聖女発覚1
「侯爵様、侯爵様、一大事でございます!」侍女が大声で叫びながら駆けて来た。
午後の講義が終わって、マニサ侯爵は講義室を出たところで、メルトも王子も皆が聞き耳を立てた。
侍女は言った。「カタリナ様がご懐妊なされました!」
「そんな、馬鹿な!」王子は叫んだ。
マニサ夫人が王宮に来て一年ほど経った頃、妹思いのミカエル祭司は国王に懇願した。「カタリナ様が王宮に上がってからもう一年になります。それなのに、陛下は一度もお側にお召しくださらず、小宮殿にもお出ましになられません。カタリナ様は心細く思っておられます。どうかお慈悲を賜りますように。」
祭司は国王のお気に入りだ。儀式の演出が上手いところを買っている。国王は仕方がないので、南の小宮殿で昼食をとることにした。食事中、マニサ夫人は国王を楽しませようといろんな話をした。しかし、国王は沈黙が苦にならないタイプの人間だった。うんざりした国王は意識的に庭の緑に意識を飛ばした。すると、側妃の声が鳥の鳴き声くらいに気にならなくなった。仕事から離れてゆっくり昼食をとると思えば、月一くらいなら許容できる。国王は、まるで儀式かのように、毎月月末に南の小宮殿で昼食をとった。
とある麗らかな日に、国王は、小鳥のさえずる緑の庭を眺めながら、美味しい料理を食べ、少しお酒を飲んだ。過密労働のせいか、だんだん瞼が重たくなって、そのまま眠ってしまった。ウッフフ。お行儀の悪い陛下。
国王陛下はマニサ夫人が嫌いじゃなかったの?話が違う。まったく男って奴は!メルトは思わず口に出しそうになり、慌てて両手で口を押えた。
メルトは二人のカタリナについて知らんぷりを決め込み、そのまま忘れていた。だって、女の人の場合は珍しいけれど家族で同じ名前を付けることはよくあることだし、身分のロンダリングだってよくあることだ。王族の血も平民の血も等しく赤い。友人のカタリナに累が及ぶことの方がよほど問題だった。しかし、そのせいで王子の王位承継に悪影響がでるとなると、それはそれで心穏やかではいられない。
「どうした、メルト?」
「いえ、なんでもないです。・・・やっぱり。殿下、絶対に王様になってください。」
王子の顔が綻ぶ。「それは、君が私を推してくれるってことかな?」
秘密を守るためには仕方がない。メルトはこくこく頷いた。でもどうしよう、公爵家に迷惑がかかったら。
しかし、それは無用な心配だった。側妃の懐妊からほどなくして、王命により強制公債の発行と、商人団体や特定の自治都市への献上金の提案がなされた。一体これは何のための徴税だ?公爵家本邸に、かつての議会派の人々が次々と訪れるようになり、公爵は否が応でも政治の表舞台に担ぎ出された。
冬の始まりに、王の頭脳において、国王は告げた。「リコリスを攻める。総司令官はハロルドとする。」
会議室が静まり返った。
「陛下!これはなんのための戦争ですか!」王子が、背もたれの高い椅子から立ち上がった。床をこする耳障りな音に、国王は少し顔を顰めた。
「か、過去の克服である。」
「あまりにも無謀だ!」公爵は言った。
王がギロリと睨む。
「閣下、まだ発言は許されておりません。」議長が咎めた。
思えば、アストラガス戦以前の会議の進行役は法務大臣だった。権威の凋落を痛感させられる。だが、幼いメルトを前面に出すことで、公爵家は要らぬ対立を回避してきた。後悔はない。
「では、発言を求めます。」公爵は改めて言った
「こ、これは決定事項だ。そ、其方は宣戦布告書に印を押しさえすればよい。」国王は席を立った。相変わらず、取りつく島もない。
王は、隣の執務室に戻った。部屋の端の休憩スペースから祭司が出てきて、会議の成り行きを尋ねた。王は溜息をついただけで何も答えない。
祭司は囁く。
――― 陛下には太陽神のご加護がございます。恐れることなど何一つとしてないのです。
開戦時期は春になるだろう。リコリスに侵攻するルートは主に2つ。一つは王の直轄領から、もう一つは北の公爵領から。国王軍がどのルートを取ったとしても、北領の守りは必須になる。リコリスの強さを一番知っているは公爵領の人間だ。公爵は国璽を抱えて急ぎ北領に帰った。公爵が派手に動き注目を集めれば、守り人は動きやすくなる。早くしなければ雪で身動きが取れなくなる。
メルトは、北の小宮殿で王子と言葉を交わした。
「谷に帰らないといけなくなりました。殿下は僕がいなくても大丈夫?」
「私は名目上の総司令官だから問題はない。」
リコリス侵攻の実質的指揮は、アストラガス総督が執ることに決まっていた。王子は唇を噛む。全てが不本意だった。
「君の方がよっぽど・・・力及ばずすまない。」何の力もない自分を呪った。
「ううん。ただ、公爵家のみんなが酷い罰を受けないよう陛下にお願いしてください。そうしたら僕、殿下のためになんだってするよ。」国璽を隠せば、下手をすれば首が飛びかねない。
メルトの大きな目に涙が溜まっている。王子は何かを感じ取り、敢えて明るく振る舞った。
「言ったな?約束だぞ。」ぎゅっとメルトの肩を抱いた。
メルトとガイアスとルルは、冬ごもり用にあれこれを持って一緒にフルドラの下へ行った。
「メルティ。いざという時のために私も一緒に行った方がいいと思うの。」マリアが心配そうに言った。
マリアも公爵から聞いたはずだ。これまでのリコリスの傾向からして、守り人が谷をきちんと掌握していれば攻められる可能性は低い。
「ガイアスも一緒だから大丈夫。それに、これは僕のお仕事だから。そのために育ててもらっているんだし。」
何気ない言葉の端に本心が透けて見える。そのために養育しているというのは、半分正しくて半分間違っている。マリアはメルトの両手を握った。
「いい?私たちは、あなたのことを心から愛しています。だから、あなたが傷つけば心が痛むの。自分を大切にしなくてはいけません。いざとなったら逃げればいいの。私たちにとっては、あなたあっての世界なのだから。」
散々「守り人が」と言ってきたくせに何を今更。ただ、それでも悪い気はしなかった。「ありがとう、姉さま。僕も愛しているよ。」
メルトがルルとガイアスとともにトネリコの木に消えた。
「僕も愛している、だって。」マリアが呟いた。「美しき家族愛でございますね。」メアリが冷めた声で答えた。マリアは、せめて北領に行くことにした。
宣戦布告書が作成されたのに、公爵は一向に国璽を持って登城してこない。痺れを切らした国王は近衛隊を送って公爵邸を取り囲んだ。
「夫は、北領の国境守護のため急遽領地に戻りました。あまりに急いでいたために、うっかり国璽を持って行ってしまいました。決して故意ではございません。」公爵夫人は臆することなく答えた。公爵夫人は掴まった。セオドアも捕まった。巷では、人々が公爵を国士だと讃えた。
メルトの夢の実家暮らしは谷の雪が溶けるまで続いた。越冬サバイバル生活をしながら、しばらく御座なりになっていた魔法の勉強をした。その点はとてもよかった。
メルトが停戦の知らせを受けて本邸に戻った時には、王都は再び夏を迎えようとしていた。
リコリス側の損害がどれほどかはわからないが、停戦協定を結んだといっても、ほとんど敗戦だったと聞かされた。王都には負傷した帰還兵があふれている。だが、そのおかげで公爵家は罰を免れた。公爵は国王に謝罪し、以前のような半隠居生活に戻った。
メルトは久しぶりに王宮に行った。王宮の雰囲気は以前よりも重苦しく、空気もどことなくピリついていた。
メルトは王子の私室に呼ばれた。
「殿下、公爵家に対するお取り成し、ありがとうございました。」
「私は大したことをしていないよ。ただ世論が許さなかったのさ。」
王子はリコリス戦のあらましを話して聞かせた。早春、王都でも雪が溶けきらぬうちにカサブランカ軍は侵攻を開始した。進軍経路は国王直轄領からのみ。リコリスとの国境は山である。山越えはもともと難しい戦法だ。しかも、カサブランカ側の傾斜は急峻でリコリス側は緩やかだという。両国の交流はあまり盛んではないので山道の整備もほとんどされていない。カサブランカ軍はそこを数の力で押し通ろうとした。陛下は何をお考えなのだろうか、王子は寂しそうに首を傾げた。
「それはそうと、グレン連隊長が負傷し退役することになった。」
「え?」
そういえば、実働部隊の指揮者はアストラガス総督だと言っていた。つまり、派兵された軍の主力はアストラガス軍だ。軍人なら負傷するくらいあるだろう。退役しないといけないほどなら、命があっただけ儲けものか。
「お見舞いに行かなきゃ。」
「どうかな?グレンは君に会いたくないんじゃないかな。」
「どうして?」
「君にとってグレンは特別だったろう?グレンにとってもきっとそうだ。私だったら、君の記憶の中では、いつまでも憧れの英雄でいたいと思うよ。」
高位の退役軍人にはそれなりに生活保障がある。だから心配しなくていいと王子は諭した。こちらが会いたくても、あちらが会いたいとは限らない。それはわかるけど、誰にも気遣われないのも寂しいのではないか。それとも妻子がいるから寂しくはない?息子が書いた手紙を嬉しそうに読むグレンの姿を思い出した。メルトは迷いに迷って、ペンを執ってみた。でも、同情されるのは嫌だろうし、頑張ってくださいというのも違う気がする。結局、何と書けばいいのかわからない。
とある明け方、風に混じって誰かがすすり泣く声を聞いた。ヘメロカリスで聞いた妖精女王の歌声を思い出し、ガイアスに聞くと、ガイアスは泣き女だと教えてくれた。
「泣き女?」
「大切な人の死を伝える存在だ。」
数日後、メルトは王子からグレンの自死を知らされた。
涙が止まらない。泣いても泣いても悲しくて、涙が枯れても泣きたくて無心でヴァイオリンを弾いた。
曲はヴィターリのシャコンヌでお願いします。シャコンヌはバッハの曲も有名で素敵です。でもここはヴィターリの方が好き。
ケルト圏の泣き女は、正しくは家門についていて、一族の大切な人の死を知らせる存在です。たまに本人に死を知らせるパターンもあります。血のついた布を洗う洗濯女バージョンもあります。怖いのでもう少し違う方法がいい。
山越えの失敗は神武東征の生駒山越えのイメージですが、生駒山越えはたぶん秋のことでしょう。




