒れずに済んだ。



6



 会場は完全に混乱していた。


 その時、宴会場の扉が開いた。


 入ってきたのはホテルの従業員ではない。


 先頭にはスーツ姿の弁護士。


 その後ろに司法書士と、企業資産調査を担当するスタッフがいた。


 弁護士は簡単に名乗ってから、拓真を見た。


「九条拓真さん」


「該当融資の債権者側代理人です」


「八千万円の融資について、本日付で契約上の期限の利益喪失に関する手続きへ移行しています」


 拓真の目が大きく開いた。


 弁護士は通知書をテーブルへ置く。


「楓ヶ丘旧邸の担保資料について偽造の疑いが生じたため、当該不動産を担保とした処理は停止します」


「ただし九条さんご本人の連帯保証、および関係する資産管理会社の債務まで消滅するわけではありません」


「今後、必要に応じて財産の仮差押え等も申し立てます」


「また、融資申請に使用された資料については、警察の捜査にも協力します」


 出口を塞ぐ人間などいない。


 誰かが暴力で脅すこともない。


 それでも拓真は、今までで一番怯えた顔をしていた。


 刑事事件。


 金融機関からの融資停止。


 取締役会からの追及。


 同時に始まれば、九条ホールディングスの代表でいられるはずがない。


 沙耶が少しずつ後ろへ下がった。


 それを拓真が見つけた。


 恐怖も怒りも、全部彼女へ向かった。


 数歩で距離を詰める。


 そして手を振り上げ、沙耶の頬を叩いた。


 沙耶は床に倒れた。


「九条拓真!」


 頬を押さえたまま、信じられないという顔で見上げる。


 拓真はもう理性を失っていた。


「全部お前のせいだ!」


「お前がずっと俺を煽ったから、こんなことになった!」


 沙耶の顔から、数分前までの弱々しさが消える。


「私が煽った?」


「澪の家を欲しがったのはあなたでしょう!」


「会社の帳簿を澪に見られるのが嫌で、ずっと邪魔だって言ってたのもあなた!」


 会場が再び静かになる。


 拓真の表情が変わった。


 沙耶はもう止まらなかった。


「事故だって自分で仕組んだくせに!」


「社内監査から逃げるために、自分で接触事故を起こさせたんでしょう!」


「少し怪我をして、しばらく意識不明のふりをすれば、その間に外の処理を終わらせられるって!」


 会場から驚きの声が上がる。


「でも頼んだ相手が、事故の強さをきちんと調整できなかった」


「軽傷で済ませるつもりが、脚も骨盤も本当に傷ついた!」


「そのあと意識が戻っても、芝居を続けるためにまともなリハビリすら受けなかったでしょう!」


「それを今さら全部私のせいにするの?」


 拓真は沙耶を睨んだ。


「八千万はどこへ行った!」


「どうして会社に残ってない!」


 沙耶は鼻で笑った。


「自分で海外のデリバティブ取引の損失補填に使ったくせに」


「帳簿をいじってた時には、私に脅されたなんて一言も言ってなかったじゃない」


 二人は、人前で互いの秘密を暴き始めた。


 半年かけて九条家が守ろうとした体面を、本人たちが全部壊していく。


 債権者側の弁護士が口を挟んだ。


「資金の最終的な流れは捜査で確認されます」


「こちらは契約と法的手続きに従って処理します」


 「法的手続き」という言葉だけで、拓真の表情がまた変わった。


 雅子を見る。


「母さん!」


「助けてくれ!」


 雅子は椅子に座ったまま、震えていた。


「何をどう助けろっていうの」


「会社の現金だって、もうほとんど残ってないじゃない」


 拓真の目が、沙耶のお腹へ移った。


「まだ子供がいる」


「母さん。沙耶が産むのは九条家の子供だ!」


「家の血を一番大事にしてたのは母さんだろ!」


「会社さえ残れば、子供にだって未来がある!」


 言葉がどんどん支離滅裂になっていく。


 私は思わず笑った。


 拓真の前まで歩く。


「拓真」


「さっきから、沙耶さんのお腹の子は九条家の子だって言ってるけど」


「本当に――」


「あなたの子供だと思ってる?」



7



 拓真の動きが止まった。


 沙耶の顔色は、一瞬で変わった。


「榊原澪、何が言いたいの?」


「変なこと言わないで」


 無意識に腹部を庇う。


「この子は拓真の子よ」


 私は首を横に振った。


 一枚の医療資料を取り出す。


「あなたが事故を仕組んだこと自体は事実みたいだけど」


「実際の衝突は、予定通りにはいかなかった」


 拓真は報告書を凝視している。


「事故で下肢と骨盤に強い外傷を負った」


「その後も長期間、本来必要な治療やリハビリを避けた」


「事故後の検査では、生殖機能にも深刻な障害が残ってる」


 最後のページを開く。


「二回行われた精液検査では、どちらも精子が確認されていない」


「診断は重度の無精子症」


「医師からは、自然妊娠は極めて困難だと説明されている」


 拓真の顔が固まった。


 そして重要なのは時期だった。


 沙耶が妊娠したのは、拓真の事故から三か月以上たってから。


 つまり少なくとも、事故後に拓真との間で自然妊娠したという説明には、大きな矛盾がある。


 拓真が報告書を奪う。


「嘘だ……」


「沙耶は妊娠してる」


「俺の子だって言った」


 顔を上げる。


「騙したのか?」


 沙耶は答えなかった。


 その沈黙だけで十分だった。


 拓真が沙耶へ飛びかかり、服の襟をつかむ。


「誰の子なんだ!」


「言えよ!」


 止めようとした時。


 それまで黙っていた悠斗が突然二人の間へ入った。


 拓真を強く押し返し、沙耶を後ろへ庇う。


「兄貴」


「沙耶さんに触るな」


 拓真はよろめいて床へ座り込んだ。


 弟を見上げる。


 その顔から、ゆっくり表情が消えていった。


「何……言ってる?」


 悠斗は一度息を吸った。


「その子は俺の子だ」


 宴会場が静まり返る。


 拓真は理解できていないようだった。


「もう一回言え」


 悠斗は沙耶の前に立ったまま答える。


「沙耶のお腹の子供は、俺の子だ」


「圭介兄さんの凍結精子でできた子供でもない」


「兄貴の子でもない」


「俺と沙耶の子供だ」


 拓真は床に座ったまま、長い間動かなかった。


 私は彼を見る。


 ここまで来たなら、残りも全部教えてあげるべきだろう。


「拓真」


「自分だけが賢いと思ってたでしょう?」


「意識障害のふりをしていれば、社内監査から逃げられる」


「私から金を引き出せる」


「会社と私の資産も、時間をかけて動かせる」


「でも一度くらい考えなかった?」


「どうして雅子さんは、あなたが夜中に動いても何も疑わなかったのか」


 雅子が俯く。


「どうして悠斗は、スマートバンドの歩数について、いつも真っ先に理由を説明できたのか」


 悠斗の顔が硬くなる。


「二人とも、あなたが途中から意識を取り戻していたことを知ってた」


「雅子さんも」


「悠斗も」


 拓真の呼吸が荒くなる。


「協力した理由は簡単」


「あなたが表向き経営能力を失っていれば、悠斗は会社でより多くの実務と権限を握れる」


「沙耶はあなたの名義や関係会社を使って、資金を少しずつ動かせる」


「あなたは沙耶が自分の味方だと思ってた」


「でも本当に一緒に暮らすつもりだった相手は、悠斗だった」


「あなたがベッドで動けないふりをしている半年間」


「二人は“介護を手伝う”と言えば、いくらでも会えた」


「あなたは社内監査から二人を隠す壁になった」


「外部のリスクも背負った」


「そして最後には、沙耶のお腹の子供まで、実の弟の子だった」


 拓真が雅子を見る。


「母さん」


「知ってたのか?」


 雅子は顔を上げない。


 それが答えだった。


 拓真の顔が灰色になる。


 私は最後の資料を出した。


「それから八千万円の融資」


「一部の書類には、確かにあなた本人の署名がある」


「でも、いくつかの保証関連資料については、あなたが正常に意思表示できる状態で作成されたのか、疑わしいものがある」


 拓真の目が悠斗へ向く。


「あなたがベッドの上で“何もできない人”を演じてた間」


「悠斗には、いくらでもあなたの印鑑や資料へ触れる機会があった」


「あなたは、家族全員が自分の芝居を手伝ってると思ってた」


「でも彼らが必要としてたのは」


「口を出さず」


「名義を貸し」


「最後に責任だけ引き受けてくれる代表者だったの」


 私は拓真を見下ろした。


「九条拓真」


「自分ではゲームを仕切ってるつもりだったんでしょうね」


「最後まで盤上の駒だったのは、あなたの方だった」



8



 すべてを知った拓真は、完全に崩れた。


 自分では完璧な計画を立てたつもりだった。


 半年間、意識障害を演じる。


 妻を捨てる。


 一億円を超える不動産を手に入れる。


 沙耶と子供と、新しい人生を始める。


 けれど家は手に入らない。


 八千万円の債務は残る。


 会社では内部調査が始まる。


 子供は自分の子ではない。


 そして母親も弟も、最初から自分を利用していた。


 拓真は床に座ったまま、焦点の合わない目で前を見ていた。


 やがて、小さく笑い始める。


 その笑い声はだんだん大きくなり、両手で髪を掴んだ。


「嘘だ……」


「全員、俺を騙してたのか」


 悠斗は、それほど罪悪感を見せなかった。


「兄貴、自分だけ被害者みたいな顔するなよ」


「子供の頃から、母さんは何でも兄貴を優先した」


「会社だって兄貴が代表」


「家も人脈も、いいものは全部兄貴」


 何年も溜め込んでいたものがあるようだった。


「じゃあ俺は何なんだよ」


「ずっと兄貴の雑用をする弟だった」


「自分は圭介兄さんの妻に手を出したくせに、俺と沙耶のことだけ責めるのか?」


 拓真が弟を睨む。


 悠斗は続けた。


「そもそも最初に澪の財産を狙ったのは兄貴だ」


「それがなければ、ここまで全部崩れなかっただろ」


 拓真の身体が怒りで震える。


 やがて視線が私へ向いた。


 突然何かを思い出したように、テーブルへ手をつき、少しずつこちらへ歩いてくる。


 脚に力が入らない。


 途中で膝をついた。


 私のスカートの裾をつかむ。


「澪……」


 声が一気に弱くなった。


 事故前、何度も私を安心させた声と同じだった。


「澪、俺が悪かった」


「俺も騙されてたんだ」


「沙耶と悠斗が一緒になって、俺まで利用してるなんて知らなかった」


 私は見下ろした。


 拓真はもう泣いていた。


「本気でお前を捨てるつもりなんてなかった」


「俺が一時的にどうかしてたんだ」


「ずっと一番信頼してたのは澪だ」


「頼む」


「八千万くらいなら、澪なら何とかできるだろ?」


「これさえ乗り切れば、もう一度やり直せる」


「会社も全部、澪に任せる」


「これからは何でも言うことを聞く」


 最後の最後まで。


 この男が求めているのは、私ではなかった。


 私のお金だった。


 私は、スカートから彼の手を払いのけることすらしなかった。


「九条拓真」


「まだ分からないの?」


 拓真が顔を上げる。


 私は静かに見下ろした。


「あなたが介護用ベッドの上で、目を閉じながらあの涙を流した時」


「私の中では、あの時点でもう一度死んでた」


「それから毎晩、午前二時」


「あなたは二百歩かけて、私たちの結婚から外へ出ていった」


「別の女が住む離れまで」


「一歩進むたびに、私から遠ざかっていった」


 拓真の指が、ゆっくり私のスカートから離れた。


 私は少し腰を落とし、彼と目線を合わせる。


「八千万の債務は、あなた自身が欲を出して作ったもの」


「会社の問題も、あなたが自分で起こした」


「身体がここまで悪くなったのだって、自分で仕組んだ事故と、その後まともな治療を避けた結果」


「沙耶と悠斗のことは――」


 二人へ目を向ける。


「あなたが一番信じていた家族からの贈り物ね」


「私は何もしてない」


「全部、自分で一歩ずつここまで歩いてきた」


 私は立ち上がった。


「だからもう、私に助けてなんて言わないで」


「これから説明する相手は、弁護士と取締役会と警察だから」



9



 それから間もなく、ホテルの外に警察車両が到着した。


 突然呼んだわけではない。


 楓ヶ丘旧邸に関する偽造融資資料。


 九条ホールディングスからの不審な資金移動。


 父による家族信託財産の流用。


 証拠がある程度そろった段階で、私の代理人はすでに警察や関係機関へ相談していた。


 数名の警察官が宴会場へ入ってきた。


 最初にそれぞれの身元を確認する。


 拓真、悠斗、沙耶には、事情聴取のため同行を求めた。


 拓真については、偽造された私文書の使用や不正な融資申請、会社資金の処理など複数の点が調査対象になっている。


 悠斗についても、一部資料の作成経緯と資金移動。


 沙耶が実務に関わっていた資産管理会社も、当然調べられる。


 父も例外ではない。


 家族信託の財産を、自分の投資会社へ不正に流していた疑いがある。


 雅子はその場に立ち尽くしていた。


 長男の圭介はすでに亡くなっている。


 次男の拓真と、末の悠斗は同時に警察の調査を受ける。


「どうして……」


「どうしてうちがこんなことに……」


 何度も呟いていた。


 答える人はいなかった。


 警察が拓真へ移動を促した時だった。


 彼はもう一度、私を見た。


 そこには最初の頃の傲慢さなど残っていなかった。


 何かを言おうとした瞬間。


 身体が大きく揺れた。


 そのまま床へ倒れた。


 一気に会場が騒がしくなる。


 すぐに救急車が呼ばれた。


 拓真は意識障害を起こし、久我原総合医療センターへ搬送された。


 私はついていかなかった。


 数日後。


 弁護士から連絡を受けた。


 拓真には、事故当時の頭部外傷に関連した脳血管の損傷が残っていたらしい。


 強いストレスをきっかけに、その部位から再出血を起こした。


 命は取り留めた。


 けれど重い後遺症が残った。


 意識状態も不安定。


 自力で身体を動かすことも難しく、今後は長期にわたる介護が必要になる可能性が高いという。


 私はしばらく何も言えなかった。


 半年間。


 目を覚まさない人間を演じ続けた男。


 最後には、本当に自分の意思だけでは立ち上がれなくなった。


 悠斗と沙耶については、その後も捜査が続いた。


 父の投資会社からも、さらに別の不正な資金処理が見つかった。


 沙耶に暴かれることを一番恐れていた秘密は、結局すべて警察と弁護士の目にさらされた。


 雅子も、一晩で九条家の体面をすべて失った。


 私はもう、誰にも会わなかった。


 宴会が終わる頃。


 ホテルの大広間は半分以上、人がいなくなっていた。


 私は拓真につかまれた上着を脱ぎ、椅子の背にかけた。


 少しだけその場に立つ。


 それからスマートフォンを取り出し、秘書へ電話した。


「臨時取締役会を招集して」


「明日の午前九時」


 秘書が一瞬黙った。


「榊原CFO、九条社長の件でしょうか」


 私は床に残った割れたグラスを見た。


「九条拓真の代表取締役からの解職」


「不審な資金移動に関する内部調査」


「それから、九条ホールディングスの経営再建案」


 一度言葉を切る。


「全部、議題に入れて」


 さらに続けた。


「必要なら臨時株主総会の招集案も準備して」


「取締役としての扱いも、正式に整理するから」


 私はもともと九条ホールディングスの取締役兼CFOだった。


 重要株主の一人でもある。


 ただこの数年。


 結婚を守るという理由だけで、自分から少しずつ立つ場所を譲ってきた。


 もう、その必要はない。


 電話を切り、ホテルの外へ出た。


 久我原市の夜風は冷たかった。


 スマートフォンには次々と連絡が入る。


 弁護士。


 取締役。


 金融機関。


 取引先。


 明日から処理しなければならないことはいくらでもある。


 それでも、不思議と疲れてはいなかった。


 あの気持ち悪い結婚は、もう終わった。


 午前二時に増えていた二百歩も。


 もう二度と、私の人生には現れない。


 榊原澪の人生は――


 ここから、もう一度始まる。



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― 新着の感想 ―
設定が無理すぎて…。 一時的な記憶喪失位にしておいた方が良かったですね。
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