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第10章 悲劇の日

瓦礫の散乱する廊下を抜け、非常階段の入り口に辿り着いた二人は、荒い息を整える間もなく扉を押し開けた。鉄骨の軋む音が重く反響する。

「……上やな。ライアンくん、無事でいてくれればええけど」

「行こう」

返す言葉も短く、エリカは駆け出す。半壊した階段を、焦燥のままに踏みしめながら駆け上がる。

4階。ライアンの病室があるのは、その北側の棟だ。

一歩、また一歩、階段の段差を跨ぐたびに、煤焼けた匂いと沈黙が、過去の重みを胸に蘇らせる。

焦げた壁。歪んだ手すり。ここは、本来安らぎを与えるはずの場所だった。それが、今や命のやり取りを強いられる戦場になっている。あのときの事故も、きっと、こんなふうに――。

「……エリカ」

後ろから呼びかける声。振り返らなくても、それがアズだとわかった。

「今の現場で……ちょっと、気になってんけど」

エリカは黙ったまま足を止める。アズは、ゆっくりと階段を上がってくると、エリカを追い抜き、静かに言った。

「さっき、下で局員の子にひどいこと言われてたやろ。あれ……、たぶん、まだ心のどこかで“あの事故”を引きずってるんやと思う」

 “あの事故”。

エリカの胸が、ぎゅっと縮んだ。

何よりも忘れたい記憶だった。そして、何よりも忘れてはならない記憶だった。

それは、まだエリカがシリウス管理局管轄の養成学校に通っていた頃。シリウス能力の制御に失敗し、校舎の一部を吹き飛ばしてしまった事件。複数の生徒が負傷し、中には今もリハビリを続けている者さえいる。彼女はその後、長期間の能力制限処置と訓練課程の見直しを受け、実質的に“隔離”されるような形で学生生活を送った。

「エリカのことを、怖いって思っとる子も、まだおる。でも……それは、エリカにはどうにもできないこと……しゃあない事なんよ」

アズは、まっすぐ前を見据えながら言った。

「怪我した子たち、みんなが、あんたのせいやと思ってるわけやない。でもな、当事者っていうのは、自分が被害者となった時、どうしても……“誰かのせい”にしたいもんや」

エリカは、うつむいた。

「……わかってる。全部、私のせいだった。あの時、暴走して……私は、制御を、失って……」

「ちゃうよ。エリカ」

アズの声が、思ったよりも強かった。

「それ、全部あんた一人のせいにしたら、あかん」

「……でも、私がいなければ……」

「それでも、あの事故は起こったかもしれへん」

アズは、階段の踊り場に腰を下ろした。エリカも、つられるように隣に座る。

「みんながみんな、エリカを許せてへんのは、確かにあるかもしれん。でも、それでも――」

ゆっくりと、言葉を選びながら、アズは続ける。

「“みんなに好かれる”なんて、できるもんやないんよ。誰だって、誰かに嫌われる。それでも……いや、だからこそ、自分を嫌いになったら……あかん」

その声は優しく、けれど芯があった。

「私が、同じ立場……事故の被害者だったら――許せたのかな」

ぽつりと、エリカは口にした。

「もし、暴走した誰かのせいで、友達が怪我して、夢を失って……私が、その“誰か”を見るたびに、それを思い出すなら――」

視界が滲みそうになる。拳に力が入る。

「……私は、笑える自信がないや。だから……、仕方ないって、思ってる」

それが、エリカの本心だった。

アズは、静かにうなずいた。

「そっか。そやな……難しいよな、人の気持ちって。自分でも、思った通りには動かへんもんや」

アズの指が、そっとエリカの拳に触れた。ぎゅっと握られた指に、自分のぬくもりを重ねる。

「けど、それでも、エリカは、エリカや。変わろうとして、ちゃんと今ここで戦ってる。私は、それを知っとるし、信じてる。だから……自分に負けんといてな」

小さな声だったけれど、それはまるで、胸の奥に差し込む光のようだった。

エリカは深く息を吸って、そっと吐いた。

「……ありがとう、アズ。ちょっとだけ、気が軽くなった」

「よかった」

二人はゆっくりと立ち上がり、再び階段を駆け始めた。

どこかでまだ、自分は“赦されていない”と感じる。

けれど、信じてくれる人が一人でもいるなら、その手を握って、前に進める気がした。

二人はゆっくりと立ち上がり、再び階段を駆け始めた。

どこかでまだ、自分は“赦されていない”と感じる。

けれど、信じてくれる人が一人でもいるなら――たとえ道の先が瓦礫に覆われていても、立ち止まらずに進める気がした。

(あたしが……こんなふうに“前に進もう”なんて思える日が来るなんて、あの時は思ってなかった……)

あの、終わりのような日。

全てを失って、真っ白な灰の中に立ち尽くしていた、あの――。




暗い雲に覆われた空。鼻腔を撫でる土の匂い。立ち並ぶ黒服の背中の中に、ひとつだけ学生服姿の少女がいた。

その日は終わりの日で、始まりの日だった。

静かな雨の音が、うるさく耳に触れる。

参列者たちの黒い傘が、まるで地面を埋める黒い花のように咲いていた。

灰色の空の下、エリカは一人、ぽつんとその花々の中心に立っていた。制服の裾は濡れて、冷たく肌に貼り付いていたが、気にする気力もなかった。

目の前の白木の棺には、母の好きだった桃色の花が添えられていた。けれど、その美しさは今の彼女にとって、ただの虚飾にしか見えなかった。

父も、母も――今はこの中に眠っている。

もう、目覚めることは無い。

(嘘だよ……昨日まで、一緒にご飯を食べてたのに)

胸の奥は空っぽだった。涙も、悲鳴も、出てこない。突然目の前に現れた現実に、ただ、呆然と立ち尽くすしかなかった。

同じ研究所の人間なのだろうか、黒いスーツを纏った男たちが距離を保って列に並んでいた。その中に、一人だけ傘を差していない長身の男がいた。

大柄で、整えられた顎鬚に真っ黒いスーツ。目元に疲労の色が浮かびながらも、どこか厳格さを残したその男は、ただ静かにエリカを見ていた。

彼は一歩、ゆっくりと近づいてきて、虚ろな表情のエリカに、無い傘を差しだすように目線を合わせた。

「……エリカ」

静かな声。低く、澄んでいて、押しつけがましさはなかった。

「……誰ですか?」

「君の両親と、同じ研究に関わっていた。ヴァルデス・グラントだ」

――ヴァルデス・グラント。

その名前は、両親の会話の中で何度か聞いたことがあった。優秀で、融通が利かない。けれど、信頼できる人。そんな風に語られていた。

彼は、どこか苦しげな目をしていた。疲労でも悲しみでもない、もっと複雑な、罪悪感のような何かが滲んでいた。

彼が何者なのか、それよりも、今のエリカには言葉を向けられること自体が煩わしかった。

「だから何?……お悔やみですか?それとも同情?」

投げつけるように言った。ヴァルデスは、それを受け止めたまましばらく黙っていた。そして一言だけ、静かに言う。

「……家に、来ないか」

エリカの眉がわずかに動いた。

「……は?」

「このまま一人では、生活も難しいだろう。君の後見人として、私が……」

「知らない大人の家に来いって?あなた正気ですか?」

「決めるのは君だ。だが、君の居場所は、今ここにはない。なら、私の家をその一つにしてほしい」

遠慮でも優しさでもなく――どこか、責任のような響きを含んでいた。

答えは、しばらく出なかった。

 ***

あれから数週間。16歳のエリカは、この複雑な社会に一人で暮らし続けることもできず、結局ヴァルデスの家に身を寄せることを選んだ。

最初は無言の時間ばかりだった。会話らしい会話もなかったが、ヴァルデスは干渉しすぎず、黙って見守っていた。

炊きたてのごはん。読みかけの本をそのままにしておいても誰にも咎められない空間。

そういう小さな積み重ねが、少しずつ――本当に少しずつ、エリカの心に"この家"という居場所を作っていった。

1年が経ち、高校3年になったある日。

エリカはリビングの机に置いた志望進路票を、真剣な顔で見つめていた。

その表には、はっきりとこう書かれていた。

『第一志望:シリウス管理局 警邏部門』

ヴァルデスはそれを見たとき、静かに口を開いた。

「……本気か?」

エリカは視線を逸らさず、うなずいた。

「うん。あたし、自分の力が……誰かの役に立つなら、そうしたい」

ヴァルデスの表情が険しくなる。

「……君の能力は強すぎる。簡単に使いこなせるようなものじゃない。暴走のリスクも……」

「分かってる。でも……あたし、自分の持っているものを、活かしたいんだ。正義のために生きたいの」

「……正義のために命を危険にさらすことが、本当に“正しい”ことなのか?」

言葉の意味は分かった。でも、それでも――エリカは止まれなかった。

リビングは二人の空気を察知してか、重たい沈黙の空間が流れていた。進路票をヴァルデスの前に差し出し、エリカはもう一度、はっきりと口にする。

「管理局の警邏部門に行きたい。ここに行って、ちゃんと人を守れるようになりたいの」

目の前に座るヴァルデスは、書類を一瞥すると、ゆっくりと目を閉じた。

「……他の選択肢は考えていないのか?」

「ないよ。これが、あたしの決めた道だから」

「理由を、聞かせてくれ」

「シリウス能力を持っている人間が、その力の責任から逃げたら、誰が使うの? 誰かが困ってる時に力を貸せないなんて、そんなの持ってる意味ないじゃん」

言い終わると同時に、ヴァルデスは無言で椅子から立ち上がった。彼が少しだけ背を向け、カーテンの隙間から差す光を見上げる。

「……その力が、誰かを壊したらどうする?」

「――壊さないよ。ちゃんと制御する」

「簡単に言う」

「簡単になんて、思ってない!」

声が、思わず大きくなった。けれど、ヴァルデスは振り返らなかった。

「……君の力は、まだ不安定だ。ご両親の事故から、まだ一年も経っていない。君自身も自分の限界を理解しているとは言い難い」

「……だったら、どうすればいいの?黙って隠れて、何もせず、ただ誰かの陰で生きていけってこと?」

「違う。平穏に、普通に生きろ、という話をしている」

初めて、ヴァルデスが振り返った。真っ直ぐに、厳しく、しかしどこか苦しげな目をしていた。

「この世界には、“正義のために死ぬ”ことを美徳のように語る者が多すぎる。だが本当に必要なのは、“生きて守り続けること”だ。君には、それを選んでほしい」

「……やっぱり、あたしが戦うのが怖いんでしょ」

「君を、失いたくないだけだ」

ヴァルデスの声は、静かに落ちた。淡々としているようで、その奥にある揺らぎが、エリカにははっきりとわかった。

そうか――この人は、ずっとあたしを“守る対象”として見てきたんだ。

でも、もう子どもじゃない。

「守ってほしいなんて、一言も言ってないよ。……あたしは、誰かを守れる人間になりたいんだ」

短く、でも真っ直ぐに言い切ると、しばらくの沈黙が部屋を包んだ。

ヴァルデスは腕を組み、再び目を伏せる。その沈思の末、ぽつりと呟いた。

「……では、折衷案だ」

「……折衷案?」

「警邏部門ではなく、まずは養成学校に進学しろ。管理局が正式に局員を育成する過程だ。力の制御、戦術、現場判断……すべてを学べる」

エリカの眉が動く。

「……それって、“シリウス管理局員になるための”道じゃないの?」

「そうだ。ただし、どの部門に進むかは卒業後の選択次第だ。少なくとも、今すぐ命を張る現場に出ることは避けられる」

ヴァルデスの目は変わらず厳しいままだったが、その奥にあるのは譲歩の色だった。

「……もしそこで、自分の力が“人を守る”のに足りないと分かったら、違う道に進むことだ」

「……わかった」

「それでいい」

それが、二人の小さな妥協だった。

対立は完全に解消されたわけじゃない。エリカは自分の正しさを信じていたし、ヴァルデスはそれをまだ危ういと感じていた。

けれど、互いの信念をぶつけ合ってなお、壊れなかったこの関係は――確かに“家族”と呼べるものに近づいていた。

翌春、エリカは管理局の養成学校に入学した。

まだ知らなかった。その数ヶ月後、自分が再び“壊す側”になることを。

そして、ヴァルデスとの距離が、もう一度大きく変わってしまう未来を――。


秋の朝は、空気が乾いていて、どこか肌寒かった。

養成学校に入って半年。エリカはその朝、いつもより少し早く目を覚ました。窓の外には、薄い雲の合間から差す柔らかな光。制服に着替えながら、ふと机の上に目を向ける。

そこには、小さな包みが置かれていた。

赤い和紙に、落ち着いた金の紐。手書きで「エリカへ」と書かれた字には、どこか不器用な筆圧の揺らぎがあった。

リビングに降りると、ソファに座っていたヴァルデスがいつものようにコーヒーを口にしていた。新聞を読んでいるわけでも、テレビを見ているわけでもない。ただ黙って、何かを考えているようだった。

「これ……」

エリカが手に包みを持ったまま声をかけると、ヴァルデスはちらりと目を向けた。

「開けてみろ」

無言で包みを解くと、中から出てきたのは、手のひらに収まる小さなお守りだった。深い緋色の布に、金糸で円の中に小さな星の刺繍がある。丁寧だが、既製品ではないとすぐにわかった。微かに焦げたような香りが布の奥に残っている。

「今日、実技試験だろう」

「……うん」

「願掛けだ。おまえが、ちゃんと力を制御できるように。――まあ、気休めだけどな」

言い終えたヴァルデスは少しだけ、視線を外した。彼のそういう態度は珍しい。

「ありがとう。……嬉しい」

自然と、声が柔らかくなっていた。

お守りを胸ポケットにそっとしまう。温もりがそこに残っている気がした。

「気を抜くな。過信するな。……でも、自分を信じろ」

「うん、わかってる」

いつもと同じようでいて、少しだけ違う、そんな朝だった。


実技試験の開始まで、あと十五分。

エリカは実技試験用に運動着への着替えを終え、人気のない備品倉庫裏の通路で一人、深呼吸をしていた。

心拍数は、わずかに早い。緊張ではない。ただ、今日はどうしても失敗したくなかった。

胸ポケットの中――お守りが、微かに体温を帯びている。

その時だった。

「よォ、お姫様」

声。低く、皮肉めいた響き。

顔を上げると、三人の男子学生がの倉庫の影に立っていた。先頭にいるのは、カブト・トリアイナ。試験ではいつも三番手前後にいる、戦闘などの実働能力は高いが真面目とは言い難い男だ。

その両脇には、取り巻きのような男たちが二人。今日も同じく、他人を見下す目をしている。

「……何の用ですか?」

エリカは無駄に相手にするつもりはなかった。だがカブトは壁にもたれ、あごで軽くしゃくってきた。

「そろそろ実技の本番なんだけどさぁ、お前、ちょっと休んでみない?」

「休む?」

「お前がトップを取り続けるとよォ、コッチは困るんだよね。今回は()()ミスってくれるだけでもいい。順位が少し入れ替わるだけだろ?」

言葉を選んでいるようでいて、悪意は隠していない。最初から、エリカの答えはわかっていたはずだ。

「断ります。そんなのは正当な評価じゃありません」

「やっぱり……か。ま、真面目ちゃんは最初からそう言うと思ってたよ」

カブトの笑みがわずかに歪む。

「だけどさ。ちょっと鼻につくんだよ、お前」

次の瞬間、背中に重い衝撃。

「――っ!」

不意打ちだった。後ろからわき腹に回し蹴りが入り、そのまま倉庫の壁に叩きつけられる。蹴られた腹が鈍く痛む。向き直ったときには、三人がもう前と脇から詰め寄っていた。

「なにをして――」

言い終わるより早く、カブトの拳が鋭く飛んできた。頬に焼けるような痛み。体がよろめく。

間髪を入れずに腹に膝が刺さる。息が詰まり、エリカは床に膝をついた。

「お前さぁ……いつも正義ヅラしてるけどよォ、何様なんだよ!」

「成績が良いからって偉いわけじゃねぇんだよ!」

「どうせ、お偉いさんのコネとかなんだろ?」

容赦ない拳と蹴りの雨が、罵声とともに続けざまに降ってくる。うずくまるように防御はしているが、純粋な男の力と数に、勝てるはずもなかった。

(なんで……)

心の中でだけ叫んだ。

(なんで私がこんな……)

殴られても、蹴られても、声を上げたくなかった。こんなことに負けたくなかった。

でも、限界は近づいていた。視界がぼやけ、耳鳴りがしてくる。

「顔が良くて、能力も優秀で、しかもヴァルデスさんの保護下。何様だよ?」

「どうせ男に媚びてんだろ。じゃなきゃ、こんな成績取れるわけねーし」

カブトがエリカの透き通った銀髪を乱暴につかみ、エリカの頭を無理やりに持ち上げた。

「や……め……」

身をよじって抵抗するが、後ろから一人に腕を押さえつけられていて動けない。

「やめる?何をだ?俺たちはお前が試験に出れないようにしてるだけだ。その方法はなんでもいい」

そう吐き捨てると、カブトはエリカの髪をつかんだまま、もう片方の手でエリカの運動着の襟元をつかみ、斜め下に一気に引き裂いた。

シャツの襟元が大きく歪み、胸元から引き裂かれる。エリカの白い肌と純白の下着が露わになった瞬間、ミナトとケイが喉を鳴らすようにして笑う。

「うわ、やっべ……胸はねえけど、引き締まってていいな」

「……ふひっ、マジで下着まで白かよ、清楚ぶってんじゃねーの?」

取り巻きの一人が下卑た笑い声を漏らす。その視線が、エリカの肌をなぞるように這う。

「……ッ!」

エリカの顔は恥辱に歪んでいた。怒りよりも先に、羞恥と恐怖で全身が震えた。だが、それ以上に腹の底から湧き上がってくるのは、どうしようもない“悔しさ”だった。

(……なんで、私が……!)

(ただ全力で、正しくやってるだけなのに……!)

「ま、これで実技試験は辞退だな。人前にこんな姿じゃ出られねぇだろ?」

カブトが、愉悦を込めた目で顔を覗き込む。地面に押し倒され、運動用ズボンの裾が裂ける音。身動きできず、息もままならない。

「お前の親も、こんなに“お利口”な娘が、こんな“醜態”を晒してるの見たら、草葉の陰で泣いちまうだろうなァ。ああ、でも――もう死んでんだっけ?」


一瞬、すべてが止まった。


空気が、温度を失ったように感じた。

――それは。

「……今、なんて言ったの?」

声が、知らないくらい低く、硬くなっていた。

カブトが鼻を鳴らす。

「両親の死はさ、むしろ良かったんじゃねーの? お前の顔、マジで“殺人鬼”のそれだしよォ――」


ズン――。


世界が、裏返った。

頭の芯を灼くような熱が、脊髄を伝って全身を駆け巡った。痛みではない。何かが、はじける音。

内からあふれ出る白い無垢な力が、エリカの意志を置き去りに、四肢を灼いて暴れ始める。


(……ああ……)


(だめだ、これ以上は――)


理性が危険を訴える。だが、あふれ出る奔流は止まることを知らなかった。感情が膨れ上がるよりも先に、身体が動いてしまった。

怒り?違う。

これは――恐怖。自分が、自分でなくなることへの、恐怖。

けれど、すでに遅かった。


――何かが砕けるように、パキンと壊れた音がした。


白んでいく景色の中、目の前にいた男が、向こうまで吹き飛んでいた。

地面が割れる音。窓ガラスが粉々になる音。誰かの叫び。叫んでいるのは、誰――?

目の前が真っ白になっていく。

視界が焼き尽くされていく中、エリカは、ただ――

(■■、■■■■■■■■――――)

それだけを、何度も何度も、心の中で叫び続けていた。



――白い―


――空白……に――


――意識が戻った。

音も、色も、何もかもがゆっくりと戻ってくるような感覚だった。世界が再構成される中、エリカは自分の体が微かに震えているのを感じた。

「……なに、これ……」

自分の足元には、大きくひび割れた地面。目の前に見える校舎の壁は吹き飛び、天井の一部が崩落していた。半壊した校舎のあちこちで照明は落下して火花を散らし、窓という窓はすべて砕けていた。まるで戦術級の爆弾でも炸裂したかのような惨状。

エリカ自身も、服は裂け、皮膚のあちこちに熱傷のような痕が残っていた。だが、それでも自分はまだ動ける――痛みすら感じることなく、動けてしまっていた。

(……なにが……?)

思考は混乱していた。だが、すぐに見まわした視界の隅に、それは映った。

――アイツら。

3人の男子学生。カブトと、その取り巻きたち。

血にまみれ、意識のない彼らは、それぞれがお互いに5メートル以上も離れた場所に転がっていた。高いところから地面にでも打ち付けられたように、骨が不自然な角度に曲がっている。制服は破れ、顔は腫れ上がり、鼻や口から赤黒い液体が滴っていた。

「――っ、ぁ……」

膝が、崩れた。

呼吸ができない。肺が狭まり、喉が震える。

(……私が、やったの?)

視界がぐらつき、震えが止まらなくなる。

(私が――この人たちを……?)

思い出せない。確かな記憶が、途中で途切れている。だが、それでも確信だけはあった。

この場で、こんなことをするのは、自分しかいない。誰もいなかった。止めてくれる人も、救ってくれる人も。

あの瞬間、何かが自分の中で弾けて、溢れ出た。

それだけは――覚えている。

「いや……いや、ちがう、私、そんなつもりじゃ……!」

言葉が口からこぼれる。誰に向けているのかすら、わからない。ただ、否定したかった。自分の手で、ここまでのことをしてしまったという現実を。

「助けて……」

呟いた声は、天井の無くなった無限の空に虚しく吸い込まれていった。

その時だった。

「エリカ!」

踏み鳴らすような足音とともに、管理局の制服姿の大人が崩れた道路の向こうから駆け込んできた。

その一人は……ヴァルデスだった。

その後ろに、武装した隊員たちや警邏部の職員たちが続く。

ヴァルデスは一瞬だけエリカを見た。その瞳には、言いようのない痛みが走っていた。

だが、彼はすぐに視線を下ろし、倒れた3人へと向かった。

「生存確認を!呼吸は?反応はあるか!?すぐに病院への搬送手配を!能力封鎖用の拘束具の用意もだ!」

怒号が飛び交う中で、エリカは立ち尽くすしかなかった。

ヴァルデスが、この惨状を目にしたとき、握った拳がわずかに震えていたのをエリカは見た。

「……っ」

心臓が、つかまれたように痛んだ。

ヴァルデスが、怖いわけじゃない。怒られるのが怖いわけでもない。

ただ――

(嫌われたくない)

その感情が、何よりも強かった。

ようやく繋がれた絆が、信頼が、壊れてしまうかもしれないという恐怖。

それが、エリカの心臓を締めつけた。

教官の一人が、やや遅れて到着した医療班とヴァルデスを呼び寄せながら、エリカのそばで言った。

「……典型的な能力の暴走ですね。記憶が飛んでいますよね?感情の爆発とともに、制御不能になったんですね。ですが……これだけの破壊力――通常の能力では考えられません。ノヴァさんは、何か特別な訓練を受けていたのですか?」

「していない」

ヴァルデスが短く答える。その声音には、怒りでも、冷たさでもない、重たい何かが沈んでいた。

「ただの学生だ。この子は……普通の女の子ですよ……」

その言葉に、エリカは小さく目を見開いた。

(普通?私が?)

手の中に残る破壊の感触。崩れた校舎。倒れていた人たち。

これが、普通?

違う。私は――

(私なんて、もう……)

もう、二度と普通には戻れない。

地面にしゃがみ込んだまま、震える手で自分の腕を抱きしめる。

力が怖い。自分が怖い。

どれだけ正しく在ろうとしても、どれだけまっすぐ進もうとしても。

ほんの少しの感情の綻びで、すべてを壊してしまう。

(私は、化け物だ……)

深く、静かに、エリカの中に染みついたその言葉が、心の奥底に根を下ろす。

彼女が自分の力を憎むようになったのは、この日からだった。


―――


――ふと気が付くと、そこはもう病院の4階にたどり着いていた。

あの時と同じ、破壊の臭いで……長い悪夢でも見ていたような。そんな感覚がする。

「この階は静かやな。まだ救護班の手も回ってないはずやのに」

隣のアズが静かに語りかけたが、エリカは答えずに慎重に目的の場所へと歩を進める。

「確か……着いた、ここです」

アズとエリカが見つめる先には305号室という札が掲げられた病室があった。

”4”という数字を避けるため、その階の病室は4階にありながらも300番台の数字が割り当てられている。

「じゃあ、入るで?」

アズがそっとドアノブに手をかける。エリカは頷き、自然と身構えた。焼け焦げた床を慎重に踏みしめながら、ゆっくりと扉が開かれる。

しかし――

「……いない……?」

室内には誰の気配もなかった。

無人の病室。だが、それは“整然とした”無人ではなかった。

ベッド脇の点滴スタンドは倒れ、窓際のカーテンは千切れかけて風に揺れている。床には、赤黒く乾いた血の跡。枕元には名札が落ちていた。

《R・ダンパー》

「ライアン……!?」

エリカは駆け寄り、部屋の中を見渡すが、どこにも彼の姿はない。血の量は致命的とは言えないが、それでも不吉さは否応なしに胸を締めつける。

「探しても無駄だぜ」

その時だった。ドアの陰から、男の声が響いた。

ぞわりと、肌を這うような不快な声色。静まり返った病室の空気が、一気に腐り始めるようだった。

「そいつなら――



――俺が殺した」



言葉の意味を理解するのに、数秒かかった。

エリカが振り返るより早く、アズが彼女を庇うように前に出る。だが、現れた男の顔を見た瞬間、エリカの時間が止まった。

「……嘘」

煤けた壁を背に、ひとりの男が立っていた。顔は無数の傷と火傷の痕で覆われ、左の頬は癒え切らない火傷でただれていた。短い髪は碌な手入れもされていないのか、獣のようにぼさぼさとしている。目だけが異様に光り、まるでこちらを試すようにエリカを見据えている。

「カブト……」

名前を呟いた瞬間、喉の奥から何かが這い上がるような吐き気を感じた。

あの日、養成学校で――

実技試験の直前、自分が“壊れた”日。

全ての引き金となった男。その男は、今目の前で、吐き気のするような声とともに佇んでいた。

「よォ。懐かしいなァ。エリカ・ノヴァ」

あの日の爆発が引き起こした悲劇は、今、またエリカに鋭い牙を向けようとしているのだった。

どうも、クジャク公爵です。


10章です。普段より長いですね。

とはいえ、過去の回想がメインなので、結構、内容は詰め込まれた方です。

本当は過去編を外伝形式で書こうかな~とかも思ったんですが、本編に大きく絡むところが多いのと、過去編はあんまりシリアスじゃなくなりそうなんで需要無いかな?と思って今のところ予定はないです。

希望があれば、全然書きます。学生エリカちゃんかわいいだろうし。


今回の作品もお楽しみいただけていれば、幸いです。

評価・感想もらえれば空を飛んで喜びます。

良ければ、また次回、お会いしましょう。

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