交わる剣
ふと目を覚ました。横には誰もいない。
しかし、横に誰かがいた跡は残っている。
その跡に触れると冷たく、体温すら残っていないのが少し残念だった。
ふあ……と欠伸をして、ゆっくりと起き上がる。
カーテンを閉め忘れた窓の外は薄明るいが、日の出はまだのようだ。
……相変わらず真面目だねぇ。
起きるまでそばにいてほしかった、なんてわがままだろう。
そんなことを思う自分がおかしくて、思わず小さく笑ってしまった。
「どうかしているな」
今更、誰かと共にいたいと願うなんて。
煙草でも吸おうかと手を持ち上げかけた瞬間、目の前に画面が現れた。
「……なんだ、これ」
慌ててメガネをかけて画面を見る。
その画面はいつもの半透明の青ではなく、警告のように赤く染まっていた。
* * * * *
目を覚ましたシルヴェストルは、ぼんやりした頭のまま首を横に動かした。
……眠い……。
落ちかけた瞼との隙間に、ルイ様の寝顔が映り込んで体が硬直する。
一瞬、なぜルイ様が……と混乱したものの、昨夜のことを思い出す。
ルイ様の部屋のベッドで共に眠ったのだ。
彼女は熟睡しているらしく、シルヴェストルが身動ぎをしても起きる気配はない。
起きる時間にしては少し早いが、驚きのあまり目が冴えてしまい、このままもう一度眠るのは無理そうだった。
ルイ様を起こさないようにそっとベッドから起き上がり、靴を履く。
後ろから聞こえる寝息に振り向けば、気持ちよさそうなルイ様の寝顔があった。
ランタンの明かりは消えており、まだ暗い外の景色が窓の向こうに見える。
しっかりと毛布をルイ様の肩までかけてから立ち上がる。
足音を消して扉まで行き、慎重に開けて、廊下に出る。
そうしてまた慎重に扉を閉めた。
それから自室に戻り、シルヴェストルは身支度を整えて部屋を出た。
……本当はもう少し、寝顔を見ていたかった……。
しかし、ルイ様が起きた時になんと声をかければいいのか分からなかった。
何より、あのままそばにいたら、ルイ様に触れてしまいそうだった。
眠る時は繋がっていた手が、起きた時は離れていて寂しかった。
その黒い瞳にシルヴェストルを映してほしい。
せっかく気持ちよさそうに眠っているのに、起きてほしいと思ってしまった。
……私の中に、こんな感情があるなんて。
とにかく、気持ちを切り替えるためにも、日課の走り込みに出た。
毎朝決まった道順を、同じ時間に走っている。
日中はルイ様の護衛としてそばにいることが多いのもそうだが、昔から早朝のこの時間に鍛錬を行い、体が鈍らないようにしていた。
ルイ様と一緒に住むようになってからもそれは変わらなかった。
走り込みを終えて家に帰ると、いつも少し眠そうなルイ様が中庭にいて、シルヴェストルの剣の鍛錬を眺めたり、煙草を作ったり、のんびりと過ごしている。
その存在を感じながらの鍛錬は居心地がよい。
帰ったらルイ様がいると思えば走り込みも楽しいものだ。
家を出て走り出したところで、そばの路地裏から「おい」と男の声がした。
腰に下げた剣に手をかけ、警戒すると、路地から影が出てくる。
フードを外したその人物にシルヴェストルは眉根を寄せた。
「あなたは……」
昨日の昼間、煙草屋に来た落ち人の男だった。
要注意人物であり、ルイ様の苦手な上司と雰囲気が似ているという男。
「ただの護衛かと思ったが、あの煙草屋の恋人か? ……物好きだな」
揶揄するような声音にシルヴェストルの眉間にしわが増える。
今度こそ剣を抜こうとすれば、手で制された。
「おっと、やり合うにしてもここじゃなくて、広場のほうがいい。俺はここでも構わねえが、お前さんの大切な煙草屋が音を聞きつけて起きちまうぜ」
……確かに、家の前で戦うのはまずい。
この男をルイ様から少しでも引き離すべきだ。
シルヴェストルは剣の柄から手を離した。
男は口角を引き上げ、笑うと、手招きをして広場に向かう。
その後ろを少し距離を空けてついていくが、普通に歩いているだけなのに、男には隙がない。今この瞬間に剣で背後から斬りかかったとしても、恐らく反応される。
……一体、どれほどの死戦を潜ったのか。
ルイ様の話では、元いた世界──……特にルイ様の国では危険は少なかったらしい。
誰も剣を持っていないし、魔法も使えないし、一般人が武器となるものを持ち歩くことも法的に許されていない。ルイ様が護身用のナイフすら持とうとしないのは、元の世界の感覚があるからなのだろう。
本人がそれに気付いていないようだったので、シルヴェストルも黙っていたが。
ルイ様と同じ、黒髪に黒い瞳を持つ男だが、戦い慣れている気配を感じる。
シルヴェストルが本気で戦えば、なんとか勝てるだろうが、無傷とはいかない。
男が広場に出て、噴水のそばまで歩いていく。
シルヴェストルもそれについていく。
噴水のそばで男が立ち止まり、振り返った。
「なるほど、躾はされているようだな」
「……用件はなんだ」
シルヴェストルは眉根を寄せたまま問う。
男はまた小さく笑った。
「煙草屋……あれは俺と同じ異世界人だな?」
「異世界人? 急に何を言っている」
「ああ、はぐらかさなくていいぞ。煙草だけならともかく、パッケージまで元の世界のものを再現するのはこの世界では技術的に無理だ」
男が煙草の小箱を取り出し、こちらに見せる。
「この煙草も『魔物避けの煙草』も、あの煙草屋が称号で出したものだろう。能力は『効果を付与した煙草を出せる』といったところか?」
「答える義理はない」
「そういう返事は肯定しているようなもんだ」
男が懐に煙草を戻す。
「別に、俺は煙草屋に危害を加えるつもりはない。ただ、協力者が欲しいだけだ」
「協力者? ……彼女に何をさせるつもりだ」
「それはお前さんには関係がないことだ」
今度こそ、シルヴェストルは剣を抜いた。
日はまだ昇っていないものの、空は僅かに白み始めている。
「彼女にあなたを会わせるわけにはいかない」
……たった一度接しただけで、ルイ様は動揺していた。
元の世界でルイ様に理不尽を強いてきた人間と似た男を、近づけさせはしない。
ルイ様には穏やかに、健やかに、ただ幸せに過ごしてもらいたかった。
煙草屋でのんびりと店番をしたり、客達と一言二言話したり、そういう時のルイ様の表情は優しくて、満足げで、シルヴェストルはそれを眺めるのが好きだ。
ゆっくりと過ぎていく、あの時間こそが何にも代えがたい平和である。
……そして、それこそがルイ様の望んだもの。
だから、ルイ様の望みを邪魔する者は誰であろうとも許さない。
「お前さんの許可なんぞいらん。……が、邪魔されるのも鬱陶しい」
男も腰に下げていた剣を抜く。
見たことのない、片刃の剣は驚くほど反っているが、不思議と美しさを感じる。
片刃の剣を構えた男が笑う。
「しかし、お前さんを捕まえれば煙草屋は俺に協力するしかないだろうな」
剣の柄を握り、シルヴェストルは駆け出した。
瞬間、キィンッと金属同士のぶつかる甲高い音が広場に響き渡る。
シルヴェストルの持つ剣より細いはずなのに、片刃の剣が折れることはなかった。
……やはり強い……!
即座に弾き、第二撃を入れようとして、ゾワリと背筋に悪寒が走る。
ほとんど本能的に身を引けば、シルヴェストルの首があった場所を片刃の剣が横薙ぎにすり抜けていった。チッ……と前髪を剣先が掠め、数本の髪が落ちる。
「へえ、今のを避けるとは。少しはやるみたいだな」
男が愉快そうに言い、踏み込んでくる。
シルヴェストルも体勢を立て直し、剣を構え、受け止める。
シルヴェストルの持つ両刃の剣は基本的に『叩き斬る』や『殴打する』という方向に向いているものだ。力を込めて相手を斬りつけたり、剣の腹で相手を殴ったり、鎧を着けた人間相手を想定している。
この剣で『突く』ということもできるが、力で相手の着ている鎧をへこませ、負傷させることを想定しているため、斬れ味についてはそれほどよくはない。
それに対し、男の持つ片刃の剣は正反対のもののようだった。
その剣は『相手を斬る』ためか刃の切れ味が鋭く、反った剣身は驚くほど滑らかに動く。
男の技量もあるのだろうが、少し掠っただけで頬が微かに切れた。
二撃、三撃と剣を交わしてもまったく押し返せない。
それどころか、シルヴェストルのほうが圧倒されていた。
ビッと音を立てて、腕と服が斬られる。
血がにじみ、一拍遅れて鋭い痛みが走る。
腕に視線を向ければ男が一気に踏み込んできた。
「っ……!」
だが、シルヴェストルはそれを狙っていた。
男の剣を己の剣で受け止め、逃げられる前に円を描くように剣を絡め、弾き飛ばす。
片刃の剣が宙に放り出されて少し離れた場所にカラン……と落ちた。
即座にシルヴェストルは男の首筋に剣を突きつける。
「帰れ」
……ルイ様の平和は私が守る。
「彼女は、あなたに協力などしない」
剣を突きつけられているというのに、男は変わらず笑っていた。
それに違和感を覚えた瞬間、空気が抜けるような音がして、左足の太ももに激痛が走った。
一体何が起きたのか理解できなかったが、激痛と共に左足から力が抜け、シルヴェストは体勢を崩すと座り込んでしまった。
けれども、その一瞬で男が動く。
しまった、と思った時には既に遅く、男の蹴りがシルヴェストルの側頭部に直撃した。
威力に耐えきれずに体が吹き飛ばされ、地面に頭から叩きつけられる。
慌てて起き上がろうとしたが、視界が歪み、吐き気がして、体に力が入らない。
起き上がれずにいたが、手放してしまった剣を取ろうとなんとか左手を伸ばす。
だが、あと少しで届きそうだった左手が上から踏みつけられた。
「っ、ぐ……ぅ」
体重をかけるように手の甲や指を踏みにじられ、激痛が走る。
骨が折れる嫌な感触と痛みでシルヴェストルの額に脂汗がにじんだ。
「だから、お前さんを利用させてもらうんだ」
左手から足が離れ、その足が剣を遠くに蹴った。
男が懐から取り出した煙草に火をつけ、小さく笑う。
そして、伸びてきた手がシルヴェストルの髪をわし掴んだ。
無理やり顔を上げさせられ、ブチブチと髪の抜ける音と痛みに息が詰まる。
「お前さんは確かに強いが、残念だったな。上には上がいるってことだ」
愉快そうに笑う男の腕を掴んだものの、足の激痛のせいか思うように力が入らない。
男が笑ってシルヴェストルの頭を地面に叩きつけた。
蹴られた時よりも強い吐き気、ふらつきと共に視界が歪む。
起き上がることすらできず、吐き戻しそうになり、酸っぱい唾液を飲み込んだ。
「まあ、情けで弾は抜いておいてやる」
足の激痛が僅かに和らいだものの、見上げれば、男のそばに何かが浮いていた。
黒く、長く、見たこともない形だが、その先端がシルヴェストルに向けられる。
「痛いだろうが、動かれると面倒なんでな。手足は封じさせてもらう」
黒く長い、その『何か』がシルヴェストルの足に怪我を負わせたものなのだろう。
襲い来るであろう激痛にシルヴェストルは身構えた。
……すぐには殺されないだろう。
シルヴェストルはただ願った。
……ルイ様、私のことは見捨ててくれ。
この男に捕まり、ルイ様の負担になるくらいならば死んだほうがいい。
「悪いな」
欠片もそのようなことを感じていなさそうな男の声に目を閉じた。
……申し訳ありません、ルイ様……。
「悪いと思うなら、やめるべきだと思うけれどね」
突然響いたその声にハッと目を開ける。
顔を上げれば、男が慌てて振り返る。
少し離れた位置に、いつもと変わらず煙草を咥えたルイ様が立っていた。
* * * * *
「まったく、寝起きに最悪な光景を見せられて、最低な気分だよ」
そう言えば、昨日お客として店に来ていた男が警戒した様子でこちらを見る。
その足元にはシルヴェストル君が倒れており、左足の太ももから流血しているし、左手も赤く腫れ上がり、そこには靴跡がしっかりと残っていた。
青白い顔でシルヴェストル君が、なんとかこちらを見る。
「……なぜ……」
そう呟く彼の声が思いの外、大きく響いた。
「それはわたしの台詞なんだけどね。一体、どうしてそんな状況になっているんだい?」
寝起きで飛び込んできた赤い画面に、慌ててメガネをかけて見てみれば、シルヴェストル君が地面に倒れ、お客として来ていた落ち人の男が彼に銃を向けていた。
急いで称号の能力を使って男の背後に現れた。
称号の能力のひとつに『自分の生み出した煙草類の煙が届く範囲への移動が可能』というものがある。離れている場所でも、称号の能力で出した煙草の煙があればどこへでも移動できるらしい。
「彼には協力してもらおうと思ってな」
男が警戒しながら言う。
「協力、ね」
「待て、俺はあんたと敵対するつもりはない」
「この状況でそれを信じろと?」
「これは、この男が剣を向けてきたから対峙するしかなかった。仕方なかったんだ」
分かるだろう、と続けられて、わたしは微笑んだ。
「さあ、分からないねぇ」
煙草を吸い、ゆっくりと煙を吐く。
「友好的でいたいなら、なんで銃口を下さないんだい?」
男のそばに浮いている、銃身の長いそれはこちらを向いたままだ。
それに男は口角を引き上げた。
「やはり、お前も落ち人か」
「否定はしないよ」
「それなら分かるだろう? このクソったれな世界に、人間達に、復讐したいと思う俺の気持ちが! ただ異世界人というだけで、誰も彼もが俺に襲いかかってくる! この世界では落ち人ってのは高額な商品になるんだとよ!!」
男が叫び、シルヴェストル君を指差す。
「この男だって、あんたを売り飛ばすかもしれない!! そうでなかったとしても、いつか必ず裏切られる!! 俺達にはこの世界で人権なんてないんだ!!」
わたしは煙草を吸い、男を見た。
ふぅ……と煙を吐き出す。
いつもは美味いはずなのに、これは欠片も美味くない。




