再起編(五)病棟
殺風景な救急外来の出入口の脇に置かれたベッドの上で、「入院出来るのか。入院が許可されなかった場合はどうしたらいいのか」達也はそのことばかり考えていた。診察した医師自身が入院の必要がないと判断している以上、入院出来る可能性は低いと思っていたのである。
―入院の許可がおりなかった場合はどうしようか。とりあえずタクシーを拾ってアパートに帰ったとしても、食事はとれないし体が痙攣しているので眠ることも出来ないだろう―
アパートには食料といえるものは何もなかった。救急車を呼ぶ前の一週間、初めの頃はスーパーの介護用品売場で高カロリーの栄養飲料を、食品売場でカロリーメイトとカップラーメン、絹豆腐を大量に買ってきて食事はそれで凌いでいた。しかし、日が経つにつれ固形物が食べられなくなってしまった。飲酒によって眠ろうとしていたため胃が荒れてしまい、固形物を食べても戻してしまうのである。週の後半にはスーパーに行く体力も気力もなくなって、コンビニで売っているビタミン飲料で栄養を摂取していた。
救急外来の出入口に移動してから右胸上部も痙攣しはじめた。体が少しずつ壊れていく気がする。「このままアパートに戻ったら孤独死する」と達也は思うのであった。
一時間くらい待たされただろうか。看護師がやって来て、入院の許可が下りたことを告げられて胸をなでおろした。
入院病棟は、くしくも十年前大腸癌で入院した時と同じA棟九階だった。病室は四人部屋で見晴しのいい窓際のベッドをあてがわれた。窓からは駿河台の街並みが一望できる。
明治大学の文字が掲げられたドーム型の屋根の建物が際立っているのだが、達也の関心はむしろその手前に見える御茶の水橋にあった。病院の起床は早朝の六時、十二月の街並みはまだ暗い。日が昇り、たなびく雲が朝日に照らされて明るくなっていく頃になると、通勤する人々が駅の改札口からまばらに散らばって行く姿が目につく。お茶の水駅から神田川に架かる橋をわたる人々の群れを、かつて通信会社に勤めていた頃の自分の姿と重ね合わせるように追った。自宅がまだ小岩にあった頃、総武線に乗って通勤していた頃、楽しかった日々の記憶がまたひとつ、けがされていく寂しさを達也は感じとっていた。
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