第3章 無邪気なる敵
管制本部の医務室。
白い蛍光灯の下、エリカは無機質なベッドの上で目を覚ました。ぼんやりとした視界の中、消毒薬の匂いと規則正しく鳴る機械音が静かに現実を形作っていく。
「目が覚めたか、エリカ」
ベッドの傍にいたのは、ライアンだった。頭に包帯、腕に固定具を巻きながらも、彼は無事だった。
「ここは……」
「本部の医務室。あの後、救護班が来てくれた。お前、しばらく意識なかったんだぜ」
エリカはゆっくりと身体を起こし、張りつめていた筋肉の痛みと共に、昨夜の戦いの記憶が鮮明に蘇る。
圧倒的な力。
あの女——ソフィア・クレインの動きは、能力者ではないにもかかわらず、明らかに次元が違っていた。躊躇のない殺意、徹底された訓練、そして一切の情の介在しない冷徹さ。
「ライアン……わたしたち、負けたんですよね」
「まあ、正面からやり合って勝てる相手じゃねえよ。あいつ、怪物だ」
ライアンが吐き捨てるように言う。その声の裏には、悔しさと苛立ちが滲んでいた。
「……結局、力なんですよね」
エリカがぽつりと呟いた。隣に座るライアンは、俯くエリカの心情を案じるように応じる。
「何が?」
「どれだけ言葉を尽くしても、どれだけ理屈を並べても……強い相手の前じゃ、何も通じないんです。ソフィアみたいな人に」
「……まあな。あいつは聞く耳持たないってタイプだ」
エリカは小さく息を吐いた。その表情には、悔しさがにじんでいた。
「“能力者だから”ってだけで、狙われるなんて、おかしいじゃないですか。でも……ああいう人の前では、何を言ったって無駄なんです。私はただ……それが、悔しくて……!」
「……悔しさだけじゃ、戦えないな」
ライアンの声は静かだったが、奥に芯があった。
「俺は、暴走してた奴だって殺すのは間違ってると思ってる。何があってもな。……強いからって、人を裁いていい理由にはならない。ソフィアのやり方は、正義じゃない」
エリカはうつむいたまま、拳を握りしめた。
「でも……強くなければ、何も守れない。理想も、大切な人も、過去の自分さえも……きっと、全部飲み込まれる。あの日みたいに」
ライアンは少しの間、黙っていた。やがて、何か心に決めたように病室の天井を仰ぐ。
「……俺たちに足りないのは、力そのものじゃない。力をどう使うか、貫く覚悟だ」
「覚悟……ですか」
「強さがあるのに、その意味を間違えたら、ソフィアと同じになる。けど、強さがなければ、エリカの言葉は届かない。……だからこそ、俺たちは間違えちゃいけないんだよ。どっちも」
「……難しいですね」
「でも、それでもやるしかない。俺たちは正しくあろうとしてるんだから」
エリカは顔を上げた。病室の窓から差し込む夕陽に照らされたその目には、迷いながらも揺るぎない光が宿っていた。
しばらくの沈黙。やがて、ライアンがその空気に耐えかねたように口を開く。
「それにしてもよ、あの暴走者……なんか変じゃなかったか?」
「変?」
「最初に暴れたやつは、まあよくある感じだった。けど、もう一人の奴……なんつーか、あれ、暴走ってより、妙に“理性的”だった気がするんだ。攻撃の精度も、避ける動きも、ただの暴走にしては整いすぎてた」
エリカは眉を寄せた。
「……たしかに…それって」
「いや、ただの直感かもしれねえけどさ。もしかすると、自分の意志で暴走してたんじゃねえか、って思ってる」
「そんな……。暴走って、本来感情の制御ができなくなった状態じゃ……」
「だからこそ、気持ち悪いんだ。もし仮に、あれが制御された暴走だとしたら……何か裏がある」
静寂が流れる。
その沈黙を破ったのは、医務室の扉を叩くノック音だった。
入ってきたのは、管理局の上層部にあたる女性職員。表情は硬く、端末を手にしていた。
「エリカ・ノヴァ、ライアン・ダンパー。命令があります。調査班が、昨日の暴走事件についての正式な報告書を作成中です。あなたたち二人には、休息後すぐに状況報告と聞き取りへの協力が求められています」
「……わかりました」
エリカは小さく頷いた。その胸の内には、燃え残るような熱が宿っていた。
——本当に、これでいいの?
ソフィア・クレインのようなやり方が、正義だと認めるの?
力なき者が、声を上げることさえ奪われていいの?
(私の正義は……)
彼女は静かにベッドの端に座りながら、拳を握り締めた。
(……こんなところで終われない)
薄暗い会議室に、エリカ、ライアン、そして数名の幹部クラスの職員たちが整然と並んでいた。重厚な長机の奥には、管理局上層部の中でも特に影響力を持つ三人の幹部が並んでいる。壁に掲げられた管理局の紋章が、静謐な空気にさらに重みを加えていた。
椅子の軋む音が場違いに響く中、一人の幹部が資料の束を机に置き、無言のままページをめくる。
「君たちは、昨日の任務で“異常な状態”の暴走者と接触したと報告しているな」
低く、抑制された声。だがその響きは、会議室全体の温度を一段と冷やす。
ライアンが眉をわずかに寄せ、口を開いた。
「“異常”といえば、確かにそう言えますが……直接的な会話はしていません。外見と行動からの推測です」
エリカも静かに頷き、補足するように続ける。
「自傷行為と思われる動きがありました。それが能力の発動と密接に関係していたように見えます。通常の暴走者の挙動とは一線を画していました」
その言葉に、ライアンは一瞬エリカを見やった。わずかな違和感――だが、彼女の表情に曇りはなく、その意図を察して視線を幹部へ戻した。
「ふむ……だが、それ以上の“特異性”は確認していないということでいいな?」
幹部の一人が目を細めながら問う。
エリカは一瞬だけ視線を落とし、次の瞬間にはいつもの冷静さを取り戻していた。
「はい。現時点では、それ以上の情報は得られていません」
その返答に、ライアンが再びちらりと彼女を見たが、何も言わなかった。
「……君たち現場の者が、軽率に“異常”だの“特別”だのと口にするのは好ましくない」
別の幹部が静かに言葉を重ねた。その声音には、はっきりとした圧力がこもっていた。
「この件に関しては、外部はもちろん、内部にも必要以上の情報は出さないように。わかったな?」
「了解しました」
エリカは即答したが、その瞳の奥には、かすかな動揺が浮かんでいた。
ライアンが不満げに唇を引き結ぶ。
「……それはつまり、何を知っていても黙っていろということですか?」
「ライアン」
エリカがたしなめるように名前を呼ぶが、彼は視線を逸らさず言葉を続けた。
「現場で命を張っているのは僕たちです。真実を知らなければ、正しい判断もできない」
数秒の沈黙が、幹部たちの間に流れた。その空気を破ったのは、中央に座る最年長の幹部の、低く冷ややかな笑いだった。
「正義感はけっこうだ。だがな、時には“知らぬが花”ということもある。無駄に真実を追うな。君たちはただ、与えられた任務をこなせばいい」
その言葉に、ライアンは悔しげに目を伏せた。
しばらくの沈黙の後、別の幹部が、まるで何気ない会話のように問いかけた。
「ところで……“ノクス”の動きに変化は? 特に、リーダー格だった“ヴァルデス”に関する情報など」
その名前に、エリカの背筋がわずかに強張った。
「……それは、どういう意味ですか」
「単なる確認だ。あれは2年前に死亡したとされているが、未だに噂が根強い。現場で何か兆候があったのでは?」
深呼吸をひとつ置いて、エリカは答える。
「いえ、ヴァルデスに関する直接的な情報は、確認していません」
それは嘘ではなかった。しかし、自身の中に芽生え始めていた疑念からは目を逸らしていた。
──ヴァルデス。かつて両親と親しかった男。自分を引き取り、育ててくれた恩人。そして、2年前の“あの日”に死んだと告げられた人物。
会議が終盤に差し掛かるにつれ、エリカの胸の中には奇妙な違和感が積み重なっていった。異様なほどの情報統制、幹部たちの言葉の端々に見え隠れする“意図”。そして、なぜ今になって死んだはずの人物の名前を、あえて話題に出したのか。
その後、会議は淡々と進み、負傷の程度や今後の任務内容について形式的な確認がなされた。しかし、エリカは内容をほとんど覚えていなかった。ただひとつ、胸の奥に澱のように残った疑問だけが鮮明だった。
会議室を出た瞬間、エリカは足を止めた。
「……ライアン、さっきの話……どう思う?」
ライアンは少し肩をすくめる。
「隠しごとなんて、今に始まった話じゃない。でも……今回は、違う気がする。何かが動いてる。俺たちの知らないところで」
その言葉に、エリカは静かに頷いた。ふたりの間に、言葉のいらない沈黙が流れる。
その沈黙の中で、エリカの心にひとつの思いが芽生え始めていた。
──私たちは、ただ任務の“表層”だけを与えられているに過ぎない。だとしたら、その“下”に何がある?
それから数日が経った。ソフィアとの激戦で負った傷もようやく癒え、エリカたちは現場への復帰許可を受けていた。医療班の報告によれば、肉体的な損傷は完全に回復しており、神経系や能力への影響も見られないとのことだった。
だが、身体の痛みが引いても、胸の奥に残る感触だけは消えない。
──あのとき、わたしは。
無表情の仮面の裏で、エリカは静かに息を吐いた。戦いの余韻も、ソフィアが最後に残した言葉も、まだ心のどこかに引っかかっている。だが、それを立ち止まって考える時間はなかった。
「調査対象の目撃情報があったってのは本当か?」
ライアンが隣を歩きながら、端末に表示された地図を見せてくる。場所は郊外の小さな商店街、平日の昼下がり。住民の報告によれば、不審な人物が周囲を頻繁に出入りしているとのことだった。
「通報内容には、映像や記録がありませんでした。ですが、過去にもこの地域ではノクスの関係者らしき影が確認されているそうです」
「……ってことは、罠の可能性もあるってわけか」
「はい。でも、仮にノクスが関与しているなら、無視はできません」
ライアンは肩をすくめた。
「了解。久々の任務だし、体も動かしておかないとな」
エリカは軽く頷き、街並みに視線を向けた。古びた路地の先、低いビルと狭い通りが複雑に絡み合うような商店街。喧騒は少ないが、人通りはあり、敵を特定するには少々やりづらい場所だった。
そのときだった。視界の端に、異質な動きが映った。
──帽子?
薄手のニットとジーンズ、グレーのハンティングキャップをかぶった赤髪の少女が、こちらの視線に気づいたように一瞬だけ目を見開き──次の瞬間、裏通りへと駆け出した。
「逃げました。念のため追います!」
「任せた!」
エリカは躊躇なく走り出した。数日前までは全力で走ることすらできなかった脚が、今はしっかりと地面を蹴る。
──速い……でも、逃げ足だけの人間じゃない。
少女は迷いのない動きで路地裏を抜けていく。まるでこの街の構造を熟知しているかのようだった。数分の追跡の末、エリカは建物の裏手に回り込み、ついにその姿を正面から捉える。
「もう、やだぁ……ほんとやだ。なんで追ってくるのさぁ~」
ハンティングキャップを被った赤髪の少女は、両手を挙げてこちらに向かって言った。
「あなた、ノクスの関係者ですね。今ここで、身柄を確保させてもらいます」
「えぇぇぇ!? なにその言い方、固すぎるでしょ~? わたし別に、なんもしてないしぃ……あ、爆弾とかはちょっとだけ置いてきたけど、うん、それくらい?」
「爆弾……?」
次の瞬間、視界の端に閃光が走った。咄嗟に身を引いたエリカの耳を、軽い破裂音が叩く。だが、致命的な威力ではない。目くらまし──。
「ばいばーい!」
声だけを残して、少女の姿は再び煙の中に消えた。
「……っ、やられました。ライアン、そちらに向かっていきました!」
通信に応じたライアンの声が、すぐに返ってくる。
「了解、捕まえてみせる!」
エリカの反対の路地から回り込んでいたライアンは、裏路地を奔放に駆け抜けていく少女の影をすぐにとらえた。
細い路地に逃げ込んだことを確認し、追い詰めるように角を曲がった。だが、視界にサラの姿はなかった。すでに分岐をいくつか抜けたようだ。
「くそ、逃げ足だけでここまで撒けるか……?」
あたりを警戒しつつ、慎重に通りを進む。建物の影、バイクの陰、店のシャッター……どこにでも隠れられる構造だ。ライアンは通信でエリカにお互いの位置情報を共有しながら、目を凝らして周囲を探った。
ふと、違和感を覚えた。
通りの奥、閉店した理容店の入り口に、不自然な影がある。人影にしては小さい。だが、何かを隠そうとしている気配があった。
「見つけた……!」
路地から駆け出そうとしたライアンの足元に、ふと、細いワイヤーが切れるような感触が触れる。
――その瞬間、小さな金属音が響いた。
直感が叫んだ。ライアンはすぐさま飛び退く。直後、足元で小さな破裂音と共に閃光と煙が弾けた。
「っぐ、またか!」
視界が歪む。鼻をつく煙の匂い。だが、すぐに正面から小走りの足音が迫る。
「うわ~、ばれたばれた! でも残念、またバイバイね~!」
姿は見えずとも、軽薄な声だけは明瞭に響いた。煙の中を抜けて走る気配が右手方向に逸れていく。
ライアンは煙を払いながら通信機に向かって叫んだ。
「エリカ! 目標、北西の路地に逃げた! 二手に分かれよう!」
「了解しました。北側から回り込みます!」
エリカの声が即座に返る。再び追跡が始まった。
*
薄手のニットとジーンズ、グレーのハンティングキャップをかぶった赤髪の少女―――サラ・エヴァンスは細い裏路地を走り抜けながら、頬に貼りついた汗を手の甲で拭った。
「まじ、キツいんだけどぉ……。何なのあの二人、ガチ過ぎ~」
とはいえ、走りながらもその目は鋭く動いていた。すれ違う通行人の視線、通りに設置された監視カメラの角度、路面の段差や設置物。すべてを確認し、頭の中で逃走ルートを構築する。
(でも、これだけ時間稼げば──)
そのとき、耳元に細波のような通信が入る。
『時間切れだ。援護に入る』
「え~、もう終わり~?でも助かる~!」
通りの先にあるコインランドリー。そこの裏口を開け放ち、サラは飛び込んだ。と同時に、正面の入り口から黒いロングコートを纏った一人の男が現れる。長身、黒髪、無言──その姿を見て、サラは片手をひらひらと振った。
「よろしくぅ~。あとは任せたよーん」
サラの無責任な態度に、男は一言も発さず、コインランドリーの内部に立ちふさがる。
*
エリカはライアンと合流し、裏路地を慎重に進んでいた。建物の構造上、通り抜け可能なルートは限られている。次の交差点に出るころには、目標との距離はほとんどない。
「建物の中に入った可能性が高いです。扉の開閉音がしました」
「どこだ?」
「おそらく……このランドリー。こちらです!」
二人は左右と内部の罠を警戒しながら建物の扉を押し開けた。
次の瞬間、無言の影が立ちはだかった。筋肉質な男。黒の上着にジーンズ、胸元にナイフホルダーを装備。目に見えた装備はそれだけだったが、エリカは即座に構えた。
「あなた、ノクスの構成員ですね……」
男は答えず、力強く一歩を踏み出した。
その一歩が、戦闘の始まりだった。
男の拳が振るわれる。エリカは最小限の動きでそれを避け、すぐさま反撃に転じた。だが、相手の動きは重く、そして速い。見た目とは裏腹に、かなりの鍛錬を積んだ動きだった。
「……っ、ライアン、注意してください。こいつ、ただの実行部隊じゃありません!」
「了解、援護する!」
ライアンが横から突進するように切り込む。しかし、男は一瞬で間合いを詰め、肘で迎撃。ライアンの腹部に鈍い衝撃音が響いた。
「ぐっ……!」
崩れ落ちかけたライアンを、エリカがすかさず引き寄せる。壁際に一度後退させると、自らが前へと出た。
視線が合う。男の瞳は感情を持たない鉄のように冷たい。
エリカは意識を集中させた。
──全身の神経を統合、呼吸を整える。脚の筋肉に力を溜め、反撃の間を計る。
(……わたしが止める)
次の瞬間、エリカの身体が疾風のように動いた。
エリカの動きは、風を切るように速かった。
一歩、二歩、三歩──間合いを詰めると同時に、相手の死角に入り込む。男は即座に肘で牽制しようとするが、その動きすら読んでいた。エリカは腰を落とし、低く潜ると、左腕の肘関節に打撃を加える。
鈍い音。だが、それだけでは止まらない。
男は無理やり体勢を立て直し、今度は膝蹴りを繰り出してきた。エリカは寸前で後方に跳び退く。
(反応が速い……これだけの肉体制御、ただの兵士ではない)
ライアンが息を整えながら支援に加わる。
「援護する。左右から挟むぞ!」
「はい!」
二人が同時に仕掛ける。ライアンが左から牽制の連打を放ち、エリカが反対側から滑り込む──男は左腕を犠牲にして二人の攻撃を受け止めるが、エリカたちの一連の攻撃によって左腕にはもう、力も入らないようだった。
だが。
店内の照明が一瞬、落ちた。
「……なっ!?」
停電? いや違う。これは意図的な遮断──直後、非常灯の赤い薄明かりの中、どこからか軽い足音がリズムよく響く。
「はーい、再登場っ!」
天井の換気口から、ひらりとサラが降りてきた。手には細工の施されたリモコンのような機械を握っている。
「これで照明オフ~。ちょっとだけ、静かにしてくれる?」
彼女が指を鳴らすと、店内の洗濯機が一斉に作動した。轟音と振動が響き、視界も聴覚も乱される。
その混乱の隙を突いて、男が一歩後退し、サラの隣に戻る。
「ほら、撤退って言ってたじゃん?時間稼いでくれてありがと~」
男は無言のままエリカたちに一瞥をくれ、次の瞬間、サラと共に非常口から飛び出した。
「待ちなさい……!」
エリカはすぐに追おうとしたが、足を止める。店内には設置された爆薬が残されていた。反応装置が赤く点滅している。
「くっ、罠……!」
「こっちは任せろ、エリカ! お前は追え!」
「……わかりました!」
エリカは身を翻し、再び追跡を開始した。裏口から出ると、すでにサラたちの姿はなかったが、逃走に使用したと見られる太めのワイヤーが数本、転がっていた。
(撒かれた……でも、今ので確信した)
あの赤髪の少女。奔放な言動と裏腹に、的確な連携とタイミングを操る知性を持っている。そしてあの戦闘員……彼女にとっての「護衛」あるいは「パートナー」。
エリカは歯を食いしばった。
「逃がしはしません……次は、必ず捕まえます」
すでに辺りは沈黙を取り戻していた。残るのは路地を荒ぶ風音と、壊れた洗濯機の残響だけ。
だが、エリカの心には火がついていた。
あの少女の言動の裏にある意図を、そしてノクスが次に何を仕掛けてくるのかを──必ず突き止めると誓いながら。
*
暗い通路を抜けた先、廃ビルの一室。薄明かりのモニターが並ぶ仮設オペレーションルームに、少女の高い声が響いた。
「いやー、逃げるの大変だったよー! でもさ、エリカちゃん強いね、あれはちょっとやばかったかも?」
壁にもたれかかるようにして、サラ・エヴァンスが息を吐く。相変わらず着ているニットの袖は片方めくれ、足元には埃のついたスニーカー。だがその手には、さっきまでの戦闘中に使っていたリモコンと──USB型の小型デバイスが握られていた。
「ほら、例のデータはちゃんと取れたからさ。ね? すごくない?」
無邪気な口調でそう言いながら、サラはデバイスを放り投げる。
背後でそれを無言でキャッチしたのは、黒服の男だった。洗濯店でエリカたちを迎撃していた戦闘員だ。だが彼の視線は、サラではなくモニター越しの映像に向けられていた。
通信が繋がる。ディスプレイから、低く厳格な男の声が響いた。
『エヴァンス。回収した情報、確認する。対象施設のネットワークからどこまでアクセスできたか、報告を』
「えー、ちゃんとやったってば。途中から追われちゃったけど、3箇所のATM経由で旧ログ掘ったの。古い通信記録だけど、どうせそれ欲しかったんでしょ?」
指示された内容はきちんと実行していた。だが、それを報告する口調はまるで「ついでにやっといたよ」とでも言いたげな軽さだった。
黒服の男が一歩前に出て、声を低くする。
「……もう少し、真面目にやれ」
「えー、ちゃんと成功してるしー。それに、あんな厄介そうな相手が出てくるなんて聞いてなかったし。エリカちゃんだよ? あれ、事前に言っといてくれたらさー、もっと本気出したのに」
ぽふん、と彼女は古びたソファに倒れ込み、クッションを胸元に抱えた。
『……彼女と接触した感触は?』
「んー……動きがきれい。なんか、迷いがないっていうか。ああいう人ってさ、追いかけてくるとこっちが楽しくなるよね~」
まるで鬼ごっこの延長線のような口ぶりだった。
画面の向こうの男は、一拍の沈黙ののち、冷たく告げる。
『楽しむために行かせたのではない。次の任務がある。ふざけた態度を続けるなら──』
「やるよー、ちゃんとやるよ? だって私、お仕事できる子だもん」
にっこりと笑うサラ。その笑みの裏に、どこまでが本気で、どこまでが演技なのか。黒服の男も、ディスプレイの男も判断できなかった。
彼女は命令をこなす。だがその動機は、合理でも忠誠でもなく、どこか別の方向にねじれている。
「次、いつ? またエリカちゃん出てくるといいなー」
『……解析完了後、指示を出す。それまで待機だ』
「はーい」
通信が切れた。
部屋の静寂の中で、黒服の男がサラに視線を送る。彼は何も言わない。だが、サラは口を尖らせるようにして言った。
「んもう、睨まないでよ。私、結構ちゃんとやってるんだから」
男は、短くため息を吐いた。結局、彼女を完全に制御する術は、誰にもない。だが、その奔放さこそが、ノクスが彼女を使う理由でもある。
予定外の動きをするからこそ、読みづらく、敵にも予測されにくい。
その少女の目は、どこか楽しげに、次の舞台を夢見ていた。
*
──夜が明けていた。
報告書を提出し終えたエリカ・ノヴァは、管理局本部の休憩室に腰を下ろしていた。椅子は簡素な造りで、長く座るには向いていない。それでも、無意識のうちに背を預けていた。
テーブルには使い終えた包帯が小さくまとめられている。だが、エリカの視線はそこにはない。
脳裏に繰り返されるのは、数時間前の出来事──あの少女のことだ。
施設の通信ログに残されていた、敵側の断片的な会話。そこに一度だけ、彼女の名があった。
(……サラ・エヴァンス)
奔放で、軽率で、まるで悪戯を楽しむ子供のような態度。
それだけなら、相手にする価値はない。だが、エリカはわずかな引っかかりを覚えていた。
──あの非常灯のタイミング。
──換気口からの降下。
──騒音を利用した撹乱。
「完璧」ではなかった。だが、「偶然」にしては噛み合いすぎていた。
そんな感情のまま、エリカは携帯端末を操作し、データベースにアクセスする。検索ワードは一つ──“サラ・エヴァンス”。
だが、表示された結果は肩透かしのように乏しかった。
「……十八歳。学生、以上」
肩書も、所属もない。戦闘記録や過去の関与事例すら見つからない。
名前が偽名であればそれまでだが、もしこれが本名で、記録に残らないよう意図されていたのだとすれば──
(やはり、“ただの子供”ではない)
根拠は薄い。どれも断片的だ。それでも、戦場に立つ者の勘として、エリカには確かな違和感があった。
そのとき、扉がノックされた。
「エリカ。入るぞ」
ライアンだった。手にはカップが二つ。彼は何も言わずにそのひとつをエリカに差し出し、自分も隣に腰を下ろす。
「ありがとうございます」
湯気の立つ紅茶を両手で包むように持ちながら、エリカは口を開いた。
「……現場での映像、確認されましたか?」
「ざっとな。お前と例の少女、それに戦闘員ひとり。思ってたより派手だったな」
「派手、というより……混沌、ですね」
ライアンが鼻で笑った。
「同感だ。で? その混沌の主犯、どう見る?」
問いに、エリカはしばらく沈黙した。言葉を選びながら、慎重に答える。
「……判断が難しいです。サラは、意図的に振り回しているようにも、ただの悪ふざけにも見えました。でも……」
「でも?」
「“予想外”が、少し多すぎました。動きは粗削りでしたが……逃走経路や撹乱の使い方が、直感だけでは済まない気がします」
「つまり、感覚じゃない何かがあるってことか」
「はい。ただ、それも“無意識の直感”かもしれません。だから、今はまだ断定できません」
サラを過大に評価するつもりはない。戦闘能力は見られなかったし、明確な指揮権も持っていなかった。
ただ……無視できない。
「気になります。あの子……わたしの動きを何度か、確かめるように見ていました」
ライアンは静かにうなずいた。
「まあ、相手がどうであれ……次に会う時があるなら、確かめればいいさ」
「ええ。次こそ、逃しません」
エリカの言葉には、強い決意というよりも、静かで確かな熱が宿っていた。
騒がしく壊れた洗濯機の残響はすでに遠く、今この空間には湯気と沈黙だけが漂っている。
だが、その静けさの中で、何かが動き始めている──そんな予感が、エリカの背筋をわずかに冷やした。
どこかで、サラ・エヴァンスはまた何かを仕掛けてくる。
それが“命令”によるものか、“気まぐれ”か、あるいは“個人的な興味”かはまだわからない。
だが次は──その本質を、見極める必要がある。
(今度こそ……)
彼女は、目を閉じた。
深く、静かに息を吐き、次の任務への備えを始める。
どうも、クジャク公爵です。
第3章です。
今回は自由なキャラがでてきましたね。序盤にも関わらずキャラが多くてスミマセン......
だいぶクセが強いキャラですが、もちろん今後も活躍するキャラ達なので、お楽しみに!
今回の作品もお楽しみいただけていれば、幸いです。
また次回、お会いしましょう。