その後の話(2)
* * * * *
「ああ、やっぱり平和が一番だねぇ」
闇ギルド『宵闇の月』の一角にある小さな煙草屋の中。
ルイ様がのんびりと煙草を吸いながら、椅子に深くもたれかかって言う。
シルヴェストルはこれまで、彼女について『煙の魔女』という呼び名は少し大仰ではないかと思っていた。
確かに『魔物避け煙草』はとても素晴らしいものだと思うが、それだけでルイ様が『煙の魔女』と呼ばれるのは違和感があった。
……だが、今回の件で見方が変わった。
落ち人のあの男と戦っている時のルイ様は、まさしく『煙の魔女』だった。
不思議な武器を向けられても、剣で斬られても、まるで煙のようなルイ様には一撃も当たらず、掴みどころのない戦い方で男を無力化した。
貴族達が始めた『煙の魔女』という呼び名が似合う。
「シルヴェストル君は、足は本当にもう大丈夫なのかい?」
あの一件から半月が過ぎたというのに、ルイ様は時々こう訊いてくる。
「はい、治癒魔法で治したのでもうなんともありません。……私はあまり治癒魔法が得意ではないので、少々痕は残りましたが、動きに支障はございません」
ピクリとルイ様の眉が動く。
「……痕は残ったんだね」
「私が弱かっただけのこと、ルイ様がお気になさることではないでしょう」
そう返すと、ルイ様が口元に煙草を持っていく。
そうして椅子の背もたれから起き上がったルイ様に、ふぅ、と煙を吹きかけられた。多少煙たくはあるが、咽せるほどでもなく、甘い匂いに包まれる。
突然のことに驚いていると、ルイ様が困ったように眉尻を下げた。
「婚約者の怪我……それも、わたしに関わることを気にしないなんて無理さ」
初めて見る、ルイ様のどこか悲しそうな表情にシルヴェストルは反省した。
本当に気にするほどのことではないとシルヴェストルは思っているし、ルイ様が苦しまないようにと配慮したつもりが、逆に傷つけてしまったらしい。
「申し訳ありません、言い方が悪かったです。……傷は残りましたが、本当にもうなんともなく、私自身も気にしていないので大丈夫だと申し上げたかったのです」
「そうか……」
それでもルイ様の表情はあまり晴れなかった。
……もしかして、意外と心配性な方なのかもしれない。
こんな状況だがシルヴェストルはつい喜んでしまった。
これまで他人に関心のなかったルイ様が、シルヴェストルのことをとても心配してくれている。気遣うように向けられる黒い瞳にドキリとする。
「……それほど気になさるのでしたら、ご覧になりますか?」
冗談ではなかったが、ここまで言えばルイ様も引き下がるだろうと思った。
だが、ルイ様は顔を上げると頷いた。
「ああ、帰ったら確認させてもらおうかな」
と、なんてことないふうに言った。
それに提案したシルヴェストルのほうがギョッとしたが、言ってしまった手前、やはり無理ですとは言えなかった。
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店を閉めて馬車で帰宅し、自室に戻ろうとすれば、ルイ様に袖を掴まれた。
「それじゃあ、見せてもらおう」
真面目そうに言われてシルヴェストルは頷き、自室の扉を開けた。
「どうぞ」と促し、ルイ様を部屋に招き入れる。
ルイ様が物珍しそうに室内を眺めるので、少し照れてしまった。
ルイ様の部屋はいつも必要最低限しか物がないが、シルヴェストルの部屋は物が多い。片付けてはいるので荒れてはいないものの、ルイ様の部屋と比べると、同じ広さのはずなのに狭く感じられるだろう。
「この剣は?」
壁に飾ってある剣をルイ様が見る。
「そちらは以前、剣術大会で優勝した際に国王陛下より賜ったものです。……我が国では年に一度、騎士達が剣の技術を披露する場として剣術大会が開かれます。こちらの剣は二年前の剣術大会でのものです」
「へえ、去年は優勝しなかったのかい?」
「一度優勝した者は、以降は参加しないのが通例ですので……」
「なるほど」
しばし剣を眺めたルイ様が微笑んだ。
「剣については詳しくないけれど、シルヴェストル君がこの剣を大事にしているのは分かるよ」
そう言って振り向くルイ様の表情が綺麗で、シルヴェストルは束の間、見惚れた。
陛下より賜った剣は毎日綺麗に磨いているし、実際に使うことはないが、常に美しい状態であるようにと心がけていた。
そのことに気付いてもらえて嬉しかった。
「さて、ではそろそろ本題に入るとしよう」
と、ルイ様が振り向いたので、シルヴェストルは自然と背筋が伸びた。
「……本当にご覧になるのですか?」
「言い出したのは君のほうだ。シルヴェストル君の言葉を疑っているわけではないけれどね、痕といってもどれくらいのものかは気になる」
「……かしこまりました」
ルイ様に引き下がる気配はない。
椅子を持ってくるのが面倒だったのか、ルイ様がベッドの縁に腰掛ける。
シルヴェストルは剣のホルスターを外し、ベルトを外し、ズボンに手をかける。
「……あまり見つめられると気恥ずかしいのですが……」
ベッドの縁に座ったまま、ジッとルイ様がこちらを見ていた。
「ん? ああ、ごめん。動きに問題がないか気になってね」
言いながら目を伏せたので、シルヴェストルはズボンを脱いだ。
下着があるものの、同性以外の前で下着姿になるというのは落ち着かない。
シルヴェストルもベッドの縁に座り、ルイ様に左足太ももの傷痕を見せた。
丸い痕部分は少し濃く、その周りに少し薄く痕が広がっている。
痕自体はそれほど大きくはないものの、普段日焼けしない場所だからか、色合いが違うと非常に目立つ。
また、ジッとルイ様が傷痕を熱心に見つめる。
「痛そうだ」
「もう痛くありません」
「そうか……」
静かな、いつもと変わらない声だった。
ルイ様の手が伸びてきて、傷痕に触れる。
痛くはないが、傷痕の部分は他より皮膚が薄くなっているため感覚も鋭い。
傷痕をなぞるように触れられるとくすぐったく、落ち着かない気分になる。
普段、太ももなど誰かに触らせるような場所ではないため、なおさらだ。
「……この傷痕、消そうか?」
その問いにシルヴェストルは即座に「いいえ」と返答した。
「私が未熟者だったという戒めのためにも、残したままでよいです」
相手の力量を見誤り、自分ならば勝てると思い上がった結果である。
その戒めのために、この傷は残したままでいるべきだ。
そうすれば傷を見る度に己の愚かさを思い出し、反省することができる。
「いいのかい? わたしの煙草なら、多分消せるけれど……」
「はい、このままで」
顔を上げたルイ様と視線が絡み合う。
思いの外、近くにあるルイ様の顔に心臓が跳ねた。
伸ばされた手に引き寄せられ、口付けられる。
…………不思議な方だ……。
いつも予測がつかなくて、風変わりで、目が離せない。
唇が離れると囁かれた。
「シルヴェストル君に傷が残るのは面白くないが、君がそう望むなら仕方ない」
そして、もう一度口付けられる。
その手が傷痕に触れたので、思わずシルヴェストルは彼女の細い腕を掴み、ベッドに押し倒した。
これ以上のことをされるとさすがのシルヴェストルでも自制が難しい。
婚約期間とは、互いを知り、誠実であるか確認するためのものでもある。
「お戯れが過ぎます、ルイ様……」
これでもシルヴェストルは男だ。
普段は騎士としての職務に忠実であろうと、騎士として恥ずべきことはすまいと考え、そのように振る舞ってはいるが、二十代前半の血気盛んな年頃である。
あまり好き勝手にされると何をするか自分でも分からない、とシルヴェストルは思った。
掴んでいないほうの細い手がシルヴェストルの頬に伸びる。
「……だって、面白くないじゃないか」
ルイ様に左手を取られ、指輪に口付けられた。
指に触れたルイ様の柔らかな唇の感覚に心臓が跳ねた。
「君はわたしの婚約者なのに、その君にわたし以外が痕をつけるなんて」
それにシルヴェストルは目を瞬かせた。
「……まさか、嫉妬……ですか?」
ルイ様には似つかわしくないものだ。
だが、ルイ様は否定するどころか苦笑した。
「そうなのかもしれないねぇ」
ルイ様が下げた自身の左手の指輪にも口付ける。
それに釣られるようにシルヴェストルも頭を下げ、顔を寄せた。
もう一度、唇が重なる。
「……あなたは意外と可愛らしい方ですね」
ルイ様が苦笑を深めた。
「そんなことを思うのは君だけさ」
煙草を使えば、シルヴェストルのこの拘束すら簡単に抜け出せるだろう。
それなのにルイ様は逃げる様子も暴れる気配もない。
シルヴェストルに身を任せるその信頼と好意に、胸が熱くなる。
「……もう一度、口付けてもよろしいですか?」
「君は許可なんて取らなくていいんだよ」
笑い、目を閉じたルイ様にまた口付ける。
甘い香りと煙草独特の微かな苦味、そして柔らかな感触のする口付けだった。
* * * * *
シルヴェストル君はある意味、自分に似ていると思った。
職業柄なのか、自身を軽んじている節がある。
だからこそ、わたしからそれを指摘するのはどうかとも思う。
ズボンを穿き直したシルヴェストル君が隣に座り、くっついてくる。
人目のある場所では横に座ることはあっても、必要以上に彼のほうから触れてくることはないが、人目がないと時々こうして触れてくる。
わたしよりも体は大きいのに、その仕草は甘えるようだった。
……こういう時、歳下だと感じるねぇ。
二歳の差など大したことはないはずなのに。
ギュッと抱き着いてくる様子は甘える大型犬みたいだ。
「シルヴェストル君」
試しに右手を差し出してみる。
シルヴェストル君は不思議そうに目を瞬かせ、わたしの手を取り、頬を寄せた。
「はい、なんでしょうか」
すり、と頬擦りをして嬉しそうにシルヴェストル君が訊き返してくる。
人前では普段通りなのに、二人きりの時は素直で可愛らしい。
……なるほど、歳下が可愛いというのはこういうことか。
などと考えながら、わたしはシルヴェストル君の頬を撫でた。
「呼んでみただけだ」
「ルイ様」
「なんだい?」
「呼んでみただけです」
まるで少年少女のような初々しいやり取りに内心で呆れたが、シルヴェストル君の嬉しそうな表情を見ると、まあいいか、と笑みが浮かぶ。
頬に触れていた手を動かし、シルヴェストル君の頭を撫でる。
さらりとした手触りのよい髪が心地好い。
あの日、早朝に出た赤い画面について改めて調べたところ、私がマークをつけた相手に危険が迫ると出てくるものだと分かった。
どうやら無意識にシルヴェストル君にマークをつけていたらしい。
あの画面のおかげでシルヴェストル君を助けることができてよかった。
……それにしても、本当に便利な能力だ。
シルヴェストル君の手がわたしの髪に触れた。
「ルイ様は髪を伸ばさないのですか?」
「面倒だからね」
「とても美しいのに……」
と、なぜか残念そうな顔をされた。
「いいんだよ。長いと手間だし、掴まれやすいだろう?」
そう返すと、真面目な顔でシルヴェストル君がズイと身を乗り出した。
「誰かに髪を掴まれたことがあるのですか?」
「元の世界でね」
「もしや、ルイ様の上司だったという酷い男ですか?」
「君は意外と勘がいいね」
上司に髪を掴まれたことがあり、それが嫌で髪を切った。
……まあ、結局は頭をわし掴みにされたので変わらなかったけれど。
髪を引っ張られると抜けて痛いので、頭を掴まれるほうがまだマシだった。
「……私がルイ様の元いた世界に行くことができればよかったのに……」
心底不満そうに呟くので、わたしは笑ってしまった。
「君なら、あの上司を痛めつけてくれただろうね」
「ルイ様に手を出したことを一生後悔させます」
「ははは、ありがとう。シルヴェストル君がそう言ってくれるだけで、あの頃のわたしもきっと報われる。それに、わたしとしてはもう二度と会いたくないから、元の世界に行く方法なんて要らないさ」
もう一度、よしよしとシルヴェストル君の頭を撫でる。
まだ少し不満そうな彼に口付ければ、素直に受け入れてくれる。
……まったく、どうしてだろうねぇ。
わたしみたいな人間が、こんなによい人と婚約しているなんていまだに謎だ。
唇を離し、シルヴェストル君に寄りかかる。
「わたしはこの世界で生きる。……元の世界なんてもうどうでもいいよ」
逞しい腕に抱き締められた。
「命を賭してルイ様をお守りいたします」
「いいや、それはダメだ」
顔を上げ、シルヴェストル君の鼻先につんと触れる。
「君も自分の命を大事にしなさい。わたしは未亡人にはなりたくないし、君以外と結婚するつもりもない。だから、君も生きることをきちんと考えるんだ」
そう言えば、シルヴェストル君が幸せそうに目を細めた。
「かしこまりました」
騎士だからといって命を捨てるようなことはしてほしくないし、許さない。
「わたしをその気にさせたんだ。最後まで責任は取ってもらうよ」
「はい、ルイ様……いつまでもおそばにおります」
もう一度、ギュッと強く抱き締められる。
元の世界では他人の温もりが苦手だったが、今は安心する。
腕を回してわたしも彼を抱き締め返す。
……召喚されてよかった、なんて。
こんなふうに幸せを知ることができるとは思っていなかった。




