花火
ぬいぐるみの思い出はさ、大体みんな一つくらい持ってるよね。男女にかかわらず。
ぼくもあるよ。
小さい頃、両親に連れて行ってもらった動物園の売店でコアラのぬいぐるみを買ってもらったんだ。そこ、コアラいないのにね。なぜかぬいぐるみだけは売ってた。
それでね、よく出来ているんだよ。手のひらのところにマグネットが仕込まれていて、腕とか木とかにしがみつかせることが出来る。
灰色の、結構大きなやつだった。
ぼくはどうやって遊んだかな。マグネットをパチパチさせて拍手のまねごととか。帽子を被らせたり。
本当に幼い頃、ぼくは彼——あるいは彼女——と友達だった。
あのぬいぐるみはもう無い。
父親が死んだあと、母と話し合って実家の一軒家を処分した。母は新しく交通の便がいい駅近のマンションに移った。
そこで処分してしまったんだ。
ああ、一軒家の整理なんてぼくと母だけではとても手に負えないからね。業者の人に来てもらって一気にやった。
ぼくは友達を手放した。一顧だにせず。
◆
今日、8月20日。
ぼくの家に4人の友達が来ている。
近くの川べりで行われる花火大会を観るために彼女達は来た。ぼくの家は実は絶好の花火鑑賞スポットなんだけど、ここを買ってもう結構経つのに真面目に観たことは一度もなかった。
だから初めての花火鑑賞ということになる。今日この日は。
そして最後の機会ともなるだろう。
近所の料理屋さんにケータリングを頼んだ。
ベランダの大きな野外用テーブルを掃除して、テーブルクロスをかけた。
ダイニングから椅子を持ち出して、皆が座れるようにした。
外が暗くなり、それまでリビングでくつろいでいた皆がベランダに出て行く。
ぼくたちはテーブルに座り、目前に広がるバラエティ豊かな料理をちょこちょこ摘まみながら、この日のために買い込んだお酒を飲んだ。
端から見るに、青佳さんは茉莉さんと、知子さんはアナリースさんと話す機会が多い。でもこの2つのグループは緩やかに連合している。互いの会話をうっすら聞き合っていて、関係する話題になると適宜相互に口を挟む。
なんと表現すればいいだろうか。
ああ、こう言うべきだ。彼女達は集団で在ることがうまい。
それにしても奇縁だと思う。
青佳さんと茉莉さんはもう何年も前からぼくと知り合いだ。青佳さんは会社の元部下であり、茉莉さんは親戚。
一方でアナリースさんと知子さんは知り合ったばかり。エストブールのパーティでアナリースさんと出会い、彼女から知子さんを紹介された。だからまだ2ヶ月くらいだろうか。
つまり、2つのグループはぼくという存在を介して知り合った。
にもかかわらず、両者はごく自然に関係を構築している。
これが仕事上の付き合いなら珍しくもない。好悪なんか関係なく共に何かをしなければならない瞬間があるから。でも完全なプライベートでは結構難しいのではないかと思う。
いや、そうでもないのかな。
普通の人は普通にできることなのかもしれないね。
ぼくは観ている。
打ち上がる花火。
大気を押し出す低音と共に宙に駆け上がり、弾け、消えゆく幾多の閃光を。
同時にぼくは視ている。
彼女達を。
「すごいです! 全体をこんなに綺麗に観られるなんて」
歓声を上げる知子さん。こういうイベントごとに素直に乗っかるタイプだね。
ああ、東京にも有名な花火大会はいくつもあるけど、大量の高層ビルが遮蔽物になって、全体を綺麗に視界に収めようとしたら群衆芋洗い状態の会場に出向くしかない。こうして比較的近くから、視界を遮ることもなく全貌を見られるのは地方の特権かもしれないね。
「日本の花火はこういうものなんですね……。花火が主役」
アナリースさんはちょっと驚いているのかな。目を丸くして凝視している。
ヨーロッパの花火は扇形に開くものが多いらしいから、球状に広がる日本のものにはあまり馴染みがないのだろう。
ぼくは逆に西欧の花火に馴染みがないから詳しくは分からないけど、テレビとかでちょっと見る限り、あっちのものは空に光の幕を作る感じだよね。一方日本のそれは、確かに彼女が言うとおり、一発一発が完結して存在するイメージがある。
そんなことを考えながらワインをちびちび飲んだ。無言で。
今日はね、近所のスーパーでちょっと高いやつを何本か買ってきたよ。
いつものアルパカはお預けだ。なぜって、彼はぼくの日常であり、今日は日常ではない。
今日、8月20日は。
「兄さん、さっきから食べて飲んでばっかり」
ちょっと揶揄い混じりに茉莉さんが声を掛けてくる。
「ああ、うん。いや、ちゃんと観てるよ」
「本当ですか?」
青佳さんが確認するようにぼくの顔を覗き込んだ。こちらもね、ふわっと柔らかい口調と、穏やかな笑みがある。
「せんぱいは文化的素養が足りないんです! もっとアートを感じましょう!」
振り返り、花火の轟音に負けじと声を張り上げる知子さん。織り交ぜられた固い言葉とちょっと芝居がかった表情が、彼女の上機嫌をぼくに伝えた。
「こういう体験は創造のきっかけになりますね。——次回作の文字盤はアヴェンチュリンもいいかもしれません」
さっきまで半開きだった口元をキュッと締め、真剣な面持ちでアナリースさんが呟く。
アヴェンチュリンって、濃紺に白い微細な斑点が無秩序に敷き詰められた、星空のような雰囲気を醸し出す文字盤の種類。最近流行ってるね、確かに。
彼女達に囲まれたぼくは、特に何か言葉を返すことはしなかった。
ただ皆の優しい、愛撫の如き台詞を受け止めて、微かに笑みを浮かべた。
ああ、実際にどんな表情を浮かべていたかは分からないよ。ぼくが言えるのは、微かな笑みを浮かべようと意図したという事実だけだ。
◆
ぼくは本当に不思議な時間を過ごしている。
しょうもない話だけど、こういうシチュエーションって普通、かなりお金を積まないと体験できないものだよね。なんの取り柄もない中年独身男性がとびきりの美女4人と自宅で花火を観ようと思ったら。
羽振りのいい業界のお金持ちがこういう謎パーティをやっているって時々風の噂に聞くけど、傍から見たらまさにそんな感じだろう。ギャラ飲みっていうのかな?
ちなみにぼくは今日、彼女達にギャラを払ってないよ。1円も。
使ったお金はケータリングとお酒くらい。あ、お酒もあれだからね、1本100万のシャンパンとかではない。徒歩3分のスーパーで買った3000円くらいのやつを何本か。
ぼくは気が狂いそうだ。
あるいはもう狂っている。
つまりね、彼女達は何の見返りも求めず——花火の絶景はさておき——ぼくの家に来てくれたんだ。
そんなことがあり得るだろうか。
そして、そんな彼女達にぼくは執着している。
吐き気がするほどに醜悪なことに、彼女達全員に。
自覚はない。でも、ぼくの作品にはその気配が充満しているそうだ。
ああ、なるほど。
ぼくは自分の知性や創造性、気力が平凡であることを疾うの昔に認めているし、受け入れている。少し前に叔父さんに言語化してもらったとおり、ぼくは凡人だ。特別な存在ではない。実は本心のところで、その辺りはまぁ受け入れられた。もちろん特別でありたかったけど、無理なものは無理だ。諦めもつく。いい歳だしね。
ただね、最後まで認められなかったことがある。
なんと表現すればいいだろうか。
ああ、心根とでも言おう。
心根。
ようするに、ぼくは知性においても肉体においても平凡な存在である一方で、この魂、この心、この意識だけは独特なものであると信じていた。特異なものであると。世知に狎れず、常に暴れ続けるこの心だけは、ぼくだけのものであると。
その価値については論じない。善いか悪いかは知らない。ただ、ただ、唯一性だけを望んでいた。
自死すらも、その唯一性の証明として理解していたんだろう。いまだに納得はできないけれど、そうとしか考えられない。
英雄的で、悲劇的じゃないか。
物質的に満ち足りた、傍目には幸福と幸運に恵まれた一人の男が、人知れぬ独特の懊悩ゆえに死を選ぶなんて。
そして滑稽じゃないか。
でもね、どうやら、ぼくの心根もまた平凡なものだった。
ぼくは自分で書いた物語の主人公を罵った。「勝手にヒロイン達と仲良くなっていくダメなやつだ」と。だけど、決して「勝手に」ではなかった。主人公アントワン3世はぼくだ。
つまり、ぼくが望んだんだ。
要するにこういうことだよ。
地方で堅調な商売をやってる家にたまたま生まれた馬鹿息子が、仕事にも挫折して、日々周囲から恵まれた金を使って遊び暮らしている。そいつの周りにはとびきり魅力的な女性達がいる。不可思議極まりないことに、彼女達は皆、その男に好感を持っているらしい。
そしてね、その男は高踏的な態度で欲望に満ちあふれた世間を見下しながら、実は心の中に、まさに彼が見下したものと同じ欲を秘めている。
彼はそういう男だ。
汝自身を知れ。
この問いに対する答えを探して、ずいぶん長い旅をしてきた気がする。
ようやく辿り着いたよ。
答えはとても単純で、陳腐なものだった。
ぼくは全てにおいて、文字通り全てにおいて凡庸な男だ。
それだけならいい。最悪なのはいまだに足掻いていることだ。何でもいい。何でもいいから、ぼくの中に代替不能な要素を見つけたいという。
この最後のあがきを絞め殺そう。見事に。
今日。ぼくの魂は死ぬ。
彼女達にここでそれを告げることが果たしてよいことなのか、随分と迷った。皆花火を観に来たんだ。楽しい気持ちと共に一日を終えて欲しいから。
でもね、同時に、この先がないことを明確に理解して欲しい。たとえば今日を無難にやり過ごして、後日1人1人と話をしていく方法もある。でも、それは時間の無駄であり、未練でもある。彼女達はぼくとは違う。明らかに皆、特別な存在になり得る素敵な人達だ。その時間と意識を無駄にはさせたくない。
今日彼女達はとびきりの嫌な気分を味わうだろう。
でも、それで終わりにできる。
だから決めた。
ぼくはぼくが何者であるかを見せよう。今日、この場で。
◆
「文化的素養。創造の切っ掛け。——本当にその通りだと思う。ぼくも今日の体験を、今書いている物語に生かそう」
ワインは血の比喩だ。特に暗がりのそれは血に近い。どす黒く、深く、重い。
グラスに半分残ったそれを一気に飲み干して、ぼくは独語した。
目の前に展開する火の華を眺めながら。
「まぁ! お話を書いてらっしゃるんですね、社長」
ごく自然な口調で反応してくれたのは青佳さんだった。
「うん。——ネットで。暇つぶしの趣味に」
普通こういうとき、皆物珍しそうにはしゃいでくれるはずだよね。「どんなお話なんですか?」「読みたいー!」って。社交辞令として。
あるいは本心かもしれない。身近な人間がお話を書いているというのは、そう大したことではないけど、ちょっとした酒のつまみになる程度の珍奇さを備えた出来事だから。
でもね、ぼくを四方から突き刺す8つの瞳には、そういう軽やかさが一切無かった。それは鍛え上げられた槍のごとく、ぼくを四方から突き刺している。もう物理的に、縫い付けられているといっても過言ではない。
「……読んでみたいですね。兄さんのお話」
茉莉さんの一言には不思議な躊躇が感じられる。
踏み込むべきなのか迷っている。そんな風情だ。確かに物語を書くというのはとても繊細な行為だ。特に彼女はぼくが書いた『リチャードと羊』を知っているだけにその辺りの感覚を分かっているんだろう。
「ああ、うん。……ただね、あまり褒められた話ではないよ」
「ネットで、ということは、私たちも読めるんですよね!」
知子さんの溌剌とした声もまた、自身を鼓舞するものとすら感じられた。彼女もまた戸惑いを秘めているのか。まぁ、お話を書くってプライベート中のプライベートに属する行為だしね。芸術を学ぶ学生として肌感覚で知っているのかな。
「読めるよ。『ノベルライターになろう』っていうサイトで連載してるから。もちろん素人の趣味だからお金はかからない」
ネット小説の界隈にあまり詳しくないであろう知子さんのために付け加えておいた。
そう。ぼくのお話は無料だ。タダだよ。
状況を静観していたアナリースさんが、手に持ったワイングラスをテーブルに置いた。そしてぼくに向き直り、一歩踏み出す。ぼくの方へ。
「——タイトルを、教えてもらえますか?」
彼女は感づいている可能性も十分ある。でもこれまでは「可能性」に過ぎなかった。どれほど疑わしくとも自白がなければ確定しない。だからぼくは彼女の想起する「可能性」をここで確定しよう。
「……『地に落ちて死なば』っていうんだ」
凡庸な個人が為しうる善を希求しながら、そこに目を背けたくなるような欲望の詰まった物語。その名をぼくは告げた。彼女達に。友達に。
反応はなかった。
ぼくは主役の座を花火から奪い取ってしまった。今や夜空に開く華麗な閃光の存在は背景と化した。
彼女達は、ぼくが予想した反応を取ってくれなかった。
最近の会話を総合する限り、少なくとも皆『地に落ちて死なば』の存在は知っているはず。直接会っての話題にはなかったけど、知子さんだってメッセージで何度もぼくの作品に触れている。彼女はサジェシア推しだよ。ちなみに。
そんな、彼女達全員が楽しんでいる物語の作者がぼくであると告げたにもかかわらず、反応がない。
ただ、怖いほど真剣な、あるいは深刻な眼差しをぼくに合わせたまま、動かない。
「ああ……、嘘ではないよ。さすがにこの年になってそんな見栄ははらない。なんならログインページを見せることだってできる」
『地に落ちて死なば』は由理くんが毎回まき散らす怪文書の甲斐もあってそこそこ有名作だからね。もちろんウェブ小説という極小の世界においての話だけど。
とはいえ、何万作あるか分からない「ノベルライター」掲載作の中では比較的知られている方だ。愛読者である彼女達の気を惹こうと、ぼくが作者を騙ったと思われてもおかしくはない。
「ええっと、じゃあ、ほら、証拠を……」
スマホを取り出してログインページにアクセスし、作者用のページを開く。そして皆に翳して見せた。
なのに、誰もそれを真剣に確認しようとはしなかった。
代わりにぼくにもたらされたのは青佳さんの問いだった。ひどく静かな、抑制された、重い。
「なぜ、今それを私たちに教えてくださろうとお考えになったんですか?」
「ああ、そうだね。正直に言おう。——皆に、ぼくが何者であるかを分かって欲しかった」
「何者であるか?」
「そう。この作品の主人公はぼくだ。そしてヒロイン達は……皆をモデルにしている」
ああ、まだ脇差しは届いていないよ。だから華麗な自害はできない。でもそれでいいんだ。ぼくはこの話をもう少し書き続けることに決めたから。この醜悪さを受け入れることに。
独りで。
「じゃあ兄さん、分かっていますね? アントワン3世はジャスミナと結ばれますね?」
ぼくが作者であることを微塵も疑っていない口ぶりで、茉莉さんが謎の圧をかけてくる。その一言を皮切りに、青佳さんと知子さんが追撃する。
「もちろんブリューベルは陛下の最愛の寵姫になりますよね」
「私分かってますから! 陛下がサジェシアをお気に入りでいらっしゃること!」
お話の展開予想というしょうもない話題の割に、あまりに真顔の2人から視線を逸らし、アナリースさんの反応を確かめてみた。
彼女をモデルにしたエリザベトは既にアントワン3世と結婚している。そのことについてどう感じているのだろうか。怖い物見たさというやつかな、ちょっと知りたかった。
「正妃エリザベトは他の妃の皆様も歓迎いたしますよ? 陛下の正妻として」
彼女はね、ちょっと得意げに顎を上げる仕草。そして、ぼくにではなく他の女性陣に言い放つ。芝居がかった仕草で。
「まぁ! それは寛大なお言葉ですわ。でも、陛下のご寵愛に身分は関係ありませんから。アナリゼさんもお分かりのように」
青佳さんがいつもの柔らかい笑みで応答する。
アナリゼさん? 『この人を見よ』とぼくの話を混同してるのかな。彼女、興味なさそうな素振りを見せてたけど、実はしっかり『この人を見よ』のファンだよね。
◆
さて、ぼくは2杯目をグラスに注ぎ、水のように流し込んで燃料を補給した。いつもの安ワインじゃないから意外と重い。でも酒は酒だ。酔えればなんでもいいよ。
「ぼくが今、告白したのが、つまり皆さんに伝えたかったことだ。さっきも言ったようにアントワン3世はぼくだ。そしてヒロインは、ぼくの脳内に作りあげた皆さんだ。アントワン3世がぼくである以上、ぼくもまた彼の欲望と同じ欲望を抱いている。ああ、その……つまり、皆さんを自分の物にしたいという欲を」
言いたくないことほど明瞭に、誤解無く。
ぼくは今言ってのけた。21世紀の日本に生きる女性達に。「あなたたち全員を欲する」下劣な欲と妄想を抱く男であると。自分が。
「だから、みなさんとの交流は今日で終わりにしよう。これまでできる限り装ってきたつもりだけど、実際のところぼくはこういう男だ。それを認めたくなくて頑張ってきた。でも、やっぱりそれは誠実じゃない。ぼくは気持ち悪い男だが、皆さんを騙したいと思うほどに悪辣ではありたくない」
ぼくには勇敢さがある。
いや、逆かな。彼女達を騙し自分の欲求を満たす道具として扱うだけの度胸と覚悟がないんだ。つまり臆病ということだよ。
だけど、一方でそれを誇りたい。
そんな度胸も覚悟もぼくは唾棄すべきものだと思う。そして実際に、今ここでその可能性を葬り去る。
手が震えているのが分かる。自覚している。
これほどに恥ずかしいことがあるだろうか。
自分に好意を抱いてくれた女の人達に面と向かって告白したんだ。自分はあなたたち全員を欲するような気持ち悪い男であると。身の程知らずにも。
でも、これはやらなければならないことだ。
ちゃんと旅を終わらせるために。
ぼくは顔を上げたくなかった。
青佳さんの、茉莉さんの、知子さんの、アナリースさんの、その顔に浮かんでいるであろうものを見たくはなかった。
侮蔑と恐怖、失望。あるいは哀れみ。そういったものを。
ぼくはもう青佳さんが作ってくれる料理を食べることはできない。
気軽にやってきた茉莉さんとソファで四方山話をすることもない。
知子さんと美術館や映画館に出かけることもないし、アナリースさんのブティックで時計話に花を咲かせることもないだろう。
思い返せばぼくは、そういったすべてのことを愛していた。
辛さを感じながらも、心のどこかで喜んでいた。
心は重層的なものだよ。快の裏に苦があり、苦の底には快がある。幾重にも積上げられた感情の襞だ。ぼくは確かに好きだった。
でも、これで終わりにする。
ぼくは顔を上げた。
ぼくは勇敢な男だ。
自身の為したことの結末は見届けねばならない。
そして視た。
青佳さんの、茉莉さんの、知子さんの、アナリースさんの顔を。
もうすぐ友達ではなくなる彼女達の顔を。
でもね、そこには何も浮かんでいなかった。ぼくが想像したものは一片も。
ただ、ポツリと、冷徹にすら感じられる、触れれば裂かれそうなほどに鋭利な、4つの美貌があった。
彼女達はぼくを殺そうとしている。
真摯な視線において。
最初に口を開いたのは青佳さんだった。
彼女はね、突然ぼくに分からない言葉で語り出したんだ。
青佳さんはどこか外国の言葉を喋っている。
響きはフランス語に近いけど明らかに違う。ケベック方言でもないし、恐らくコロニアル系の方言でもない。
彼女のあまりにも丸く、柔らかく、滑らかな声質にのって、その言葉は音楽のごとく流れた。天上の。
あまりの予想外に反応できないぼくを尻目に、他の3人も恐らく同様の言語でしゃべり出す。視線の交錯具合から見て、何かを相談している様子。
この疎外感にはもう慣れた。だからぼくはじっと黙って皆の声を聴いていた。何一つ意味の分からぬ音を。
アナリースさんの発声は特に分かりやすい。フランス語が母語である彼女が話すからこそ、その言葉の特異性が際立った。
花火はもうじき終わる。
最後の大玉が大輪の極彩色を夜空に描いた。
ぼくの家のベランダに4人の女性がいる。
さっきまで友達だった人達が。
そして今、ぼくの家のベランダに4人の女性がいる。
まるで見知らぬ、天上の女神のような人達が。
◆
どこか異国の会話は唐突に終わりを告げた。
青佳さんが再びぼくに向き直り、問う。
日本語で。
「サンテネリをご存じですか? グロワス13世陛下」