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火花 3

 結局、ぼくは結婚した。


 ぼくはずっとそれを恐れていた。認めよう。

 だって怖いでしょ。

 自分の生にさえ責任を持てない人間が他人の生に致命的な影響を与えるかもしれない立場になるなんて。夫という。

 従業員の人生に責任を持つ立場を長く経験してきたくせに、何を今更。そう思われるかもしれないね。でも、これは明らかに似て非なるものだ。

 会社と家庭では明確に事の本質が異なる。

 家庭には有機的な、粘ついた不定形の、不気味な、割り切れない性質がある。

 そこにおいて人は人を作り出す。産む。

 夫婦になるのはまだいいよ。彼女は自由意志に基づいてぼくと在るという選択をしたんだから。でも子どもは違う。何の選択肢も与えられないまま、他者——両親の意思のみによってこの世に創り出される。


 小学生の頃、自分の名前の由来を両親に聞いてくるっていう宿題が出たことがあった。肝心の答えを得た後、ぼくは特に深い考えもなく母に重ねて問いかけた。

「なんでぼくを産んだの?」って。

 あ、本当に深い意味はないよ。

 今思えば色々誤解を招きかねない聞き方だけど、低学年だからね。しょうがないね。

 母の答えも今にして思えば適当だった。夕飯の支度中に聞いたのがよくなかったんだろう。母はこう言った。

「勢いよ、勢い」

 そんなものかと子供心に思ったね。そしてしばらくしたら忘れてしまった。


 勢い。

 この答えはとてもいい。結局人生ってそういうところがある。


 皮肉なものだよ。

 ぼくは母のこの鮮やかな精神を持ちえなかった。何もかも深く考えて、勝手に底なし沼にはまりこんで、最終的に自死を選んだ。


 そして今この世界にいる。リュテスに。王として。


 ここはね、個人の意思なんて一顧だにされない世界だ。

 より正確には、理解はされても尊重はされない。個人より大切な何かが明らかに存在する世界なんだ。その大切な何かのためにぼくは結婚した。そしてこれからも何度か結婚するだろう。


 結婚させられたなんて卑怯なことは言わない。

 ぼくが選んだんだ。

 道が一本しかなくても、そこには選択肢がある。進むか留まるか、ぼくは選べた。

 ぼくは進むことを選んだ。ならばできる限りのことをするべきだ。


 エリザベトさんと、今後妻になる可能性が高い人たちのために。





 ◆





 深夜の2時あたりというのはゴールデンタイムかもしれないね。

 ワインはボトル2本目。

 モニターは2重に見える。

 自意識を獲得した指だけが動き続ける。


 これはまさにシュルレアリストの自動筆記というやつでは?

 そんなことを考えながら、淡々と文章を打った。

『地に落ちて死なば』の1つの区切り。王の結婚のシーンを書き終えて、いつものように鬱陶しい”ぼく”の独白を付け加えたところ。


 ここで終わりにしようか、それとも続けようか。

 迷いは尽きない。


 正直に言おう。

 このお話を作りあげたいという欲求以外のものは、全てそぎ落とされてしまった。

 昔あんなに嬉しかったブックマークもポイントも、もうチェックすることはなくなった。

 実は感想も。


 別に後ろ向きな心情ではない。

 ぼくはこのお話をたくさんの人に読んでもらいたいと考えているし、できることなら楽しんで欲しいとも思っている。そして読み終えた人には、心の中に何でもいいから感情を沸き立たせたいと願っている。

 そこに変わりはない。今でも。


 そんなぼくの大望の達成度合いを測るのに、ポイントとブックマークと感想はとても便利だった。昔『リチャードと羊』を書いたときには不可能だったリアルタイムの反応を見ることができるから。でもね、残念なことに今、荒野に立つ道標のごとき湧き水の泉は汚染されてしまったんだ。


 ちょっと前からぼくが感想を見るのを止めた理由が、それを端的に表している。

 ぼくのお話の感想欄なのに、なぜかユリスさんがSNSで行う恒例長文ポストについての考察が始まっていたんだよね。皆して盛り上がってた。

「某作家のポストを楽しむためにこの話読んでる」

 みたいな文章を見たときは、さすがに少し悲しかった。

 そして悟った。


『地に落ちて死なば』は素材に過ぎない。

 国宝級の茶器だって原料は粘土質の土塊だ。もちろん良質のものを使っているんだろうけど土は土だ。それは価値ではない。人々が賛嘆を惜しまないその美、その価値は、原料を加工した職人の技芸やセンスに対して与えられる。

 ぼくのお話はつまり、土だ。


 自覚したとき、実は作品を消去してしまおうかと思ったよ。危ないところだった。

 持ちこたえることができたのが奇跡に近いくらいに。


 これに関しては青佳(はるか)さんに感謝しなければならないね。

 彼女はうちに来る度に何かを置いて帰る。

 残置物は生活必需品のこともあるけど、雑誌や小説、漫画の類いも多い。あの几帳面な青佳さんが「うっかり」をこれほどに繰り返すとは考えがたいから、明白な意図を持って、ぼくの家に物を持ち込んでいるんだろう。


 まさに自作を消去しようと「ノベルライター」退会ページを開いて、2本目のアルパカを取りにキッチンに向かおうとしたときのことだった。

 ローテーブルにこれ見よがしに、ぽつりと佇む一冊の漫画単行本。ポップな表紙がぼくのぼやけた視界の片隅に映った。


 金髪ボブカットに着物を着た女性が、右手にビールのグラス、左手に赤い万年筆を構えている。全体的に明るい雰囲気のイラストだ。

 でね、タイトルを見て、ぼくはちょっと笑ってしまった。

 青佳(はるか)さんの名前と作品名——おそらくヒロインの名前——が同じだったんだ。こういうのを楽しむ心性が彼女にはある。意外にも。

 青佳(はるか)さんは時々お茶目だ。


 その夜、ぼくは彼女の策略にはまった。はまってみたいと思ったんだ。自暴自棄の極地にあったからね。

 だから身体もソファにはまり込んで、その漫画を手に取った。


 中身はね、若い女性作家——表紙に描かれていた主人公だよ——が、日々の生活の中で体験した小さな「差異」をくみ取って、そこから活力を得て、リフレッシュして、生きていくお話。

 ああ、なるほど。


 青佳さんがぼくに伝えたいと望んだことはすぐに伝わった。彼女はぼくをよく観察している。ぼくの外面を。

 明確な理由のない、漠然とした苦悩の一端を覗かせるぼくに、青佳さんはこの漫画を「贈った」。この漫画のヒロインのように日常を生きましょう、と。喜びを見つけましょう、と。気持ちを切り替え(リセット)ましょう、と。そんな思いを込めて。


 ただね、この本はその時のぼくにとってほとんど凶器のような代物だった。劇薬といってもいい。

 漫画のヒロインが時にコミカルに、時に美麗に、時に情感厚く日々を過ごす姿の()()をどうしても考えてしまう。()()もまた、その身体の中に粘性の、漆黒の、ぐにゃぐにゃしたものを潜ませているのではないか、って。

 にもかかわらず()()は堂々と生きている。少なくともそう見える。


 なんと偉大なことだろうか。

 なんと素晴らしい平凡だろうか。


 ぼくが心の底から得たいと望み、得られないもの。

 青佳(はるか)さんと同名のこのヒロインだって、ぼくと同様に装っているだけかもしれない。

 でも、装い通している。これは凄いことだよ。





 ◆





 人の中には、人が当たり前に行うことをできない人がいる。その()にあたるのがぼくであることは言うまでもない。もちろん殊更に異常ということはないよ。人は皆、どこかしらそういう部分を抱えているだろうから。ぼくも有象無象の1人に過ぎない。


 想像してみよう。

 ぼくには友達も親も親戚もいる。同僚——というか部下もいる。お金も時間もある。そして健康も。まだね。


 つまり何だってできる。

 周りの人たちと楽しく遊んで、ちょっと辛いときには愚痴をいって、憂さ晴らしをして、一日一日を生きる。死ぬまで。

 これを当たり前にできる人とできない人がいる。

 青佳さんが置いていった漫画のヒロインは多分ぼくと同じく「できない」タイプだ。

 だから()()()()そう在ろうとしている。


 ああ、なるほど。


 ぼくはそう在ろうとしたか?

 この漫画を通して、ぼくは問いを投げかけられているんだ。


「おまえはそう在るために何をした?」

 って。


 ぼくは答えざるを得ない。

 正直にね。

「ぼくはそう()()()()ために全力を尽くしている」

 って。


 青佳さん、茉莉さん、アナリースさん、知子さん。

 彼女達がぼくを好きだというのなら、ただ受け入れればいいはずだ。

 ぼくが出社しなくても、仕事をしなくても、会社の皆は何も言わない。ならばそれを受け入れればいいはずだ。

 ぼくはこの恵まれた環境を全て周囲から恵んでもらった。ならば、それをありがたく受け入れればいいはずだ。


 なのにぼくは常に、それらを道具にしてきた。自身を苛む器具に。

 自分に快をもたらす全てのもので自分を痛めつけようとしてきたんだ。

 本当に倒錯しているね。


 ただね、この性向はもう何十年もぼくとともに生きてきた戦友だ。

 絞め殺せるかは分からない。別れることができるかも分からない。離れられない可能性は十分にある。

 ()()()()は同一の存在でありながら別たれている。正確には、今まで完全に同一であったものを別つことを望んでいる。今。

 漫画の彼女のように、勇敢に生きたいからね。


「飢えた子どもを前にして、芸術作品は無力か」


 この問いへの答えをぼくはまだ見つけられないけれど、青佳さんが持ってきた1冊の漫画は少なくとも1人の「飢えた」大人を救った。

 ああ、正確には救うきっかけを提供してくれた。自分を救うのは自分以外にはないからね。


 つまり「物語」には価値がある。

 ぼくがこの漫画のヒロインに憧れを抱いたように——日常を生きることに勇敢でありたいと望んだように——、ぼくが今書いている『地に落ちて死なば』も、どこかの誰かに何かの切っ掛けを与えるかもしれない。

 何かに「飢えた」誰かに。


 それは偉大なことだよ。

「凡庸の善」を描きたいと望みながら、自分が作り出すものの価値にずっと半信半疑だったぼくの蒙を、この作品は啓いてくれた。

 観念ではない。体験によって。

 それは()()()()()()だと。


 ぼくは()()のようにはなれない。だけど、そう在りたいと望む。





 ◆





 物語は作者の意図を離れ、自立する。

 たしか知子さんと話したテクスト論の一端だけど、まさにその実例がこの漫画だね。恐らく作者の漫画家さんは、誰ともしれぬ中年男性が深夜自室のソファで自作を読みふけり、謎の感動に全身を震わせているなんて思いもしないだろう。

 多分、仕事や勉強の合間に読めるちょっとした息抜きを意図しているのかな。

 でもまぁ、読者であるぼくにはその意図に従う必要はないからね。


 あ、青佳さんは1巻しか置いていかなかったので、1巻も含めて全巻その場でポチったよ。お陰で今、ぼくの本棚には楽しい光景が広がっている。

『自省録』とか『人生講義』みたいなストア派の本が何冊か。あとは『存在と無』初め、いわゆる無神論実存主義に関する本が数冊。カントとヘーゲルがちょこちょこ。そして『リチャードと羊』。

 そこに例の漫画全20巻が鎮座しているというね。

 異彩を放ってる。


 でね、まさに今、平日の昼に突如やってきた(まぁ連絡は朝来たけど)由理くんがさ、またぼくの書斎のフットレストを我が物顔で占拠して当の漫画を読みふけっているわけです。

 それだけならまぁいい。

 構図がもう友達の家に遊びに来た高校生みたいになってるけど、それはいい。


 問題はね、リビングのソファ対面に居住まいを正して座るもう一人の後輩、堀田くんなんだ。


「『地に落ち』、今後いわゆるハーレム展開になるんですよね?」


 いつの間にか謎の愛称が付いてるのが面白い。

 何というかね、前回会ったときにはぼくも大分ピリピリしていたんだけど、()()()()心境の変化もあって、今日はもう少しリラックスムードで話を聞けている。


「ああ、そうですね……。ここだけの話、迷っています。話としてはあれで完結してもいいかと。結婚によって、主人公はリュテス王国の人間として生きることを定めたわけです。つまり旅の終わりだ」

「分かります。()()のお話を拝読していて、特に後半はどちらかというとアントワン3世の精神的な旅……というか、決断に至る過程として読み取れましたから」


 ガンガンにクーラーを効かせているのに、なぜか堀田くんは額に汗を浮かべている。

 由理くんがふらっと「先輩の家行こう」って誘ったらしくてね。申し訳ないな、平日の昼に。本当に。

 それにしても急な来客に麦茶を出せてよかった。

 最近青佳さんが作ってくれるんだよ、麦茶。量産体制が確立されてる。


「ええ。だから、これ以上は蛇足かもしれません」

「でも()()、ヒロイン達との決着が付いてませんよ。——”ぼく”は明らかに、エリザベト以外のヒロイン達のことも()()ですよね?」

「まさか! そんなわけはない」


 意外な発言が堀田くんの口から飛び出してくる。

 いやいやいや、そんなわけはない。もちろん”ぼく”はブリューベルさんにもジャスミナさんにもサジェシアさんにも好意を持っているけど、それは恋愛感情ではなくてね。

 彼も大手出版社の編集の割には文章が読めてないな。まぁ、流し読みしただけだろうし仕方ないか。

 そう納得したところ、奥の書斎から大声が飛び込んできた。


「先輩! 何言ってるんですか。どうみてもアントワン3世は独占欲の権化じゃないですか」


 言いながら由理くんがリビングに大股で歩みいる。手に読みかけの漫画をつかみ持って。


「いやいや、きみもさ、散々長々ポストする割には全然読めてないな。主人公にはそういう感情は……」

「ああ、はい、分かりますよ! これは書いてる本人だけが分かってないパターンだ。堀田もよく見るだろう? こういう作家」


 長い金髪を掻き揚げながら、さも分かったような口ぶりの由理くん。いきなり話を振られた堀田くんは、しかし意外にも大きく頷き同意を示した。


()()、ぼくも由理と同感です。でも、そこがいいんですよ、『地に落ち』は! あの独占欲があるからこそ人間味が感じられるんです。主人公は必死で自分の後ろ暗いところを覆い隠そうとしつつ、それが読者には手に取るように分かるという先生の筆力が……」

「ああ、えっと、ちょっと待って欲しい。多分何か誤解がある。私はそもそもそういう意図では書いていないし、そんな記述もない」


 至極当然の抗弁を鼻で笑い、一蹴する由理くん。


「ほら、30話あたりの何話かで王がヒロインを他のキャラとくっつけようと動くじゃないですか。あの辺りほど分かりやすいところはない」

「なにが? あそこは要するに、王が彼女達の幸せを願って頑張るところだ。実際に、その……知り合いの()()()()()()お二人ほどに読んでもらったけど、”つまらない”とはっきり言われた」


 シャキッと背筋を伸ばして座る堀田くんの横に、由理くんが雑に腰掛ける。ソファの上に胡座をかいて。


「その”女性読者の方々”はちょっと例外ですよ。()()()()は思い込みが強すぎる」


 まぁ確かに。それは認める。解釈違いバトルで原作者に罵声を飛ばす皆さんだからね。


「ああ、違う。違います先輩。あの晩の話とはまた別の思い込みです。——あの人達にとっては、自分たちが王と結ばれるのが()()なんです。だから些細な(作者)の心の機微が読めない。読み飛ばしてしまう。ただ事象だけを見る。だから感想は当てになりませんよ」

「心の機微って……。さっき言ったように私自身の意図は明白だ」


 彼はあきれ顔を隠そうともせず、隣に座る堀田くんに視線をやる。

 何この「おまえ言ってやれよ」みたいなムーブ。


「先生に対して僭越とは思いますが、編集の立場から見ましても、ユリス先生のおっしゃることが正しいと感じます」

「なるほど。どの辺りを見てそう思われるんです?」


 堀田くんはぼくと由理くんの呼称をめまぐるしく変える。

 ぼくには「先生」と「先輩」を、由理くんには「由理」と「ユリス先生」を使い分ける。敬語もね。状況に応じて自分の立場を切り替える、こういう手練手管を見る限り、出版業界は人間関係が繊細なところなんだろうね。


「”ぼく”の独白です。30話あたりからの何話か、明らかに独白が長いですよね。同義の文章が何度も繰り返されるシーンが結構ありますけど、大体は”彼女達のため”だったり、”自分には恋愛感情はない”だったり。読者からすればはっきりと分かりますよ。ああ、本心は逆なんだ、って。この辺りの描写はまさに先生の卓越した筆力が光るところだと思いました」


 時々挟まれるアレな追従は置いておくとして、独白が……長い?

 え?


「そんなつもりはなかった。ただ、もしそうだとしたら、その、読者の方に”ぼく”のスタンスを分かってもらおうとしただけです。ほら、ヒロイン達は皆魅力的な姫として設定しているから、それを遠ざけようとするなんて一般常識、特に男性読者の感性から外れてしまうでしょう。だから、ちゃんと説明する必要があった」

「作者の意図がそれならそれでいいですけどね。でも先輩、あの辺り、客観的に読むとかなり見苦しい男の未練がこもってますからね。全員を自分の物にしたいって欲望がチラついてる」

「……由理くんはこう言いますけど、堀田さんも同意見ですか?」


 歯に衣着せぬ由理くんは置いておいて、まだ距離と礼節のある堀田くんに話を振ってみる。


「そうですね。由理のはちょっと言葉が過ぎますが、とても()()()()()()()だと感じました」


 なるほど。


「私は先生の作品のそこに惹かれます。前回『ユリス先生が推してくださっている』と言いましたが、正直なところ、それで注目を浴びるのは最初だけです。着火というか、最初の火花に過ぎません。火花が消えたとき、大勢の読者の心を捉えるのは多分ああいう場面なんです。”ぼく”は我々——読者です。読者は感じる。”自分”である”ぼく”が、あのリュテス王国でどう生きるのか。そこに興味を惹かれるはずです。それを読みたいんです。間違いなく」


 言い切って彼は麦茶を飲み干した。

 喉を鳴らして。

 芝居がかった仕草のくせにそう見えないのは、彼の優しげな、人畜無害な雰囲気ゆえなんだろうね。これが見るからに「敏腕」って感じのシュッとした見た目だったら嘘くさくなるところだ。


「堀田さん、とても意外なお言葉にちょっと驚きました。より正確に言えば面食らった……。ちなみに由理くんも同意見かな?」

「ええ。ただ、あの作品はそこが強すぎて、王の強靱な意志と知性の演出が弱いと感じますがね」


 その辺りはいつもユリスさん(由理くん)がSNSに流す怪文書の主張そのものだ。割愛しよう。

 ぼくは口を閉じて、目の前に座る対称的な二人の後輩をじっと眺めていた。話は終わりとばかりに漫画に没頭する由理くん。そして、ぼくの視線を真正面から受け止める堀田さん。

 なるほど。

 彼は本気なんだ。あるいは、そう見る者に感じさせるだけの演技をする能力がある。


「ですから先生、続きを書いてください」

「光栄です。ただ、1つ確認させてほしい。——そのお言葉はガリアール・パブリッシングのノベル編集者としてのご意見ですか?」


 ぼくを先生——実際は先生でもなんでもないけど——と呼ぶ編集者の彼なのか、ぼくの後輩としての彼なのか。それを聞きたかった。微細なニュアンスのゲームはもういいんだ。

 はっきりさせよう。


 アントワン3世はぼく(作者)だ。にも関わらず、(アントワン3世)ぼく(作者)じゃないとこの人は言う。だってぼく(作者)は意図していないんだから。

 いや、いや、アントワン3世はぼくであり、かつ彼が正しいのか?


「汝自身を知れ」

 これほどに重たい言葉はないよ。心の底からそう思う。


 つまり、()()()()()()()()()()()()のか? なぜ。

 望むとは、将来を生きることと同義だ。()()()()()()()()()? 本心では。

 普通に生きたいのか? 実は。


 ぼくには分からない。

 ぼくの抱えてきたこのやっかいな代物(懊悩)を嘘だとは思わない。でも、それすらも素振りなのか。自己憐憫の道具なのか。

 ぼくには分からない。


 だからね、ぼくと比較的距離が遠い堀田くんに意見を求めたかったんだ。


「ガリアール・パブリッシングの編集者として、『地に落ちて死なば』を世に出したいと思っています」


 優秀な断熱ガラスを通してさえ、夏の西日は強烈な熱を秘めている。エアコンの力を借りてさえ、それは人の身体に熱気を感じさせる。

 にもかかわらず、青年の丸い、愛嬌のある瞳はその時冷めていた。仕事をしようとしていた。


 なるほど。


「そう言っていただけるのは本当にうれしい。——ただ、私にとって、物語を書くことはごく個人的な意味を持つ営みです。即答はできません。ああ、もちろん、ご意見はありがたく頂戴します」


 返事は定型句にしかならなかった。

 こういうのこそが日常に起こる「差異」じゃないか。それを楽しんでこそじゃないか。だからシンプルに「続きを書きます。出版したいです」と言えばいいんだ。


 だけど、ぼくは口に出せない。


 だって、それはまさに、今までのぼくを完全に否定する行為だから。

 ぼくが積上げてきたうんざりするような悩みの山を突き崩す行為だ。

 深刻な思考は全て「素振り」に過ぎなかった、と。


 ぼくは本当は生きたいのか?

 彼ら、彼女らと、この世界に。

 がらくた(宝物)のような想いを全てを捨てて。与えられたものを受け入れて。


 そう在りたいと願うよ。でも本当に、ぼくにできるのか?

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― 新着の感想 ―
最初を読んであれっと思ったら、劇中劇だった。それでも違和感感じられないほどに、『彼』は彼なんだなあを みんなが彼を生かそうとしている。果たして地に落ちて死なずとも、大きな実りをなすんだろうか。
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