38話 ファルメル峡谷と、記録の境界線
ファルメル峡谷は、まるで世界そのものの裂け目のようだった。 深く、狭く、霧が絶え間なく流れ込んでおり、谷底は視認できない。
「見た目より深そうだな……」 カイルが岩壁に小石を投げる。返ってくる音は──なかった。
「定義の継ぎ目……この峡谷の下は、まだ“コードが未設定”なんだ」 セラの視線が谷の向こうを見つめる。「この先に進めば、記録のない領域に足を踏み入れることになる」
「観測されていない世界……」 ノーラが微かに息をのむ。「つまり、何があっても不思議じゃない」
「コードの祠と似てるけど、もっと根本的に“未定義”なんだ」 俺の《虚数再構築》がかすかに警告を発していた。
《警告:構造支援限界点 接近中》
《観測の確定が行われない場合、スキル使用不可領域へ遷移》
「スキルが効かないかもしれないってことか?」 カイルが眉をひそめた。
「スキルそのものが“存在しないことになる”かもしれない」 俺は言った。「でも、行くしかない」
ノインが前に出る。 「僕、行ける。たぶん……“知らない場所”に対して、怖くなくなったから」
「なら……俺たち全員で踏み込もう」 俺は全員の顔を見渡し、そして谷へと一歩を踏み出した。
その瞬間、視界が裏返るように変質した。
空が黒く、地面が白く、音が“記号”として耳に届く。 全員の身体が、かすかに情報粒子のように揺れていた。
《確認:未定義領域〈ゼロ・ボーダー〉進入》
《観測基点:レイ/ノイン/同行者 記録中》
ノーラが静かに言う。「……レイ。これ、私たちが“この世界の次を作ってる”ってことなんじゃない?」
俺は頷いた。 「なら、ちゃんと“描いて”いこう。この手で」
霧が晴れる。 そこに広がるのは、まだ誰も知らない風景。 草も、空も、形さえ決まっていない未観測の世界。
だが俺たちは、確かにその中心に立っていた。
「記録を開始する。ここが、世界の境界線──ファルメル峡谷の向こう側だ」
次の一歩が、誰かの未来を変えるかもしれない。 それでも、進むしかない。
俺たちは、世界の続きを記す旅を続ける。




