最初の決断
「先生、早くあの子をーー!」
体育館に響き渡る叫び声。男子生徒が複数の先生に押さえつけられている。その目はうつろで、口元から血を垂らしながら唸り声をあげていた。足元には、さっきまで笑っていた生徒が倒れて痙攣している。唇は紫色、目は白目をむいている。
「信じられない…一体何が…!」
麗華の背筋に冷たいものが走った。
“あれは…噛んだ。倒れた。そして…暴れ出した”
頭の中で「普通じゃない」が繰り返される。
(優華…)
大好きな妹の顔が浮かんだ。
(もし、優華が…)
その想像だけで、心臓がバクバクと音を立てる。吐き気すらした。
しかし、動かなければ。優華を助けなければ。
「麗華!?」
加奈が顔を引きつらせながら駆け寄ってくる。
「どこ行くの!? 一緒にいよ! 危ないって!」
「優華を迎えに行く。今ならまだ…間に合うかもしれない!」
「待ってよ! 勝手に動いたらダメだよ! 先生の指示を――!」
「先生たちも混乱してる! 何もできてないじゃん!」
「でも、ここから出るなんて…怖いよ…」
加奈の声が震えている。
麗華も怖かった。足は震えてるし、心臓の音が耳の奥で響いてる。でも、それでも。
(もし本当に、何かヤバいことが起きてたら――)
(優華じゃ対応できない。パニックになって、泣いて、動けなくなる)
(だから私が行くしかない。私は……姉なんだから)
「じゃあ来るの? 来ないの!?」
加奈は一瞬、口を開いて、それから視線を逸らした。
「…ごめん。わたしは残る。先生たちを信じたいから」
麗華は加奈の瞳を見つめた。
怖くて、寂しくて、でも――それでも行かなきゃいけない。
ほんの少しだけ、唇の端を持ち上げる。
「分かった。無理にとは言わない。でも…またね、絶対」
「うん。またね、麗華。気をつけて」
麗華は走り出した。体育館の扉を押し開け、廊下に飛び出す。
誰もいない廊下。静かなのに、どこか遠くで悲鳴のような音が聞こえた気がした。
(優華…無事でいて)
(でも、さっきの男子…あれって…感染?)
脳裏に焼き付いた、あの噛みつく光景。
(もしあれが広がるなら…自分も噛まれたら終わり)
そう思った瞬間、麗華は足を止め、教室に引き返した。
自分の席の脇に置いていたバッグをひっくり返し、教科書を引きずり出す。
袖の上から教科書を腕に当てて、ロッカーの中にあったガムテープでグルグルと固定していく。
「…これで少しはマシなはず」
息を整え、再び教室を飛び出す。
下駄箱の前に差しかかったとき――ふと、傘立てに目が留まる。
(あれも…使えるかも)
傘立てから長めのビニール傘を一本抜き取る。軽いけど、使い方を工夫すればいざという時の武器にも防具にもなりそうだった。
深呼吸をして、自分に言い聞かせた。
(わたしは行く。優華を迎えに)
ガラス扉を開ける。眩しい朝日が差し込んだ。
さっきまでと同じ朝なのに――もう、すべてが違って見えた。




