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第1話

Wリーグ。14チームで構成されるバスケットボール女子日本リーグの事務局の会議室には、その試合中の興奮とは裏腹に、異様な空気が流れていた。壁際のモニターが無音で点灯し、ニュース速報の文字が繰り返し表示されている。




《新潟ライオンズ・神崎ほのか選手、帰宅中に襲撃される》




 報道番組が繰り返すアナウンサーの淡々とした声が、かえって現実味を奪っていた。内容はこうだ。


──昨夜22時ごろ、長岡市内の路上で、Wリーグ・新潟ライオンズのエースガード、神崎ほのか選手が何者かに背後から襲われ、頭部と肩に裂傷を負った。通行人によってすぐに病院に搬送され、命に別状はないものの、しばらくは公の場に姿を見せるのは難しい状態だという。警察は傷害事件として捜査を進めている──。


 室内は静まり返っていた。十数名のリーグスタッフと各チームの代表、スポンサー関係者が無言で椅子に座り、誰一人として話そうとしなかった。だが、その静寂を破ったのは、ひとつの低く落ち着いた声だった。


「今は、冷静さが最も求められている」


 遠山理一。Wリーグ運営本部の中堅スタッフ、三十五歳。ネクタイの結び目すら乱れていないその姿勢からは、外見的な動揺は微塵も感じられなかった。ただし、その眉間に寄ったわずかな皺だけが、彼の内心のざわつきを物語っていた。


「事実を確認する。神崎選手は一命を取り留めた。ただし、身体的なダメージに加え、精神的ショックも深刻だ。今後の復帰時期は未定。リーグとしてはまず、彼女の安全とケアを最優先に考えるべきだ」


 誰も反論はしなかった。


 しかし誰の顔にも、「言いたいこと」が浮かんでいた。唇を噛み、目を伏せ、腕を組む。椅子の軋む音さえ、重苦しい沈黙に吸い込まれていく。


 確かに、新潟の選手が負傷したことはリーグ全体にとって大きな損失だった。特に彼女は、下位チームに在籍しながらオールスターの常連。卓越したスピードと強気なプレイスタイルで、観客の心を掴んできた。まさにWリーグの象徴のような存在だった。


 ――だが、それでも。


 たった一人の選手の負傷で、ここまで大事になるのか?


 誰もが答えを出せずにいた、そのときだった。


 バンッ。


 会議室のドアが、乱暴に開け放たれた。


 全員の視線が音の方を向いた。


「失礼しますッ……!」


 駆け込んできたのは広報担当の若い女性。顔は蒼白、肩で息をしている。右手に握られたスマートフォンが小刻みに震えていた。


「……やはりSNSに、投稿がありました。犯人を名乗る人物からです。内容が、試合の編成に関わることで……」


 静まり返っていた空気が一瞬でざらつき始める。


「映します」


 彼女は手早くスマートフォンをHDMIケーブルでモニターに接続した。


 黒い背景に、赤い文字が浮かび上がる。


 その異様さに、誰かが小さく息を呑んだ。




《次の試合を「三菱 vs 羽田」にしろ。それができなければ、また一人殺す。俺のメッセージを無視するな。Wリーグは俺が変える》




 一瞬、誰もが言葉を失った。


 遠山の隣に座っていた副局長が呻くように言った。


「脅迫だ……明確な……犯行予告だな」


「誰がこんな……」


 若いスタッフが口元を手で覆う。


 遠山は、モニターに映された投稿を凝視していた。


 文体、アカウント名、投稿時刻——そのすべてを、冷静な目で一つずつ解析していく。


 パロディや悪質な便乗の可能性も、ゼロではない。


 だが、タイミングが良すぎる。内容も、明らかに意図的だ。


「また一人殺す」


 その文言が、遠山の脳内で何度も反響する。


(……神崎は“死んで”いない。負傷したが、命に別状はないはずだ)


 それなのに、あえて「殺す」という言葉を使ってきた。


 もし神崎の襲撃をこの人物が関与していたと仮定するなら、この文は明らかに自己顕示の匂いがする。


(わざわざ“一人称”に「俺」を使っているのもくさい。こういう手合いは、匿名のくせに、自分の存在を誇示したがる)


 遠山の目が、投稿の右下に表示された時刻を捉える。22時27分。


 静かに息を吐き、椅子に深くもたれた。


「とりあえずこの投稿は、正式に確認します。SNSアカウントは現在捜査中として……要求されているのは試合カードの操作。ただ、文章の含みを考えると、試合結果そのものまで意図している可能性がある。つまり――八百長の強要、ですね」


 その言葉が放たれた瞬間、会議室の空気が一段と凍りついた。


 緊張の糸が、全員の背中を走る。


「ふざけるな!」


 立ち上がったのは、羽田コアラーズのチームスタッフだった。顔を真っ赤にし、拳を握りしめる。


「こっちは地元と子どもたちのために、赤字でもチームを続けてるんだ! こんな脅しに屈してどうする! 選手たちの全力のプレイに泥を塗るのか!?」


 だがその怒声に、壁際から低く鋭い声が返ってくる。


 スーツ姿の関西系チームオーナー。腕を組んだまま、冷笑を浮かべていた。


「夢だけで飯が食えたら、誰も苦労せんわ」


 声は低いが、言葉は重く、毒を含んでいる。


「今な、Wリーグがどれだけ注目されてるか知ってるか? この事件で世間の目が一気にこっち向いた。このまま試合を止めたら、数字も広告費もスポンサーも、全部吹っ飛ぶで。チームどころか、リーグそのものが潰れるかもしれん」


「……そもそもこれを客寄せの話題にする気か!」


 再び怒鳴り返すスタッフ。


 感情がぶつかり合い、会議室の空気は臨界点に近づいていく。


 その中で、遠山は黙ったまま椅子に座り、ぼんやりと天井の一点を見つめていた。


(どちらも正しい……)


 国内のスポーツリーグはここ数年で急速に増えた。


 だが、少子化と人口減少の波は止まらず、観客もファンも年々分散していく。


 だからこそ、話題性やメディア露出が生命線――という理屈も、分からなくはない。何せ、犯人の要求に応えたら、次の犠牲者が出ないかもしれない。


 だが。


 もし八百長に応じてしまえば、選手の信頼も、誇りも、すべて台無しだ。


 誰がそんなプレーを応援したいと思う?


 どんな気持ちでコートに立てというんだ。


 努力も、成長も、真剣勝負も――全部が茶番になる。


 スポーツの世界がシビアであるのは、勝ち負けに厳しいからじゃない。


 努力が報われるはずだという、信頼があるからこそだ。


 そしてその信頼を支えているのは――金じゃない。過去、現在、そして未来を担う選手たち自身の実績と覚悟だ。


 そのとき、会議室の隅で短く咳払いする音が響いた。


 全員の視線がそちらへ向く。


 口を開いたのは、警視庁生活安全課の刑事だった。無表情のまま、机に指を置いて言う。


「八百長か否かの議論はともかく、人命を優先することは法的にも当然の判断です。もし次の試合後で同様の事件が起きた場合、リーグ全体の責任を問われることになります」


「でも、犯人だと名乗ってるアカウントが本物かどうか、現段階では判断できないでしょう?」


 広報スタッフがかすれる声で言った。


「現状では確定できません。しかし、リスク管理という観点では、最悪を想定すべきです」


 刑事は即答した。


 沈黙が、再び会議室を支配する。


 全員の目が、遠山へと向けられた。


「……試合は、中止か」


 誰かがぽつりと呟いた。


 だが、その言葉に答える者はいなかった。


 沈黙だけが、空気を蝕んでいく。


 ――そのときだった。


 ビリリリ――


 会議室に、無数のスマートフォンの振動音が重なる。


 一瞬、誰も動けなかった。


 遠山が恐る恐る画面を確認する。着信ではない。ニュース速報。


 そこに映し出された、たった一行の文字。




《速報:羽田コアラーズの山名詩織選手、ホテルで意識不明の重体》




 時間が、止まった。


「……ああっ!!」


 コアラーズのチームスタッフが、電話を耳に当てたまま絶叫し、膝から崩れ落ちた。


 会議室の隅で、誰かのペットボトルが倒れる音がした。


 だが、その音にすら、誰も反応できなかった。


 心臓の鼓動だけが、遠山の耳に響いていた。


 事件は、現実だ。“すでに始まっている”のだ。


 遠山はスマートフォンを伏せ、無言で立ち上がる。


 誰も言葉を発せず、誰も視線を合わせようとしなかった。


 会議室全体が、まるで音を失った密室のように静まり返る。


 この瞬間、誰もが理解していた。


 ――もう、誰も、この事件が“いたずら”だったとは言えない。

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