変わった通学路
熱を帯びた空気が、頬をかすめる。
私は、ビニール傘を片手に学校の正面玄関を出た。
太陽は高く、空は雲ひとつないほどによく晴れている。けれど、胸の奥に広がっていたのは、冷たくて重たい不安だった。
ほんの数時間前までは、なんの変哲もないいつもの朝だった。けれど今、目の前に広がる景色はどこか異様で、知らない場所みたいに見えた。私の知っている日常とはもう違ってしまっている。
住宅街にあるこの学校のまわりは、普段はとても静かで落ち着いている。ときどき犬の鳴き声や、近所の人が植木に水をやる音や洗濯機の音が聞こえるくらいで、それが当たり前の風景だった。
でも今日は違う。
道路に車の姿はなく、人影も見えない。
静まり返った街に、私の足音だけが乾いたリズムを刻んでいた。
そのとき――
「ガシャンッ!」
どこか遠くで、ガラスの割れる音が響いた。
何かが投げつけられたような、鋭い破裂音。その直後、誰かの怒鳴り声と女性の悲鳴が重なって空気を揺らす。
反射的に立ち止まってしまった。
心臓がドクン、と跳ねる。
何が起きてるのか、確かなことはわからない。
でもあの教室で見た“あれ”が学校の中だけの出来事ではないんだということを、音が教えてくる。
(優華……)
妹の顔が浮かぶ。
このまま何もせずにいたら、何かに巻き込まれてしまうかもしれない。
ふと、ポケットの中でスマホの存在を思い出す。指先が汗ばんでうまく操作できない。画面の母の名前をタップする。ワンコール、ツーコール……音は鳴る。けれど誰も出ない。父も、兄の渉も同じだった。呼び出し音は続くけど、誰も出てくれない。
胸の奥がぞわっと冷たくなる。
圏外じゃない。電波はある。でも、繋がらない。もしかしたら回線が混み合ってるかもしれない。非常事態だから。
……じゃあ、家族も非常事態の中にいるってこと?
不安と焦りが一気にこみ上げてくる。私の家族はみんな町のはずれの工場で働いてる。母も父も、兄も。あの辺りも無事じゃないかもしれない。でも、今は確認のしようがない
LINEを開いて、家族のグループをタップする。グループ名は『なかよし家族』。優華がふざけてつけた名前だけど、今見ると胸が痛くなる。
私は震える手でメッセージを打ち込んだ。
『学校で人が噛まれた。何か変なことが起きてる。優華を迎えに行く。みんなも気をつけて』
送信ボタンを押した瞬間、画面の向こうにいる家族の顔が思い浮かんだ。無事でいて、と願うことしかできなかった。
パジャマ姿の女の人が、スリッパのまま走っているのが見えた。泣きながら、何かを叫んでいる。
前から走ってきた男子高校生とすれ違う。その子は顔に血がついていたけど、無言でどこかへ走り去っていった。話しかける余裕なんて、なかった。
この町は今、崩れかけている。
そう思ったとき風が一気に吹き抜け、焦げたような匂いが鼻を突いた。どこかで火事が起きている。なのに、サイレンは遠いまま近づいてこない。それがどこか不自然で恐ろしかった。
「優華……」
私の妹。小学二年生。ちょっと知的な障害があって、コミニケーションと感情の整理が苦手な子。そんな子が今、何が起きてるのかもわからずにあの学校で一人でいる。
涙がこみ上げそうになる。だけど、今は泣いてる場合じゃない。走らなきゃ。あの子を迎えに行く。それが今できる、私に残されたたったひとつのこと。
私は深く息を吸い込み、、前を見据える。小学校まで歩いて十五分ほど。普段ならあっという間の距離。でも今日は、永遠にも感じられる気がした。
異常が、確実に近づいてきてる。まだ姿は見えない。でもあの体育館で見た『人を噛んだ人間』あれが町の中にいる。あれが広がってる。
ビニール傘を強く握り直す。
握った手に力が入るたび、体の震えが少しだけおさまる気がした。
(私が、迎えに行く)
優華を守る。それが、今の私のすべてだ。
祈るように心の中で叫びながら、麗華は再び走り出した。




