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その輝き、私が台無しにしてあげる

作者: 秋月アムリ

 風が柔らかな緑青色の葉を揺らす。

 王都アステリアは、今日も穏やかな陽光に包まれていた。薬学院の庭園で、エリノア・フォン・ベルクは小さな乳鉢を手に、集中した面持ちで陽光苔をすり潰している。


(もう少し、粒が細かくなるまで……)


 彼女の指先は繊細だった。下位貴族であるベルク子爵家の令嬢として、王都の高等薬学院で学ぶことは、彼女にとってこの上ない喜びであり、誇りでもあった。

 この国では、知識と技術こそが人々を支える礎だった。エリノアが学ぶ薬学も、その一つ。大地に根ざす草木や、鉱石の性質を解き明かし、人々の傷や病を癒す。それは地道で、根気のいる作業だったが、エリノアはそれを愛していた。


「エリノア様、また研究ですか?」


 声をかけてきたのは、同じ学院に通う平民の少女だった。

 エリノアは顔を上げ、穏やかに微笑む。


「ええ。この苔、熱冷ましによく効くの。でも、もっと効果を高められないかと思って」


 彼女は貴族でありながら、決して驕ることがなかった。その穏やかな人柄と、分け隔てない優しさ、そして確かな薬学の知識は、学院の者たちだけでなく、彼女が時折訪れる王都の下町の人々からも慕われていた。


(早く、一人前の薬師になって、故郷の領地でも役立ちたい。……そして、アラン様のお側で、恥ずかしくない妻になりたい)


 乳鉢を扱う手をふと止め、彼女は胸元に下げた小さな銀のロケットに触れた。中には、彼女の婚約者、アラン・ド・モルヴァン伯爵次男の小さな肖像画が収められている。

 幼い頃から定められた婚約。だが、エリノアにとってアランは、ただの政略の相手ではなかった。共に森を駆け、川で遊び、星を眺めた幼馴染。王都に来てからは頻繁に会うことは叶わないが、彼から届く手紙が、彼女の何よりの支えだった。


『君の調合した薬が、領民の子供を救ったと聞いた。君を誇りに思う』


 その言葉を思い出すだけで、胸が温かくなる。

 エリノアは再び作業に戻った。陽光苔の微細な粒子が、滑らかな粉末になっていく。その傍らには、乾燥させた月光草が束ねられ、独特の清涼な香りを放っていた。


 この世界は、奇跡など起こらない。だが、知識と努力で掴み取れる、ささやかだが確かな幸福に満ちている。

 エリノアは、そう信じて疑わなかった。


 その幸福が、音を立てて崩れ始めるまで、あと数日のことである。



 影は、王都の北側にある貧民街から忍び寄った。

 最初は、ただの風邪と誰もが思っていた。だが、乾いた咳と高熱は、従来のどの薬も受け付けなかった。患者は数日のうちに急速に衰弱し、息を引き取る。

 病は瞬く間に王都全域に広がった。人々はそれを灰熱病と呼び、恐れた。


 薬学院も閉鎖の危機に立たされた。教授たちも原因の特定と治療法の確立を急いだが、有効な手立ては見つからない。街は活気を失い、家々の窓は固く閉ざされ、通りには病に倒れた人々を運ぶ荷車だけが、重い車輪の音を響かせるようになった。

 エリノアも、無力感に苛まれていた。


(どうして。どの薬草も効かないなんて……)


 学院の資料室に籠もり、彼女は寝る間も惜しんで古い文献を漁った。陽光苔も、月光草も、これまで数多の病に効果を示してきた薬草が、灰熱病の前では無力だった。


 そんな絶望が王都を覆い始めた頃、一人の貴婦人が立ち上がった。


 セラフィーナ・ド・ヴァリエール侯爵令嬢。

 絹のように輝く金色の髪、蒼穹を映したかのような青い瞳。その美貌は「王都の至宝」と謳われ、社交界の華として、誰もが憧れる存在だった。

 彼女は、自らの私財を投じて貧民街に施療院を建てると宣言した。


「この苦しみの時にこそ、私たちが手を取り合うべきですわ」


 さらに彼女は、ヴァリエール侯爵家に古くから伝わるという聖なる泉の水を、病に苦しむ人々に無償で提供し始めた。

 その水は、不思議な効果を持っていた。

 あれほど頑固だった高熱が、その水を飲むと一時的にすっと引くのだ。


「セラフィーナ様こそ、我らを救う聖女だ!」

「聖女様、万歳!」


 人々は熱狂した。王家も彼女の功績を称え、セラフィーナの名声は日増しに高まっていく。

 エリノアも、その噂は耳にしていた。だが、薬学を学ぶ者として、一抹の違和感を覚えていた。


(泉の水だけで、病が治る? ……そんなことがあり得るのだろうか)


 彼女は、学院の師である老教授に頼み込み、セラフィーナが配っているという聖なる泉の水を少量、分けてもらうことに成功した。

 研究室に籠もり、エリノアは慎重にその水を分析した。

 匂いはない。色も透明。だが、銀の匙を浸してみると、匙の表面がわずかに曇る。


(これは……)


 さらに彼女は、その水を蒸留し、残った成分を調べた。


(微量だけど……「赤錆鉱」の成分が含まれている?)


 赤錆鉱は、少量であれば解熱作用を示す。だが、それはあくまで一時的なもの。そして何より、長期にわたって摂取すれば、体に毒素が蓄積し、内側からゆっくりと蝕んでいく危険な鉱物でもあった。


「まさか……」


 エリノアは青ざめた。セラフィーナは、王都の人々に、毒を配っている?


(そんなはずはない。きっと、泉の水源に、偶然その鉱脈が近いだけ……)


 そう思おうとした。だが、それならば、なぜ一時的に熱が引くことだけが喧伝され、その後の経過が報告されないのか。

 エリノアは、数少ない協力者である下町の顔役を通じて、施療院の内部の様子を探ってもらった。

 返ってきた報告は、恐ろしいものだった。


「施療院に入った者は、二度と出てこない。そんな噂が立っている、ですって……?」


「聖なる水」で一時的に回復したように見えた患者たちも、数日後にはさらに重い症状に見舞われ、密かに処分されているというのだ。


「なんてこと……」


 セラフィーナは、人々を救っているのではない。彼女は、自らの名声のために、人々を実験台にし、見殺しにしているのだ。

 エリノアは震えた。怒りと恐怖で。


(止めなければ。でも、どうやって?今や王都の誰もが、彼女を聖女だと信じている……)


 証拠がない。エリノアの分析結果も、侯爵令嬢の奇跡の前では、古い治療法に固執した下位貴族の令嬢の嫉妬として片付けられてしまうだろう。


(灰熱病の、本当の原因を突き止めないと。そして、本当の治療法を見つけるんだわ)


 エリノアは再び文献との格闘を始めた。灰熱病の症状、赤錆鉱の毒性、そして過去の疫病の記録。

 彼女は、ある共通点に気づいた。

 灰熱病が最初に発生した貧民街。その近くには、数年前に廃止された古い鉱山があった。


(もしかして、あの鉱山から何かが?)


 エリノアは危険を承知で、男装し、夜陰に紛れてその廃鉱山へ向かった。

 廃坑の入り口は、瘴気とも呼ぶべき澱んだ空気に満ちていた。魔法ではない。それは、地中深くから染み出す、有毒な気体。文献によれば地瘴と呼ばれるものだった。


「これだわ……」


 灰熱病の症状は、地瘴を吸い込んだ際の中毒症状と酷似していた。王都の地下水脈が、この廃鉱山とどこかで繋がってしまったのだ。それが井戸水を通じて、王都全域に広がった。


(セラフィーナ様の聖なる泉の水も……あるいは、この地瘴の毒性を、赤錆鉱で一時的に中和しているだけ?)


 彼女は確信した。セラフィーナは、この原因を知っている。知っていて、利用しているのだ。


(治療法は……)


 地瘴の中毒には、古文書によれば、極寒の地にのみ自生するという霧氷花という植物の根が有効だと記されていた。

 だが、霧氷花は王都近郊には存在しない。それは、王国の北端、雪深い山脈にしか咲かない、幻の花だった。


(どうしよう……今から取りに行っても、間に合わない)


 絶望がエリノアを包んだ。

 その時、彼女の脳裏に、一つの記憶が蘇った。


(待って。薬学院の温室……! あそこなら!)


 薬学院の最奥部には、王国中のあらゆる植物を集めた、巨大なガラス張りの温室が存在する。気温や湿度を厳密に管理し、希少な薬草を栽培・研究するための施設だ。

 もしかしたら、そこになら霧氷花があるかもしれない。

 エリノアは急いで学院に戻った。

 真夜中の温室は、静まり返っていた。月光草が青白い光を放ち、幻想的な空間を作り出している。

 エリノアは、北の植物を集めた一角へと走った。


「あった……!」


 ガラスケースの中で、氷の結晶のような形をした、青白い小さな花が、凛として咲いていた。

 霧氷花。間違いない。

 数は少ない。だが、これさえあれば、中和薬の精製は可能だ。


(これを増やして、地瘴の源を突き止めて、浄化すれば……!)


 希望の光が見えた。

 だが、この研究を、そしてこの事実を、誰が信じてくれるだろうか。

 聖女セラフィーナに傾倒する王都で、下位貴族の娘の訴えなど、握り潰されるだけだ。


(力が必要だわ……)


 エリノアの脳裏に浮かんだのは、ただ一人。

 彼女の婚約者、アラン・ド・モルヴァンだった。

 彼は伯爵家の人間だ。彼を通じて、彼の父親であるモルヴァン伯爵、あるいは王家の側近にこの事実を伝えれば、あるいは。


(アラン様なら、きっと私を信じてくれる)


 エリノアは、震える手でアランに手紙を書いた。


『緊急の事態です。王都を救う道を見つけました。けれど、私一人の力ではどうしようもありません。どうか、お力を貸してください』


 彼女は、自らの研究成果をまとめた羊皮紙と、霧氷花の押し花を、アランへの手紙に添えた。

 翌日、アランはすぐにエリノアの元を訪れた。


「エリノア、大丈夫か!君のやつれた顔を見て、心配したよ」

「アラン様……!」


 久しぶりに見る婚約者の姿に、エリノアの目に涙が滲んだ。彼は変わらず優しかった。


 研究室に二人きりになると、エリノアは必死に説明した。

 灰熱病の正体が地瘴であること。セラフィーナの「聖なる水」が、赤錆鉱の毒を含んだ危険なものであること。そして、霧氷花だけが、人々を救う鍵であること。

 アランは、終始真剣な面持ちで彼女の話に耳を傾けていた。


「……そうか。大変なことを、君は一人で突き止めたんだな」


 アランは、エリノアがまとめた資料を手に取った。


「この霧氷花という花は、学院の温室にしかないのか?」

「はい。ですが、株分けして増やすことができます。時間はかかりますが……」

「わかった。エリノア」


 アランは、エリノアの手を強く握った。


「君の研究は、僕が必ず、しかるべき場所へ届ける。君は、王都の救世主だ」

「アラン様……」

「資料は僕が預かろう。君は、このことが外部に漏れないよう、慎重に行動してくれ。特に……セラフィーナ、様には、気取られてはいけない」

「はい……!」


 アランの力強い言葉に、エリノアは心の底から安堵した。


(ああ、よかった。アラン様がいてくれて……)


 彼が資料を預かり、研究室を去っていく。


(これで、すべてが解決する)


 その背中を見送りながら、エリノアは、ようやく差し込んだ光明に、神に感謝した。




 アランが資料を持ち去ってから、三日が過ぎた。

 何の連絡もない。


(アラン様、どうされたのかしら……)


 不安がエリノアの胸をよぎり始めた、その日の午後。

 薬学院の扉が、荒々しく開かれた。


「エリノア・フォン・ベルク! ここか!」


 入ってきたのは、王宮の衛兵たちだった。指揮官らしき男が、冷たい目でエリノアを睨みつける。


「な、何でしょうか……?」

「貴様を、王都を混乱に陥れた大罪人として逮捕する!」

「え……?」


 エリノアは何が起こっているのか理解できなかった。


「王都の民を救う聖なる泉に毒を混入し、聖女セラフィーナ様の御名を騙り、人心を惑わせようとした罪だ!」

「そんな、私は何も……!」

「白々しい! 証拠は上がっている!」


 衛兵が示したのは、エリノアの研究室から発見(・・)されたという、一つの箱だった。

 中には、地瘴の源である、有毒な鉱石が詰め込まれていた。


「これは……」


 エリノアは息を呑んだ。それは、彼女が廃鉱山からサンプルとして持ち帰ったものだった。だが、こんな場所に隠してなどいない。


(誰かが、私を……)


「連れて行け!」


 衛兵たちに両腕を掴まれ、エリノアは引きずられるように学院を後にした。

 何かの間違いだ。

 アラン様が、きっと弁明してくれるはずだ。

 そう信じていた。



 彼女が連れて行かれたのは、王宮の広場だった。

 そこには、すでに多くの民衆が集められ、異様な熱気に包まれていた。

 広場に設けられた壇上には、王族の姿もあった。

 そして、その中央に、悲しみの表情を浮かべて立つ、聖女セラフィーナ。


「皆様、聞いてください」


 セラフィーナの澄んだ声が、静まり返った広場に響く。


「私は、信じられませんでした。この王都に、人々の苦しみを、自らの利益のために利用しようとする者がいようとは……」


 彼女の視線が、衛兵に突き出されたエリノアを捉える。


「エリノア・フォン・ベルク。彼女は、薬学院の知識を悪用し、灰熱病の混乱を長引かせ、あろうことか、私が配る聖なる泉の水に、あの忌まわしい地瘴の毒を混ぜ込もうと画策していたのです!」


 民衆から、驚きと怒号が上がった。


「なんと浅ましい!」

「聖女様を陥れようとは!」

「待って!違います!」


 エリノアは叫んだ。


「私は毒など!あれは、灰熱病の原因を突き止めるための……!」

「まだ、そのような嘘を」


 セラフィーナは、悲しげに首を振った。


「証拠は、揃っておりますのよ」


 壇上に、一人の男が歩み出た。

 エリノアは、我が目を疑った。


「アラン……様……?」


 アラン・ド・モルヴァン。

 彼女の婚約者。


 彼女が、すべてを託した、ただ一人の人。

 そのアランが、なぜ、セラフィーナの隣に。

 アランは、民衆に向かって重々しく口を開いた。


「告白しなければならないことがある。……私は、彼女に騙されていた」

「え……?」

「彼女は、私にこう言った。『灰熱病は、もっと儲かる。セラフィーナ様の手柄を横取りすれば、私たちは莫大な富と名声を得られる』と……」

「アラン様、何を仰って……!」

「私は、彼女の甘言に一度は乗りかけた。だが、聖女様の清らかなお姿を拝見し、自らの過ちに気づいたのだ!」


 アランは、エリノアを指差した。


「この女こそ、王都に災いをもたらす真の毒だ! 私が、彼女の研究室に毒が隠されているのを発見し、セラフィーナ様に通報した!」


 エリノアの頭の中で、何かが、ぷつりと切れた。


(あ……、ああ……)


 血の気が引いていく。

 世界が、音を失っていく。


 騙されていた。

 利用された。

 アランは、最初から、セラフィーナと繋がっていたのだ。


 彼女の研究成果を。

 霧氷花の存在を。

 すべて、セラフィーナに売り渡したのだ。


(だから、三日も……)


 三日の間に、彼らは動いた。

 アランは手柄を立て、セラフィーナはエリノアを悪魔に仕立て上げた。


「そして、ここに、朗報があります」


 セラフィーナが、声を張り上げた。


「アラン様のご協力のおかげで、私たちは、灰熱病の真の特効薬を発見することができました!」


 彼女が高々と掲げたのは、一輪の花。

 青白く輝く、霧氷花だった。


「この()氷花こそ、神が我らに与えたもうた、奇跡の花! 私はアラン様と共に、これを王都のすべての人々に届け、灰熱病を根絶することをお約束いたします!」

(聖氷花……? 違う、それは、霧氷花……! 私の……!)


 民衆の熱狂は、最高潮に達した。


「聖女セラフィーナ様、万歳!」

「アラン様、万歳!」

「毒の魔女を、処刑しろ!」

「そうだ、火あぶりだ!」


 憎悪に満ちた視線が、エリノアに突き刺さる。


(ああ……そう。そうだったの……)


 エリノアは、もう、何も聞こえなかった。

 ただ、壇上で寄り添い、民衆の歓声に応える二人を、見つめていた。

 誇らしげなセラフィーナ。

 そして、その隣で、安堵したように、しかしエリノアからは冷たく目をそらし、セラフィーナの手を握る、アラン。


(私の研究も、私の花も、……私の婚約者も……)


 すべて、あの女に奪われた。


「エリノア・フォン・ベルク!」


 判決が下される。


「貴様の行いは、国家への反逆にも等しい。本来ならば死罪であるが、聖女セラフィーナ様の寛大なる慈悲により、死罪は免ずる」


(慈悲……?)


「貴様を、王都の地下、『黒の塔』への終身幽閉に処す!」

「また、ベルク子爵家は、反逆者を輩出した罪により、爵位及び全財産を没収。王都より永久追放とする!」

「お父様! お母様!」


 エリノアは、絶叫した。

 だが、その声は、民衆の歓声にかき消された。


(いや……いやあ……!)


 衛兵に引きずられながら、エリノアは、最後に見た。

 バルコニーの上で、アランが、セラフィーナの額に、優しく口づけるのを。

 二人の婚約が、その場で発表された。

 祝福の歓声が、まるで地獄の叫びのように、エリノアの耳にこびりついた。




 黒の塔。

 それは、光の届かない、王都の地下深くに築かれた、古い牢獄。

 魔法のないこの世界で、重罪人とは、すなわち「知識を悪用した者」や「国家転覆を謀った者」を指す。彼らが二度と社会に戻れないよう、隔離するための場所だった。


 エリノアは、その一番奥、最も冷たい石牢に放り込まれた。

 じっとりとした湿気が、薄い囚人服を通して体温を奪っていく。

 壁からは、陽光苔とは似ても似つかぬ、不快な匂いのする苔が繁殖していた。


(……寒い)


 両親は、どうなっただろうか。

 領地は。

 使用人たちは。

 ベルク家は、彼女のせいで、すべてを失った。


(私の、せい……?)


 違う。


(あの女のせいだ)


 セラフィーナ・ド・ヴァリエール。


(あの男のせいだ)


 アラン・ド・モルヴァン。


(許さない)


 エリノアは、冷たい石の床に倒れ込んでいた。

 指先が、何かに触れた。

 硬い、石のかけら。


(許さない)


 彼女は、その石のかけらで、床に何かを刻み始めた。


(私の研究)

(私の知識)

(私の未来)

(私の家族)

(私の、アラン様……)


 ガリ、ガリ、と、不快な音が、暗い牢獄に響く。


(奪った)

(あの女が、すべて)

(あの輝く笑顔で、聖女の仮面で、私からすべて)


 エリノアは、かつて薬草を扱っていた繊細な指先から、血が滲むのも構わなかった。


(穏やかに生きたかった)

(ただ、人を助けたかった)

(ささやかに、幸せに…………)


 その願いは、踏みにじられた。


(ああ、そう)


 彼女の口から、乾いた息が漏れた。


(そうだったの)

(優しさなんて、何の役にも立たない)

(信じる心なんて、利用されるだけ)

(知識は、人を救うためじゃない)


 エリノアは、ゆっくりと顔を上げた。


 暗闇に慣れた瞳が、虚空を捉える。

 そこには、もう、かつての穏やかな令嬢の面影はなかった。

 あるのは、燃え盛る憎悪と、氷よりも冷たい、狂気。


()()()()()()()()()()()()

(あの女が、私から奪ったすべて。……ううん、それ以上に)

(あの女が今、手にしている輝き、そのすべてを)

(私が、台無しにしてあげる)


 エリノアは、自らの血が滲んだ指先を、ゆっくりと舐めた。

 鉄の味が、口の中に広がる。


(セラフィーナ)

(アラン)

(あなたたちが、私に教えてくれたのよ)

(この世界の、本当の生き方を)


 暗闇の底で、エリノアは、静かに笑った。

 それは、壊れた人形のような、ひどく歪んだ笑みだった。



 *



「黒の塔」の暗闇は、人の理性を容易く削り取る。

 だが、エリノア・フォン・ベルクにとって、それは理性を研ぎ澄ますための砥石となった。


 光の届かない石牢。与えられるのは、日に一度の硬いパンと、生臭い水だけ。


(足りない)


 エリノアは飢えていた。食事ではない。知識に。


(あの女は、私のすべてを奪った)

(ならば私は、ここで、更なる知識を得る)


 幸い、この「黒の塔」は、彼女以前にも多くの「知識を悪用した者」たちを飲み込んできた場所だった。

 エリノアは、石牢の壁を、床を、血の滲む指先で丹念に探った。


(あった)


 硬い石の表面に、前の囚人が残したであろう、微細な文字が刻まれていた。それは薬学の知識ではない。王都の地下構造、水脈の流れ、そして鉱物学。

 別の壁には、王宮の古い薬剤師が記した、毒物と薬物の相反する関係についての覚書があった。


(これだ……これこそが私の武器)


 エリノアは、狂ったようにそれらを暗記し、自らの薬学と結びつけていった。

 湿った牢に繁殖する闇苔。これは、文献でしか見たことのない、特定の鉱物が存在する場所でしか育たないはず。


(この牢獄は、王都の地下水脈の、源流の一つに近い)

(そして、月長石の鉱脈が、この下にある)


 彼女は、仮説を立てた。

 与えられる生臭い水。それは、この地下水脈から汲み上げたもの。


 彼女は、パンの一部を水に浸し、壁の闇苔に塗り付けた。

 数日後、闇苔は異常な速度で増殖し、色を濃く変えた。


(水が、反応している)

(灰熱病の原因だった地瘴は、あの廃鉱山だけのものではなかった)

(王都の地下、その全域に、微弱ながらも地瘴の源が眠っている)


 そして、エリノアは、恐ろしい事実に思い至る。


(霧氷花……)


 あの青白い花は、極寒の地で、地瘴を糧にして咲く花だった。


(あの女、セラフィーナは、どうやって霧氷花を育てている?)

(地瘴がなければ、あの花は育たない)

(王都の地瘴は、私が原因を特定した後、王宮によって浄化作業が進められたはず)


 エリノアの脳裏に、一つの推論が浮かんだ。


(もし、セラフィーナが、王都の浄化を中途半端に終わらせ、自分の管理する泉の周辺に、意図的に地瘴を残していたとしたら?)

(霧氷花を「聖氷花」として独占栽培するために)

(そして、その地瘴の管理に、失敗し始めているとしたら?)


 エリノアの唇が、歪んだ笑みの形に吊り上がった。


(だとしたら、私は、それを少しだけ、手伝って(・・・・)あげるだけ)


 復讐の準備は、まず、道具の確保からだった。

 エリノアは、穏やかだった頃の自分を演じることにした。


「看守様……お願いがあります」


 牢の格子越し、彼女は弱々しく声をかけた。


「うるさい、罪人め」

「私の故郷は、薬草の産地でした。この闇苔は、ひどい咳に効く軟膏になるのです。……看守様の奥様が、咳で苦しんでいらっしゃると、他の看守の方が話しているのを聞きました」


 看守はぎょっとして、足を止めた。


「……なぜ、それを」

「音ですわ。私は、薬師ですから。咳の音を聞けばわかります。あれは、ただの風邪ではありません」


 エリノアは、牢の壁に刻まれた毒物学の知識を応用していた。


「この闇苔と、ほんの少しの塩。そして、赤錆鉱の粉末があれば……奥様を救えるかもしれません」


 赤錆鉱。それは、かつてセラフィーナが使った毒。だが、使い方次第で薬にもなることを、エリノアは知っていた。


「……毒の魔女め。何を企んでいる」

「企む? こんな場所で、私に何ができます?」


 エリノアは、悲しげに微笑んだ。それは、かつてアランを騙した、セラフィーナの笑みを完璧に模倣したものだった。


「ただ、もう一度だけ、誰かの役に立ちたかった。……それだけですわ」


 看守は、疑いながらも、妻を救いたい一心で、彼女の要求したものを密かに持ち込んだ。

 塩、赤錆鉱の粉末、そして、研究に必要な最低限の器具。


 エリノアは、要求通り、咳止めの軟膏を作った。それは、見事に効果を発揮した。

 看守は、エリノアに感謝し、同時に、彼女の知識を恐れた。


 だが、一度「取引」に応じてしまった看守は、もう後戻りできない。

 エリノアは、彼を完全な駒とした。


「次は、これを」


 彼女が要求するものは、徐々にエスカレートしていった。

 様々な鉱物の欠片。植物の種。王都のゴシップが書かれた古い新聞紙。


(セラフィーナ様とアラン様の、ご成婚、五年)

(聖氷花の恩恵により、王都は未曾有の繁栄)


 新聞に刷られた二人の肖像画は、幸福の絶頂に輝いていた。


「……そう。輝いているのね」


 エリノアは、その新聞紙を、闇苔と鉱物の粉末と共に、乳鉢ですり潰した。


(あなたの輝きは、私の知識でできているのよ、セラフィーナ)



 五年という月日は、王都を変えた。

 聖女セラフィーナと、その夫アラン・ド・モルヴァンは、王都の英雄だった。


 彼らが管理する「聖氷花」の栽培農園は、王都の北、かつてエリノアが調査した廃鉱山近くの土地に作られ、莫大な富を生み出していた。

 聖氷花は、灰熱病の特効薬としてだけでなく、万病に効く奇跡の薬として、高値で取引された。


 セラフィーナの美貌は、五年の時を経ても衰えるどころか、ますます神々しさを増していると噂された。

 人々は、彼女が聖氷花の力で、永遠の若さを手に入れたのだと信じていた。

 だが、その輝きの裏で、影は静かに広がっていた。


「どういうことだ!なぜ、聖氷花が枯れる!」


 アランの怒声が、農園の管理小屋に響いた。

 数ヶ月前から、原因不明の立ち枯れ病が、農園の一部で発生していたのだ。


「申し訳ありません、アラン様! ですが、原因が……」

「原因不明で済むと思うな!セラフィーナ様にお渡しする量が減れば、どうなるかわかっているのか!」

 アランは、もはやエリノアが知る優しげな青年の面影はなかった。富と権力を手にした彼は、傲慢で、猜疑心の強い男に変貌していた。


(くそ、あの女……)


 彼の脳裏に浮かぶのは、妻であるセラフィーナの、凍てつくような視線だった。

 彼女は、自らの聖女としての地位と、その美貌を維持するために、聖氷花を大量に消費していた。特に、彼女が常用する、高濃度に精製された聖氷花のエキスは、農園の生産量の三割を占めていた。


「あれがなければ、私は聖女でいられないの!」


 ヒステリックに叫ぶ妻をなだめるのは、アランの役目だった。


(あれはもはや薬ではない。依存性のある毒物だ)


 アランは気づいていた。聖氷花は、地瘴の毒を中和するだけではない。長期間、高濃度で摂取し続ければ、精神に異常をきたし、依存症状を引き起こすのだ。


(だが、今更やめられるものか)


 彼らの富も、名声も、すべてはこの聖氷花の上になりたっている。


「……例の()を撒け。濃度を上げろ」


「し、しかし、アラン様! あれは危険すぎます! 規定量を超えれば、土地が死にますぞ!」

「うるさい! 枯れるよりマシだ! やれ!」


 アランが水と呼ぶもの。

 それは、セラフィーナが聖女の地位を確立した後、極秘裏に研究させていた、人工の地瘴だった。

 霧氷花が地瘴を糧にすることに気づいたのは、彼らにとっても幸運だった。だが、自然の地瘴は不安定だ。

 そこで彼らは、薬師たちに、赤錆鉱や他の有毒な鉱物を調合させ、霧氷花を強制的に成長させるための培養液を開発させたのだ。


 農園は、奇跡の薬の生産地であると同時に、王都の地下に、新たな毒を垂れ流す源泉ともなっていた。


(すべては、セラフィーナのため……いや、私たちの、ために)


 アランは、自らに言い聞かせ、農園を後にした。




 その頃、黒の塔の最下層。

 エリノアは、看守から手に入れた、農園で使われている「培養液」のサンプルを、静かに分析していた。


(……愚かだわ)


 彼女の分析は、一瞬でその正体を見抜いた。


(赤錆鉱、月長石の粉末、そして……腐食粘土?)

(こんなものを混ぜ合わせれば、確かに一時的に地瘴は活性化し、霧氷花は育つ)

(でも、それは、毒で毒を制しているだけ)

(このバランスが一度崩れたら……)


 エリノアは、牢の壁に刻まれた地下水脈の図を見上げた。

 農園は、王都の水源の、ちょうど真上に位置していた。


(彼らは、自分たちの井戸に、自分たちで毒を注いでいる)

(あとは、ほんの少し、きっかけを与えてあげるだけ)


 エリノアは、自分が牢獄で培養していた闇苔の変異種を取り出した。

 それは、新聞紙のインクに含まれる鉛と、赤錆鉱を養分とし、通常の闇苔の数十倍の速度で増殖する、彼女だけの作品だった。

 彼女は、その変異種の苔を、乾燥させ、粉末にした。


「看守様」

「……今度は、何だ」


 すっかりエリノアの操り人形となった看守が、やつれた顔で格子戸の前に立った。


「最後の、お願いです」


 エリノアは、穏やかに微笑んだ。かつての、聖女とさえ呼ばれたかもしれない、無垢な笑顔で。


「これを、王都で一番高い場所にある、教会の鐘楼から、風の強い夜に、撒いていただけますか?」


 それは、一見すると、ただの黒い砂埃にしか見えない粉末だった。


「……これは、何だ」

「祝福の、粉ですわ」

「祝福……?」

「ええ。聖女セラフィーナ様と、アラン様の、輝かしい未来を祝福する、私からのささやかな贈り物。……彼らが、私にしてくれたことへの、お礼ですもの」


 その笑みに、看守は得体の知れない恐怖を感じた。

 だが、彼はもう、エリノアに逆らえなかった。彼女に処方された薬なしでは、彼の妻は、再びあの苦しい咳に襲われるのだ。

 看守は、その黒い粉末を受け取り、闇の中へと消えた。




 数日後。王都を、乾いた風が吹き荒れた。

 黒い粉末は、風に乗り、王都全域に、そして、聖氷花の農園へと降り注いだ。


 それは、農園で使われていた培養液に触れた瞬間、劇的な化学反応を引き起こした。

 エリノアの変異闇苔は、培養液に含まれる腐食粘土と赤錆鉱を触媒として、地瘴を、全く新しい、未知の猛毒へと変質させたのだ。


 最初に異変に気づいたのは、聖氷花農園の労働者たちだった。


「うわあああっ!」


 聖氷花が、一斉に、黒く変色し、溶けるように枯れていった。

 培養液が染み込んだ大地からは、異臭を放つ紫色の瘴気が立ち上る。


「毒だ! 毒が発生した!」


 人々は逃げ惑った。

 だが、その毒は、すでに地下水脈を通って、王都中へと広がり始めていた。

 特に、農園から最も近い場所、すなわち、アランとセラフィーナが住む、モルヴァン伯爵家の邸宅の井戸水は、致死量の毒に汚染されていた。


「アラン様!アラン様!」


 朝、アランは、侍女の悲鳴で目を覚ました。


「うるさい、何事だ……がっ!?」


 起き上がろうとした瞬間、激しい眩暈と吐き気に襲われた。

 鏡を見て、彼は絶叫した。


「ああ……あああああ……!」


 彼の顔には、灰熱病の末期患者のような、紫色の斑点が浮き出ていた。


「聖氷花を! 早く、聖氷花のエキスを!」


 彼は、震える手で、常備していた高濃度のエキスを呷った。

 だが、症状は一向に治まらない。

 それどころか、聖氷花の成分が、体内の新しい毒と反応し、彼の苦しみを増幅させた。


「なぜだ……なぜ効かない!」


 そこへ、セラフィーナが、自らも顔をヴェールで隠し、よろめきながら入ってきた。


「あなた……! 農園が……! 聖氷花が、すべて……!」

「何だと!?」


 二人が、互いの顔を見合わせた。

 ヴェールがはらりと落ちる。

 そこにいたのは、王都の至宝、聖女セラフィーナではなかった。

 肌は毒にまだらに焼けただれ、輝いていたはずの金色の髪は、見る影もなく抜け落ちている。


「あ……」

「ひっ……!」


 アランは、醜く変貌した妻の姿に、悲鳴を上げた。


「あなた、今、私を見て、悲鳴を……?」

「化け物……! お前は、誰だ!」

「何を言うの! 私よ、セラフィーナよ! あなた、自分の顔こそ、鏡でご覧なさい!」


 二人は、互いの醜い姿を罵り合った。


「お前のせいだ! お前が聖氷花を使いすぎるから!」

「あなたの管理がずさんだからよ! あの花がなければ、私たちは終わりなのよ!」


 富も、名声も、そして、お互いを繋ぎとめていた美しさという名の虚構も、すべてが崩れ去った。

 彼らは、王都の民衆がかつてかかった灰熱病よりも、遥かにおぞましい病に、二人きりで侵されたのだ。


 混乱は、王都全域に広がった。

 聖氷花が全滅した。

 アラン様とセラフィーナ様が、謎の病に倒れた。

 民衆は、今度は、セラフィーナとアランを毒の源として糾弾し始めた。


「聖女などではなかった!」

「我々を騙していたのだ!」

「あの二人こそ、真の魔女だ!」


 王宮も、手のひらを返した。

 自分たちに害が及ぶ前に、すべての罪を二人に押し付けることを決定した。


「セラフィーナ・ド・ヴァリエール、及びアラン・ド・モルヴァンを、王都に新たなる毒を撒いた大罪人として逮捕せよ!」


 だが、衛兵たちが邸宅に踏み込んだ時、二人は、すでに正気を失っていた。

 互いを化け物と罵り合い、引っ掻き合い、血塗れになって床を転げ回っていたという。

 彼らは、もはや人前に出せる状態ではなかった。


 王宮は、最終的な処分を、一人の男に委ねた。

 あの看守だった。

 彼は、今回の毒の発生源を知る、唯一の人物。

 そして、妻の命をエリノアに救われたと、今も信じている男。

 彼は、王宮の命令として、一つの小瓶を手に、黒の塔を訪れた。


「……終わらせろ、とのことだ」


 看守は、格子越しに、やつれた、しかし、その瞳だけが爛々と輝く女、エリノアに言った。


「ええ。そうでしょうね」


 エリノアは、すべてを理解していた。


「彼らは、どうなりました?」

「……見るも無惨な姿だ。もはや、人ではない。聖氷花の毒と、あんたが作った毒、それに、彼らが溜め込んだ毒……すべてが混ざり合い、生きながらにして、腐っていく病だ」

「まあ。それは、お気の毒に」


 エリノアは、心の底から楽しそうに、クスクスと笑った。


「セラフィーナ様は、最期まで『美しくありたい』と?」

「……ああ。鏡をすべて割り、鉛白の化粧を、ただれた肌に塗りたくっていた」


(鉛白……。ああ、それも、私が捨てた研究ノートの端に書いておいたもの)

(あの男、本当に、私の知識を、浅薄なまま盗んでくれたのね。滑稽だわ)


 毒の上から、さらに毒を塗る。


「アラン様は?」

「……あいつは、最期まで、あんたの名を呼んでいた。『エリノア、助けてくれ。君が正しかった。私を騙したのはセラフィーナだ』と」

「まあ」


 エリノアは、笑うのをやめた。


「……五年前に聞きたかった言葉ですわ」


 だが、その声に、もはや何の感情もこもっていなかった。


(遅いのよ。すべて)


 看守は、二人が幽閉されているという、別の牢獄へ向かった。

 エリノアは、その背中に、最後の指示を与えた。


「看守様」

「……何だ」

「その小瓶。……それは、解毒薬ではありませんわ」

「!?」

「それは、私が作った、最後の『贈り物』。あの二人が患う病は、霧氷花――いえ、聖氷花の特性、すなわち『地瘴を糧とする』という部分だけが、皮肉にも残っているのです」

「……どういう、ことだ」

「彼らの体は、今、地瘴を求めて、飢えている。聖氷花の禁断症状ですわ。その小瓶は、彼らが愛した聖氷花の香りを、私が再現してあげたもの。……ほんの少し、彼らの農園で使っていた培養液を混ぜてね」

「……!」

「それを、二人の間に、一滴だけ、垂らしてご覧なさい」


 エリノアは、暗闇の中で、最も美しい笑みを浮かべた。


「彼らは、五年前、私のすべてを奪って、輝かしい未来を手に入れた」

「……」

「だから……最期は、私の贈り物を、二人で仲良く奪い合えばいい」


 看守が、その言葉の意味を、本当に理解したかはわからない。

 ただ、その日の夜。

 王都の地下最深部から、人とも獣ともつかない、二つの、おぞましい咆哮が響き渡り、そして、ぷつりと途絶えた。

 セラフィーナとアラン。

 かつて王都の光とされた二人は、互いの醜い体を、最後の()を奪い合うために貪り合い、絶命した。

 彼らの輝きは、エリノアの知識によって、内側からすべて蝕まれ、喰らい尽くされたのだ。


 数日後。

 黒の塔の、エリノアの牢に、再び看守が訪れた。


「……終わった」

「ご苦労様でした」

「……王宮は、今回の騒動の真の英雄を探している」

「英雄?」

「すべてを終わらせた知識の持ち主を。……王宮の薬師たちが、あんたが壁に刻んだ、あの膨大な研究記録を見つけた。彼らは、あんたの知識を、恐れ、そして、求めている」

「……」

「塔から、出してやると、言っている。宮廷薬師長として、お前を迎えると」


 それは、エリノアがかつて夢見た以上の地位だった。

 失ったベルク家の再興も、叶うだろう。


 光の中へ、戻れるのだ。

 エリノアは、ゆっくりと立ち上がった。

 五年の暗闇が、彼女の肌を病的に白くしていた。


「……結構ですわ」

「な……! なぜだ!?」


 エリノアは、優しく、牢の壁を撫でた。

 そこには、彼女が解き明かした、毒と薬、生と死、世界の真理が、びっしりと刻まれている。


「光の中は、眩しすぎましたわ。……奪われるものばかりで」

「お前は、これから、どうする気だ」

「さあ?」


 エリノアは、暗闇の、一番深いところへ、ゆっくりと後ずさった。


(復讐は、終わった)

(あの女の輝きも、あの男の嘘も、私が蝕んであげた)


「私は、ここで、すべてを手に入れましたもの」


 彼女の姿が、闇に溶けていく。

 ただ、暗闇の奥から、満足しきった、静かな、静かな笑い声だけが、いつまでも響いていた。




 了

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