失敗できない少女
桜庭未来星は、時間を無駄にするという感覚を知らなかった。
まだ空が薄暗い早朝、寮の部屋で机に向かい、彼女は生物のノートを読み返していた。
周囲の生徒たちが眠っている時間でも、未来星にとっては貴重な学習時間だった。
セント・オーガスティン・アカデミーの奨学生であるということは、誇りであると同時に、常に試される立場でもある。
彼女が所属するのは、赤の色を象徴とするレッドグレイブ寮。
勇気と努力を重んじる寮であり、
「Per Aspera Ad Astra」――困難を越えてこそ未来がある、
という言葉を掲げている。
未来星に、その言葉は重かった。
昼休みになると、多くの生徒が学院のカジノへ向かう。
選ばれた料理人たちが作る料理は、どれも一流だと聞いている。
だが、未来星はそこへ行かなかった。
校内の売店で簡単なパンと飲み物を買い、ベンチに座って本を開く。
節約のためでもあり、何より、それが彼女の生活だった。
失敗は許されない。
成績、態度、部活動。
どれか一つでも欠ければ、医学部への推薦枠は失われる。
午後はホッケーの練習だった。
幼い頃から続けてきたスポーツであり、彼女にとっては努力の象徴でもある。
息が上がっても、足が重くなっても、決して手を抜かなかった。
練習後、未来星は図書館へ向かった。
そこだけは、学院の中で唯一、誰もが平等に静かになれる場所だった。
解剖学の参考書を探している途中、彼女は不自然な光景に気づいた。
高い書架の間、ほとんど使われていない狭い空間に、一人の生徒がいた。
――眠っている。
整った制服。
青を基調としたブレザー。
アウグスティン寮の色。
「……ありえない」
思わず、そう呟いた。
すべてを持つ人間が、努力の象徴である図書館で眠っている。
それは、未来星にとって理解しがたい光景だった。
棚の上段の本を取ろうと腕を伸ばしたとき、
彼の影に自分の影が重なった。
その瞬間、彼が目を開けた。
穏やかな目だった。
焦りも、驚きもない。
「ここで寝るの、珍しい?」
そんな調子で話しかけられ、未来星は思わず眉をひそめた。
「……図書館は、寝る場所じゃありません」
静かだが、はっきりとした声でそう告げる。
彼は少し考えるようにしてから、ゆっくりと体を起こした。
「そうだね」
その反応が、余計に彼女を戸惑わせた。
未来星は必要な本を取り、彼から距離を取る。
「時間は……大切ですから」
それだけ言い残し、その場を離れた。
歩きながら、胸の奥がざわつくのを感じていた。
怒りではない。
憎しみでもない。
ただ、どうしようもない違和感。
――同じ学院にいて、
――同じ時間を過ごしていて、
――こんなにも世界が違う。
その夜、寮の部屋で勉強を続けながら、未来星はふと、あの穏やかな目を思い出した。
興味ではない。
けれど、忘れられない。
知らないうちに、彼女は
“起こしてはいけないもの”を起こしてしまったのかもしれなかった。




